序章021
書き直しました。20260329
職場に戻ったのは、両親が亡くなってから五日後のこと。
葬儀を終え、必要な手続きをひと通り済ませ、弁護士と一度話し合いをして、それから凪は会社に連絡を入れる。メール。短い文面。「来週から出社します」。送信ボタンを押す。押した後に、もう少し丁寧に書くべきだったかと思う。でも書き直す気力がない。
田中部長から返信が来る。「無理するな」。部長も短い。いつも通り。
戻る、と決めたのは凪自身。
家にいても何もできない。できることがない。遺品の整理は弁護士に任せてある。行政手続きも弁護士が代行してくれる。凪がやるべきことは、今のところ何もない。何もないまま家にいると、考えが止まらなくなる。五人の葬儀のこと。母の手紙のこと。父の手紙のこと。冷蔵庫の煮物のこと。読みかけの本のこと。全部が頭の中を巡り続ける。
奈々未はもうすぐ予定日。十一月の下旬。あと一月と少し。奈々未のそばにいるべきかとも思う。でも奈々未が「行ってきなさい」と言う。
「仕事をしている方があなたらしい」
あなたらしい。その言葉を、凪は少し考える。仕事をしている自分が、自分らしいのか。何かをしている自分が、何もしていない自分より、自分に近いのか。たぶんそうなのだろう。凪は中学の頃から「やり続ける」人間だった。止まっているより動いているほうが、まだ自分を保てる。
出社した朝、エレベーターで同僚と乗り合わせる。
同じ部署の、一年先輩。三十代前半。軽く話す程度の間柄。飲み会で隣になれば話すが、仕事以外で連絡を取ることはない。その程度の距離感。
先輩は凪を見て、一瞬だけ目が止まる。止まって、すぐに動く。
「お、戻ってきたか」
声のトーンが少し高い。普段より少しだけ明るい。意識して明るくしている声。凪にはそれがわかる。この数ヶ月で、人の声の温度を読む精度が上がっている。望んで上がったわけではないが。
「はい」と凪は言う。
「大変だったな」と先輩は言う。
大変だったな。
その言葉が、凪の中で引っかかる。何を指しているのか。両親のことなのか。会社の不祥事のことなのか。その両方なのか。「大変だったな」はどちらにも使える便利な言葉。どちらを指しているかを明示しないまま、同情を表明できる。
聞けない。聞く必要もない。どちらを指していても、凪の返答は同じ。
「ありがとうございます」
エレベーターの扉が開く。先輩は「まあ、ぼちぼちやれよ」と言って先に歩いていく。
悪意はない。気を遣ってくれている。「大変だったな」も「ぼちぼちやれよ」も、善意の言葉。善意の言葉が、凪にとっては少し重い。善意であることがわかるから、重い。善意に対して「重い」と感じている自分が、少し嫌になる。
部署のフロアに入る。自分の席に向かう。
廊下を歩きながら、周りの視線を感じる。感じている気がする。実際に見られているのか、凪が勝手にそう思っているのか。半年前なら「気のせいだ」で済ませられた。今は済ませられない。視線があるかもしれない。ないかもしれない。どちらかわからないまま、歩く。
自分の席に座ると、机の上は出る前のまま。
書類が積まれている。凪が不在の間に他の誰かが処理してくれたものもあるが、凪しかわからない案件の書類がそのまま残っている。メールが溜まっている。パソコンを開くと、未読メールの数字が三桁。
凪はメールを一通ずつ開いて処理する。仕事の続きをやろうとする。普通にしようとする。普通の社員が、普通に出社して、普通に仕事をしている。それだけのこと。
午前中は、それでなんとかなる。書類を処理して、メールに返信して、必要な確認をする。機械的にこなせる仕事は、機械的にこなす。頭を使わなくていい仕事が、今はありがたい。考えなくていいから。手を動かしていれば、考えが止まる。
昼休みになる。
いつも一緒に食べていた同期に声をかける。凪の方から。
「飯、行くか」
同期は少し間を置く。間がある。以前はなかった間。「行くか」と言えば「行こう」と即答する関係だった。その即答がなくなっている。
「ごめん、今日は用事があって」
用事。用事があるのかもしれない。本当に用事があるのかもしれない。でも凪には、その「用事」が本物かどうかを確かめる手段がない。確かめようともしない。確かめたら、関係が壊れる。「本当に用事?」と聞いた瞬間に、凪と同期の間にある薄い膜が破れる。破れたら、戻せない。
「そうか」と凪は言う。
別の同期を探す。席を見回す。もう一人に声をかける。
「先約があって」
先約。
