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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
序章

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序章006

 高校はエスカレーター式ではなかった。

 

 中学の同級生とは別々の学校へ進んだ。沢田は地元の公立、北川は工業高校、松本は私立の特進クラス。凪は自宅から電車で三十分の進学校に入った。父の母校だった。父から勧められたわけではない。ただ受験勉強をしていくうちに、自然とそこを目指していた。

 

 新しい環境に馴染むのに、時間はかからなかった。

 クラスに知り合いはいなかったが、凪には人と話すことへの抵抗がなかった。中学で身につけた「どこにでも混ざれる」感覚は高校でも有効だった。一ヶ月もすれば、昼食を一緒に食べる相手には困らなくなった。

 


 バスケ部に入ったのは、深い理由があったわけではない。

 部活見学の日、体育館で練習しているのを見て、悪くないと思った。剣道部もあったが、高校では別のことをやってみたかった。バスケの経験はほとんどなかったが、体を動かすことは好きだった。

 

 結論から言えば、凪はバスケが得意ではなかった。

 

 シュートの精度が上がらなかった。ドリブルは無難にこなせたが、試合になると判断が一手遅れた。レギュラーには二年生の終わりまで手が届かなかった。

 

 でも練習は休まなかった。

 

 才能がない代わりに諦めない、という中学の剣道で学んだことは、高校のバスケでも変わらなかった。上手くならなくても続けた。続けることで、チームの中での役割が見えてきた。シュートを打つより、動き回ってスペースを作る方が向いていた。地味な役割だったが、凪はそれを嫌だと思わなかった。

 

 三年生になってレギュラーに入ったとき、監督に「お前みたいなのが一番使いやすい」と言われた。褒め言葉かどうか迷ったが、褒め言葉として受け取った。



 図書館で奈々未に会ったのは、高校二年の秋だった。

 

 文化祭の二週間前、クラスの出し物の準備で必要な資料を探しに図書館へ行った。放課後の図書館は静かで、数人の生徒が思い思いの席に座っていた。

 

 凪は郷土史のコーナーで目当ての本を探していた。背表紙を順番に確認していると、同じ棚の向かい側に人がいることに気づいた。

 

 女子生徒だった。同い年か、一つ下か。凪と同じように背表紙を目で追っていた。制服は同じ高校のものだったが、凪には見覚えがなかった。

 

 特に意識したわけではない。ただ視界に入った。

 

 凪が目当ての本を見つけて棚から引き抜こうとしたとき、となりの本が一緒に傾いた。慌てて押さえたが、一冊が棚の向こう側へ落ちた。


 向かい側から「あ」という声がした。

 

 棚の隙間から見ると、落ちた本がその女子生徒の足元にあった。彼女は少し驚いた顔で本を見下ろしていた。

 

「すみません、拾ってもらえますか」と凪は言った。

 

 彼女は本を拾い上げ、棚の隙間からこちらへ差し出した。凪は受け取りながら「ありがとうございます」と言った。

 

 それだけだった。

 

 凪は目当ての本を持って、窓際の席に座った。



 資料を読み始めて三十分ほど経った頃、近くの席に人が来た。

 

 さっきの女子生徒だった。

 

 凪の近くに座ったのは偶然だろう。図書館の席は半分以上空いていたが、窓際の自然光が入る席はいくつかしかなかった。彼女は凪の存在をほとんど気にしていない様子で、持ってきた本を開いた。

 

 凪もそれ以上気にしなかった。資料に目を戻した。

 

 十分ほどして、隣から小さな音がした。見ると、彼女がシャープペンシルを落としていた。机の端から転がって、凪の足元に来ていた。

 

 凪は拾って差し出した。

「ありがとうございます」と彼女は言った。

 

 声は静かだった。驚くほど静かではなかったが、耳に残る声だった。

 

「さっきも」と凪は言った。

「え?」

 

「棚のところで、本を拾ってもらったので」

 彼女は少し間を置いて「ああ」と言った。「そうでしたね」

 

 そこで会話は終わった。

 

 お互いにまた手元に目を戻した。凪は資料の続きを読もうとしたが、なぜか少し集中が散った。理由はわからなかった。



 帰り際、図書館の出口で再び会った。

 

 凪が本を返却カウンターに返して出ようとしたとき、彼女も同じタイミングで出口に向かっていた。廊下に出たところで、自然に並ぶ形になった。

 

「同じクラスじゃないですよね」と凪は言った。

「違います。二組です」

 

「俺、四組で」

「知ってます」と彼女は言った。

 

 凪は少し意外に思った。「知ってるんですか」

「生徒会の掲示板に名前が出てたので」

 

 凪は一年生のとき、中学に続いて生徒会の書記をやっていた。確かに名前は掲示されていた。

 

「転校してきたとき、掲示板をよく見てたんです」と彼女は言った。「知ってる人がいなかったから、名前と顔を覚えようと思って」

 

「転校生なんですか」

「一年の終わりに。だから二年になってから初めてのクラスで」

 廊下の突き当たりで、進む方向が分かれた。彼女は左、凪は右だった。

 

「高原さん、でしたよね」と彼女は言った。

 

「そうです。あなたは」

「吉野です。吉野奈々未」

 それだけ言って、彼女は左へ歩いていった。振り返らなかった。

 

 凪はその背中を少し見てから、右へ歩いた。



 文化祭は二週間後に終わった。

 

 その間に奈々未と話したのは、図書館でもう一度会ったときだけだった。お互いに軽く会釈して、それだけだった。

 

 凪が奈々未を意識し始めたのは、文化祭の当日だった。

 

 クラスの出し物の準備で忙しく動き回っていた午前中、中庭を通ったとき、奈々未がベンチに座っているのを見た。一人だった。文化祭の賑やかさの中で、一人だけ切り取られたように静かにそこにいた。

 

 人混みの中で一人でいることを、苦にしていない様子だった。周りを見渡しているわけでも、スマートフォンを見ているわけでもなかった。ただそこに座って、どこかを見ていた。

 

 凪は声をかけなかった。

 かける理由もなかったし、タイミングも違った。ただ、その光景が頭に残った。

 

 賑やかな場所で一人でいる人間は、二種類いる。一人でいることを恥ずかしいと思っている人間と、一人でいることを苦にしていない人間。奈々未は後者に見えた。でも苦にしていないことと、望んでいることは違う。

 

 凪にはそのどちらかが、そのときはわからなかった。



 文化祭が終わり、季節は冬に向かった。

 

 凪は奈々未と廊下で会えば会釈をした。奈々未も会釈を返した。それ以上でも以下でもなかった。同じ高校の、顔を知っている相手。その程度の距離感だった。

 

 でも凪には、奈々未が少し気になっていた。

 

 なぜかと聞かれれば、うまく答えられなかった。声が耳に残っていた、とか。図書館での静かな様子が印象に残っていた、とか。文化祭で一人でいたのを見た、とか。どれも決定的な理由ではなかった。

 

 ただ、視界に入ると少し気になった。それだけだった。

 

 その「少し気になる」という感覚が、次の春に変わっていく。凪はまだそれを知らなかった。

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