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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
御方の祝福とともに I
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御方の祝福とともに I 009

 夏の終わりのカリオス平原は、まだ暑かった。


 カリオス平原は中央大陸の南側に広がる広大な草原地帯である。どこまでも続く緑の草が、風に揺れている。地平線が遠く、空が広い。雲が少なく、残暑の日差しが草原全体を照らしていた。乾いた草の匂いと、日差しに炙られた土の匂い。平原の匂いはその二つで出来ている。


 その草原の一角に、一人の竜人族の青年がいた。


 名をラグという。年の頃は十五、六ほど。竜人族の成人が二十年かかることを考えれば、まだ半人前だった。体格はすでに人族の成人男性を超えていたが、角はまだ細く、翼もまだ小さかった。


 その翼を広げて、ラグは助走をつけた。走った。草を踏みしめながら、全力で走った。翼を大きく広げた。飛ぼうとした。


 地面を離れた。一瞬だった。


 次の瞬間には、地面に激突していた。


「くそっ」


 草まみれになりながら、ラグは起き上がる。膝に泥がついていた。翼の先端が草に絡まっていた。丁寧に解いて、また立ち上がった。


 ラグは両親を驚かせるつもりだった。


 竜人族にとって、初めて空を飛ぶことは特別な意味を持つ。成人への一歩だった。親に「飛べた」と報告する日は、一つの節目だった。でもラグは、報告するより先に、いきなり両親の前で飛んで見せるつもりだった。


 だから誰にも言わずに、一人でここに来ていた。カリオス平原は家から少し離れた場所にあった。誰かに見られる心配が少なかった。練習するには丁度よかった。


 そのはずだった。


 草原から少し離れた木陰に、一人の竜人族の男がいた。


 名をコルトという。ラグの兄だった。年の頃は三十ほど。ラグより十五歳上で、すでに成人していた。角は立派で、翼も大きかった。体格はラグより一回り大きく、長年鍛えた体は頑丈だった。


 コルトは木の幹に背を預けて、草原の方を見ている。ラグはコルトの存在に気づいていなかった。そのつもりで動いていた。でもコルトはそこにいた。


 父親に頼まれたからだった。父はラグが秘密特訓を始めたことに、とっくに気づいていた。翼の傷の具合。草の匂い。帰ってきた時の疲れ方。長年生きてきた竜人族の父親には、わかることがあった。


「見ていてやってくれ」と言った。「怪我をしないように」


 コルトは頷いた。それだけだった。多くを語る必要はなかった。




 ラグが再び助走をつけた。今度は少し角度を変えた。翼の広げ方を変えた。前回より速く走った。


 飛ぼうとした。地面を離れた。また一瞬だった。


 今度は前に倒れた。両手をついてなんとか受け身を取ったが、草まみれになった。


「なんでだ」


 ラグは草の上に仰向けになる。空を見た。青い空だった。雲が少し流れていた。


 飛べるはずだった。翼はある。竜人族なら飛べるはずだった。なぜ飛べないのか。ラグは起き上がって、また翼を広げた。


 木陰で、コルトは口元を緩めた。懐かしかった。


 自分も同じだった。十五の頃、同じようにやっていた。一人で草原に来て、誰にも言わずに練習していた。何度転んだかわからなかった。草まみれになって帰ってきて、母に「どうしたの」と言われて「何でもない」と答えた。


 父も同じだったと、後から聞いた。同じ年頃に同じことをしていたらしい。彼の父、つまりコルトの祖父に頼まれた誰かが見守っていたという話を、父は笑いながら話してくれた。「おまえもラグも、俺に似たんだな」と。


 竜人族の家族の中で、同じことが三世代繰り返されていた。コルトは空を見上げた。青い空だった。


 ラグは三度目の助走をつけた。今度は力を込めた。思い切り翼を動かした。とにかく力を入れれば飛べるはずだと思っていた。竜人族は力が強い。力で解決するのが竜人族らしいやり方だと、どこかで思っていた。


 地面を離れた。少し長かった。二秒ほど浮いた。でも翼がうまく風を掴めなかった。力が入りすぎていた。翼が硬くなっていた。


 また地面に落ちた。今度は横向きに倒れた。


「くそ、くそ、くそ」


 ラグは起き上がって、翼の状態を確認した。傷はなかった。草が絡まっていた。また解いた。


 木陰で、コルトは心の中で呟いた。


 そうじゃない。力を抜け。


 もちろん声には出さなかった。ラグ自身が気づかなければ意味がなかった。教えてもらって飛べるより、自分で気づいて飛べる方が大事だった。それはコルトが自分の経験から知っていることだった。