もう一人の同期は席にいなかった。すでに出ている。
凪は一人で昼食を食べる。社員食堂の隅の席。定食のトレイを持って、空いている席に座る。隅の席。壁際。周りに人が少ない場所。
定食。白い飯。味噌汁。焼き魚。ほうれん草のおひたし。母が作る食卓の品数には及ばないが、栄養は取れる。
味噌汁を一口飲む。味がする。出汁の味。合わせ味噌。母の味噌汁とは違う味。社員食堂の味噌汁。没個性的な味。でも温かい。温かさだけは同じ。
周りの声が聞こえている。笑い声。仕事の話。週末の話。プロ野球の話。どうでもいい話。どうでもいい話が、今の凪にはひどく遠く聞こえる。あの声の輪の中に、凪の席はない。以前はあった。以前は凪もあの中にいて、一緒に笑って、一緒にどうでもいい話をしていた。
今はいない。
一人で焼き魚を食べる。骨を取る。身をほぐす。口に入れる。噛む。飲み込む。全部の動作が、一人。隣に誰もいない。向かいにも誰もいない。
食べ終わって、トレイを返却口に持っていく。返却口で、別の部署の男と目が合う。知らない顔。でも男は凪の顔を一瞬見て、すぐに目を逸らす。偶然か。凪の顔を知っているのか。知っていて、目を逸らしたのか。
わからない。わからないまま、席に戻る。午後の仕事を始める。
午後、田中部長に呼ばれる。
部長は来月で異動になると、先週聞いた。凪がいない間に決まったらしい。異動の理由は聞いていない。聞かなくてもわかる。わかる気がする。わからないほうがいいかもしれないが。
「体は大丈夫か」と部長は言う。
「大丈夫です」と凪は答える。
部長は少し間を置く。いつもの間。部長はもともと言葉が少ない。でも今日の間は、いつもより長い。言いにくいことを言おうとしているときの間。
「研修の件だが」
凪は黙って聞く。あの研修。選抜研修。「期待しているよ」と言われたあの研修。部長が凪を推薦してくれたあの研修。凪が大阪で受けていたとき、母からの電話が来たあの研修。
「今期は見送ることになった」
それだけ。理由は言わない。凪も聞かない。
見送り。
消えた、とは言わない。見送り。先送り。今期ではない、いつか。いつかとは、いつか。来期か。再来期か。永久にか。
部長の顔に悪意はない。むしろ申し訳なさそうな顔をしている。眉がわずかに下がっている。口元が少しだけ歪んでいる。言いたくないことを言わなければならない人間の顔。
状況を考えれば、仕方のないこと。高原製薬の不祥事が連日報道されている中で、その社長の息子を選抜研修に送り出すことへの、社内外のリスク。取引先が知ったらどう思うか。研修先の企業が知ったらどう思うか。リスクがある。リスクがあるから、見送る。
凪にはそれがわかる。
「わかりました」と凪は言う。
「来期、また考える」と部長は言う。
来期。部長は来月で異動する。来期に部長はここにいない。「来期また考える」は、部長の言葉ではなく、後任への引き継ぎ事項としての言葉。引き継がれるかどうかは、後任次第。
凪は「はい」と言って、席に戻る。
席に戻りながら、何かが静かに消えた感覚がある。音のない消失。研修が消えた。期待が消えた。「期待しているよ」が消えた。あの言葉が凪の中にあった。支えの一つだった。仕事の中で、少なくとも「期待されている」という事実が、凪を支えていた。それが消えた。
消えたことに怒りはない。悲しみもない。ただ、なくなった。あるはずのものが、なくなった。
その日の夕方、給湯室でお茶を入れていると、別の部署の社員が二人入ってくる。
凪の存在に気づいていない。凪は給湯室の奥にいて、二人は入り口に近い側にいる。背中を向けている。二人は話しながら入ってくる。
「……高原くん、戻ってきたんだって」
「そうらしい。今日から」
「なんか、気まずくない?」
「まあね。でもこっちが気にしすぎても」
凪はカップを手に持ったまま、動かない。二人の声が聞こえている。声が近い。三メートルほどの距離。
「つーかさ、このタイミングで戻ってくるのもすごいよな」
「まあ、仕事はしなきゃだし」
「そりゃそうだけど。俺だったら、しばらく無理だわ」
凪がカップを持って振り返ると、二人が気づく。一瞬だけ、空気が固まる。凍結する。二人の表情が止まる。口が半開きのまま、止まる。
「お疲れ様です」と凪は言う。普通の声で。できるだけ普通の声で。
「お、お疲れ様です」と一人が言う。声が裏返りかけている。
凪は給湯室を出る。廊下を歩く。カップを持つ手が、少し強くなっていることに気づく。力を抜く。カップが割れるほどではないが、指の関節が白くなっている。
