表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
序章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/17

序章003

 母との時間は、音が小さかった。

 

 父との記憶には輪郭がある。節目の日、特別な夜、交わした言葉の重さ。でも母との記憶は輪郭より先に、温度や匂いで思い出す。台所の灯りの色。お茶の湯気。シャンプーの香り。声というより、声の質感。

 

 佐和子は声を張らない人だった。笑うときも、驚くときも、音量がほとんど変わらない。静かに笑って、静かに驚いて、静かに心配した。凪はその声の均一さが、子どもの頃から好きだった。



 寝る前は必ず母が来た。

 

 小学校の低学年の頃は、絵本を読んでくれた。高学年になってからは、ただ部屋に来て少し話して出ていった。中学になっても、その習慣は続いた。さすがに中学生にもなれば友人に言えるものではなかったが、凪は別にやめてくれとも言わなかった。

 

 たいていは短い話だった。

「今日はどういう一日だった」と佐和子が聞く。

 

「普通」と凪が答える。

 

「何か嫌なことあった?」

 

「別に」

「そう」

 

 それで終わることも多かった。でも佐和子はそれで満足そうだった。答えの内容より、声を聞くことが目的なのかもしれないと、凪はあるとき思った。

 

 話が続くときもあった。

 小学五年生のある夜、凪はクラスの友人と些細なことで揉めて、翌日どうすればいいかわからなかった。布団の中でぐるぐると考えていたところへ佐和子が来て、いつも通り「今日はどうだった」と聞いた。

 

「ちょっとめんどくさいことがある」と凪は言った。

 

「話せる?」

「うん」

 

 佐和子はベッドの端に腰かけて、凪の話を聞いた。友人が何をしたとか、自分が何を言ったとか、それがどうして嫌だったとか。話しながら凪は、自分でも整理できていなかったことが少しずつ形になっていくのを感じた。

 

 佐和子は途中で口を挟まなかった。相槌だけ打ちながら、最後まで聞いた。

「どうしたいと思う?」と、凪が話し終えてから聞いた。

 

「仲直りはしたい。でも自分が全部悪かったとは思わない」

 

「そうね」と佐和子は言った。「どっちが悪いかより、仲直りしたいかどうかのほうが大事なんじゃない?」

 

 凪はしばらく考えた。「そうかもしれない」

 

「明日、話しかけてみたら」

「うん」

 

 それだけだった。解決策でも正論でもなく、ただ「話しかけてみたら」。でも凪にはそれで十分だった。翌日、凪は友人に話しかけた。相手も話しかけてくることを待っていたらしく、あっさり仲直りした。

 

 その夜また佐和子が来たとき、凪は「仲直りできた」と言った。

 

 佐和子は「よかった」とだけ言って、頭を一度撫でて部屋を出た。


 

 母は料理が上手かった。

 

 家には家政婦が週に三日来ていたが、夕食だけは佐和子が作ることにこだわっていた。理由を聞いたことがある。

 

「食べることって、生きることに一番近いでしょう」と母は言った。「そこだけは自分でやりたいの」

 

 凪にはその言葉の意味が、子どもの頃は半分しかわからなかった。

 

 佐和子の料理は派手でなかった。煮物、焼き魚、味噌汁。どこにでもある家庭の献立。でも味が安定していた。いつ食べても同じ味がした。その安定が、凪にとっての「家」の味だった。

 

 中学の頃、学校の調理実習で卵焼きを作った。甘くて、少し焦げて、形が歪だった。家に持って帰って母に見せると、佐和子は「食べていい?」と言って、その場でひとくち食べた。

 

「美味しいわ」と言った。

「嘘つかなくていい」と凪は言った。

 

「本当に美味しいわよ。不格好なのは愛嬌」

 佐和子は残りも全部食べた。凪はそれを見ながら、少しだけ照れた。


 

 凪が高校生になった頃から、夜の会話は少し変わった。

 

 佐和子が話を聞くだけでなく、自分のことも話すようになった。子どもの頃の話、父と出会った頃の話、凪が生まれた夜の話。

 

「お父さん、病院の廊下で泣いてたって聞いた」

「聞いたの?」と佐和子は少し驚いた顔をした。

 

「前に話してくれた」

「そう」と佐和子は笑った。「あの人が人前で泣くのを、後にも先にもあの一回しか見てない」

 

「なんで泣いたんだろう」

「さあ。怖かったんじゃないかしら。嬉しかったのと、怖かったのと、両方」

 

「何が怖いの」

 佐和子はしばらく考えてから「大事なものができることじゃないかしら」と言った。「失うのが怖くなるから」

 

 凪はその言葉を、そのときはうまく飲み込めなかった。大事なものができると、失うのが怖い。当たり前のことのように聞こえて、でもどこか遠い話のような気もした。

 

 後になって、凪はその言葉を何度も思い出す。

 

 失う怖さを、凪は大人になってから身体で知った。だからあの夜の母の言葉が、ずっと耳に残っている。


 

 佐和子は凪に多くを求めなかった。

 

 いい成績を取れとも、立派になれとも、会社を継げとも言わなかった。ただいつも、凪の話を聞いた。凪がそこにいることを、当たり前のように受け入れた。

 

 それがどれほど稀なことか、凪は長いこと気づかなかった。

 

 母という人間は、凪にとって空気に近かった。なくなるまで、その重さがわからない種類のもの。

 

 寝る前の短い会話。台所の灯り。静かな笑い声。

 

 凪の中に積み重なった、音の小さな記憶たち。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