 翼は力で動かすものじゃない。風を掴むものだ。力を入れすぎると、翼が硬くなって風を逃がす。柔らかく、でも確かに、風の流れに合わせて動かす。それが飛ぶということだった。でも、それはラグが自分で気づかなければならないことだった。


 コルトは木の幹に背を預けたまま、草原を見続けた。




 ラグは四度目の助走をつけた。


 走りながら、何かがおかしいと思っていた。力を入れれば飛べるはずなのに、飛べない。むしろ力を入れるほどうまくいかない。走りながら、少し考えた。


 翼の感触を確かめた。広げた時の感触が、いつもと違う気がした。硬い。翼が硬くなっていた。


 なんとなく、少し力を抜いてみた。意図的ではなかった。ただ、疲れていたから少し緩んだだけだった。


 その瞬間だった。


 風を掴んだ。翼が、風を掴んだ。地面を離れた。


 今度は違った。二秒ではなかった。三秒、四秒、五秒と続いた。体が浮いていた。草原が下に見えた。視界が広がった。


 草原が、全部見えた。どこまでも続く緑の草が、風に揺れていた。地平線が遠かった。空が近かった。


 風の音がした。翼に当たる風の音だった。今まで聞いたことのない種類の音だった。体が持ち上げられる感覚があった。落ちる感覚ではなかった。浮く感覚だった。


 ラグは翼を動かした。滑空した。


 草原の上を、飛んだ。


 十秒ほどだった。でもラグには、長い時間に感じた。草が下に流れていった。風が顔に当たった。翼が空気を掴んでいた。体が宙にあった。


 これが飛ぶということか、とラグは思った。


 力じゃなかった。風だった。風に乗ることだった。翼は風を掴むためにあった。力で押すのではなく、風に合わせて動かすものだった。頭ではなく、体がそれを理解した。


 着地した。盛大に転んだ。勢いがつきすぎていた。前のめりに倒れて、草の上を少し転がった。草まみれだった。


 でも笑っていた。転がったまま、笑っていた。止まらなかった。何がそんなに嬉しいのか、自分でもうまく説明できなかった。でも笑っていた。


 飛んだ。


 飛べた。


 草原の上を、飛んだ。


 木陰で、コルトは立ち上がりそうになった。堪えた。


 ラグが飛んだ瞬間、思わず体が動きかけた。でも堪えた。ここで出ていくのは違う。ラグの時間だった。邪魔をしてはいけなかった。


 草原の上を滑空するラグを、コルトは黙って見ていた。


 小さかった。ラグの翼は、まだ小さかった。成人した竜人族の翼と比べれば、まだ半分ほどの大きさだった。でもその小さな翼が、確かに風を掴んでいた。草原の上を、確かに飛んでいた。


 コルトは口を引き結んだ。笑いそうだった。笑ってはいけないと思ったが、笑いそうだった。弟が初めて飛んだ瞬間を、木陰から一人で見ている。そういう状況だった。


 十秒ほどで、ラグは着地した。盛大に転んだ。コルトは思わず口元を押さえた。


 前のめりに倒れて、草の上を転がるラグを見ながら、コルトは記憶を思い出していた。自分も同じだった。初めて飛んだ時、同じように転んだ。草まみれになって、でも笑っていた。あの時の感触を、今でも覚えている。翼に風が入った瞬間の感覚。体が持ち上げられた瞬間の驚き。


