序章004
凪が剣道を始めたのは、小学二年生の春だった。
自分から言い出したわけではない。父の一言だった。ある日曜日、珍しく家にいた誠一郎が「何か習い事をしろ」と言った。理由は説明しなかった。佐和子が「何がいい?」と凪に聞いた。凪には特にやりたいことがなかった。ピアノでもそろばんでも水泳でも、どれも同じくらい興味がなかった。
「剣道はどうだ」と父が言った。
誠一郎は学生時代に剣道をやっていた。段位は持っていないが、高校まで続けたと聞いていた。凪は別に嫌でもなかったので「うん」と答えた。
翌週から近所の道場に通い始めた。
最初は正直、面白くなかった。
道場に入ると竹刀の持ち方から教わった。素振りを繰り返した。足の運び方を何度も直された。防具をつけて打ち合いができるようになるまで、半年近くかかった。その間ずっと、素振りと足さばきと礼儀だった。
同い年で入った子が三人、その間にやめた。
凪がやめなかったのは、意地だったかもしれない。あるいは単純に、やめると言い出すのが面倒だったのかもしれない。理由は自分でもよくわからない。ただ毎週土曜日に道場へ行き、言われたことをやり続けた。
変わったのは、防具をつけて初めて打ち合いをした日だった。
相手は二年先輩の五年生だった。体も大きく、竹刀の扱いも全然違った。最初の一本、面を打ちに行ったところを小手で返された。痛かった。次も同じだった。その次も。
でも凪は、その瞬間に初めて面白いと思った。
負けたからではない。打たれたとき、なぜ打たれたのかが見えた気がした。踏み込みが浅かった。竹刀の軌道が読まれていた。直せば変わる、という手応えがあった。
道場の帰り道、凪は翌週何を直すかを考えながら歩いた。
凪は器用ではなかった。
同じ道場に、飲み込みの早い子がいた。凪より半年遅く入ったのに、すぐに追いついてきた。体の使い方が自然で、教わったことをその場で形にできる。凪にはそれができなかった。一つのことを身につけるのに、人より時間がかかった。
でも凪には、繰り返すことへの抵抗がなかった。
同じ素振りを百回やれと言われれば百回やった。飽きないわけではない。途中で飽きながら、それでも続けた。続けることと、楽しむことは別だと、凪は早い段階で割り切っていた。楽しくなくても続けられる。続ければ変わる。変われば、少しだけ面白くなる。
そのサイクルを、剣道で学んだ。
小学四年生で初段を取った。五年生で二段。中学に入っても続け、二年生のときに三段になった。全国大会には届かなかったが、県大会には三回出た。突出した才能はなかったが、積み上げた時間だけは確かにあった。
剣道以外にも、凪はいくつかの習い事をした。
水泳は小学三年から五年まで続けた。タイムは平凡だったが、泳ぐこと自体は嫌いではなかった。英語は中学から塾で習い始めた。これは得意だった。語感を掴むのが早く、発音を褒められた。
体を動かすことは、全般的に苦にならなかった。
走るのも、持ち上げるのも、バランスをとるのも。特別速くも強くもなかったが、基礎体力は人並み以上にあった。中学のスポーツテストで、握力と反復横跳びだけ学年上位に入ったことがある。
剣道で鍛えた足腰と、体を動かし続けることへの慣れ。それが凪の土台だった。
努力が報われた経験を、凪は何度かした。
小学五年生の夏、道場の大会で初めて一回戦を突破した。相手は体が大きく、打ちが強かった。試合が始まって最初の一分、凪はひたすら距離をとって相手の癖を見た。打ちが強い分、空振りしたときの体勢が崩れる。そこを見計らって胴を打った。一本取った瞬間、道場の隅で見ていた師範が小さく頷いた。
それだけで十分だった。
頑張ったから勝てた、という単純な話ではないと、凪はわかっていた。相手の調子や、その日の自分のコンディションや、運の要素もある。でも準備をしていなければ、あの一本は生まれなかった。積み上げたものが、ある瞬間に形になった。
その感覚が、凪の中に残った。
やり続ければ、どこかで形になる。形になるかどうかはわからなくても、やり続けることはできる。それだけは自分で決められる。
子どもらしくない達観かもしれないと、大人になってから思った。でも凪には、それが自然だった。報われるかどうかより、やり続けることのほうが先にあった。
中学二年の秋、剣道部の顧問に言われた言葉がある。
「お前は才能がない代わりに、諦めない」
褒め言葉かどうかわからなかった。でも凪はそれを、褒め言葉として受け取った。
才能がないことは自分でもわかっていた。飲み込みの早い人間が隣にいれば、遅い自分が見えた。でも諦めないことは、才能とは別の話だ。諦めるかどうかは、自分で決められる。
才能のある人間には勝てないかもしれない。でも才能のある人間が諦めた後も、自分は続けられる。
凪はそう考えていた。
その考え方が正しかったかどうかは、わからない。
でもその考え方が、後に凪を生かした。何もない異世界の遺跡で、一人で目を覚ましたとき。諦める前に、まず動こうとしたのは、あの道場で身につけた何かだったと思う。