 ラグが転がったまま笑っていた。声は聞こえなかった。でも肩が揺れていた。笑っているのがわかった。


 コルトは静かに息を吐いた。


 よかった。


 その言葉が、自然に浮かんだ。




 ラグはしばらく草の上に寝転がっていた。空を見ていた。青い空だった。残暑の日差しが眩しかった。でも草の上は少し涼しかった。風が草を揺らしていた。


 さっき、あの風を掴んだ。翼で、風を掴んだ。


 ラグはもう一度翼を広げた。仰向けのまま、翼を広げた。風が当たった。翼が少し持ち上がった。そういうことか、とラグは思った。


 風に逆らうのではなく、風を使う。翼は道具だった。力ではなく、風を掴むための道具だった。


 ラグは起き上がった。草を払った。もう一度やれるか試してみようと思った。


 草を払いながら振り返ろうとして、ラグは気づいた。木陰に、人がいた。コルトだった。


「……見てたの」


 ラグは言った。驚いていた。声が少し高くなった。


「親父に頼まれた」


 コルトは木の幹から背を離して、草原に出てきた。淡々と言った。言い訳をするつもりがない口調だった。


「なんだよそれ」


 ラグは眉をひそめた。秘密特訓のつもりだった。誰にも言っていないつもりだった。親父にバレていた。兄にも見られていた。


「怪我しないように、って」

「怪我くらいするわ」

「そうだな」


 コルトは頷いた。否定しなかった。それがラグには少し意外だった。


 二人は並んで草原に立った。少し間があった。風が草を揺らす音だけがした。


「実は、親父も同じことしてたらしい」


 コルトが言った。


「え?」

「同じ年頃に、同じように秘密で翼の練習してたらしい。親父の親父、つまりじいちゃんに頼まれた誰かが、見守ってたって話だ」


 ラグは少し黙った。


「じゃあ兄さんも」

「俺も同じだった」


 コルトはあっさりと言った。


「おまえが生まれる前の話だ。同じように一人で草原に来て、同じように草まみれになって帰った」

「見てた人がいたの」

「いた。親父に頼まれた近所の人が」


 ラグはしばらく黙っていた。なんだよそれ、と思った。秘密特訓のつもりだったのに。でも怒る気にはなれなかった。


 短い沈黙のあと、コルトが口を開いた。


「よかったな」


 それだけだった。短い言葉だった。でも不器用に、少し笑いながら言った。コルトにしては珍しい顔だった。普段は表情を変えない男だった。


 ラグは少し面食らった。


「……まあ」


 そう答えた。それ以上は言わなかった。でも悪い気はしなかった。


 コルトはもう一度草原を見た。それから踵を返した。


「帰るぞ」

「先に帰りなよ」

「一緒に帰る」

「なんでだよ」

「帰り道で倒れたら困るからだ」


 ラグは少し黙った。


「倒れないよ」

「かもな。でも一緒に帰るぞ」


 コルトはそれ以上言わなかった。歩き始めた。ラグは少し遅れてついていった。草まみれのまま、二人で草原を歩いた。


 夕飯の食卓に、四人が揃っていた。父と母、コルトとラグ。竜人族の家族の食卓だった。肉が多かった。肉はご馳走だった。香草で下味をつけた焼いた肉の匂いが、家の中に満ちていた。


 ラグは草まみれのまま帰ってきて、母に何も言わずに着替えさせた。母は何も聞かなかった。でも目が笑っていた。


 食事が始まった。しばらく、普通の会話が続いた。今日の仕事の話。明日の予定。近所の話。竜人族の家族の、普通の夕飯だった。


 食事が半分ほど進んだ頃、ラグは少し間を置いてから言った。


「そういえば今日、飛べた」


 さりげなく言ったつもりだった。でも声が少し上ずっていた。


 父が顔を上げた。


「ほう」


 驚いたような声だった。でも目が笑っていた。完全に笑っていた。口元は驚いたふりをしていたが、目は全く驚いていなかった。


 母も顔を上げた。母は笑っていた。驚いたふりをする気もなかった。最初から笑っていた。


 ラグはしばらくその顔を見ていた。


「……知ってたくせに」


 父は少し間を置いてから答えた。


「何を」

「何をって」

「草原に行ってたのか。知らなかったな」


 声が笑っていた。全く説得力がなかった。


「バレバレじゃないか」


 ラグは言った。呆れていた。でも笑っていた。


「なんのことだ」


 父はまだ白を切っていた。でも口元が緩んでいた。


 コルトが肉を食べながら、何も言わなかった。でも肩が少し揺れていた。


 母が言った。


「練習、ずっとしてたのね」

「してない」

「草の匂いがしてたわよ」

「……練習、してた」


 ラグは降参した。食卓に笑いが広がった。


 父が笑った。母が笑った。コルトが珍しく声を出して笑った。ラグも笑った。


 笑いが収まった頃、父が言った。


「よかったな」


 兄と同じ言葉だった。でも父の声で言われると、少し違う重さがあった。ラグはその重さを、うまく言葉にできなかった。でもわかった。


 夜になった。家族が寝静まった後、ラグは一人で窓の外を見ていた。


 カリオス平原が暗闇の中にあった。昼間あそこで飛んだ。草まみれになった。風を掴んだ。


 ラグは胸の前で手を組んだ。


「語りの御方ナスレスク様」


 静かに言った。


「自由に飛べることが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」


 少し間を置いた。


「美しい平原を護り、そして俺たちにも分け隔てのない祝福を、ありがとうございます」


 それだけだった。言葉は短かった。でも、それで十分だった。


 竜人族は自由と尊厳を尊ぶ。空を飛ぶということは、その自由の一つだった。今日、ラグはその自由を初めて手に入れた。


 夜風が窓から入ってきた。ラグは翼を少し広げた。風が当たった。翼が少し動いた。昼間の感触が戻ってきた。


 ラグは翼を閉じた。また開いた。閉じた。


 明日、また練習しようと思った。今度は十秒じゃない。もっと長く飛ぼうと思った。


 窓の外では、カリオス平原の草が、夜風に揺れていた。

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