『気まずくない?』
その言葉が、頭に残る。
気まずい。そう、気まずい。凪がいると気まずい。高原製薬の社長の息子がいると、場の空気が変わる。何を話せばいいかわからなくなる。話題を選ばなければならなくなる。ニュースの話はできない。家族の話も避けたほうがいいかもしれない。仕事の話だけに限定しなければならない。それが気まずい。
気まずいと思っているのは向こうだけではない。凪も気まずい。凪も、あの場にいることが気まずい。でも凪には、気まずいと言える相手がいない。あの二人は、互いに「気まずいよね」と共有できる。凪はそれを共有する相手がいない。
帰り道、凪は電車に乗らずに歩く。二駅分。十一月の夜の空気が、コートを通して入ってくる。冷たい。手が冷える。ポケットに手を入れる。
研修が消えた。部長が消える。同期が昼食を断る。給湯室で「気まずい」と言われる。全部、小さなこと。一つ一つは、人生を変えるほどの出来事ではない。でも全部が同じ方向を向いている。凪を中心から外へ押し出す力。遠心力。ゆっくりと、少しずつ、凪は輪の外に出ていく。
翌日、岡田が声をかけてくる。
岡田は入社同期の中で、凪と最も話す機会が多かった人間。不祥事が発覚してからも、距離を置かなかった数少ない一人。最近は忙しいのか、あまり話せていなかった。凪が休んでいた間も、一度だけメッセージが来た。「何かあれば連絡くれ」。短い。でもそれだけで十分だった。
「最近どうだ」と岡田は言う。昼休み。社員食堂の入り口で。
「まあまあだ」と凪は答える。
岡田は少し迷ってから「正直に言う」と言う。
「言ってくれ」
「みんな、どう接すればいいかわからないんだよ」
凪は黙って聞く。
「お前のこと嫌いなわけじゃない。ただ、話しかけて、それが変に思われたら困るって思ってる人が多い」
変に思われる。凪と仲良くしていると思われる。高原製薬の社長の息子と親しいと思われる。それが社内でどう見られるか。取引先にどう見られるか。そういう計算が、無意識のうちに働いている。
「俺も正直、最初はそう思ってた」と岡田は続ける。「でも、それは違うと思ったから」
「何が違う」
「お前は何もしてない」
岡田がそう言う。目を見て言う。岡田の目は真っ直ぐ。奈々未の目に似ている。似ているわけではないが、真っ直ぐなところが同じ。
「それはみんなわかってる。わかってるけど、距離を置く。その方が楽だから」
楽。その言葉に、凪は少し引っかかる。楽。距離を置くほうが楽。考えなくて済むから。気を遣わなくて済むから。傷つくリスクが減るから。楽。
「俺はそれが嫌だと思った、それだけだ」
凪はしばらく黙る。岡田の言葉を、一つずつ噛み砕いている。みんなわかっている。わかっているけど距離を置く。岡田はそれが嫌だと思った。だから話しかけてきた。
「ありがとう」と凪は言う。
「礼を言われるようなことじゃない」と岡田は言う。「ただ、話しかけたかっただけだ」
その日の昼食を、岡田と二人で食べる。特別な話はしない。仕事の話。新しく入った後輩が面白い奴だという話。社員食堂のメニューが来月から変わるという話。少し笑える話。
久しぶりに、職場で笑う。声に出して笑ったのは、いつ以来か。思い出せない。岡田の話が特別に面白いわけではない。でも誰かと一緒にトレイを挟んで座って、どうでもいい話をして、笑う。その行為自体が、今の凪には貴重だった。
でもそれは、例外。
岡田以外との距離は、縮まらない。岡田が凪と一緒に食堂を歩いているのを見て、他の同期が少し意外そうな顔をしている。凪はそれを見る。岡田はそれを気にしていない様子。凪は気にする。
ある日「岡田は大丈夫か」と凪は聞く。
「何が」と岡田は言う。
「俺と話してると、何か言われるんじゃないかと思って」
岡田は少し考えてから「言われてたとしても、俺には関係ない」と言う。
それだけ。
凪はその言葉を、ありがたいと思う。同時に、そう言い切れる岡田と、そう言い切れない自分の違いを、少し考える。
岡田には、凪との距離を縮めることで失うものより、失わないことのほうが大事だと思える何かがある。正義感なのか。友情なのか。ただの性格なのか。凪にはわからない。わからないが、岡田がそこにいることは確かで、それだけで少し息ができる。
でも岡田一人では、凪の孤立は変わらない。
会議で発言しても広がらない。情報が流れてこない。昼食に誘っても断られる。給湯室に入ると会話が止まる。全部が続いている。毎日続いている。
誰も悪くない。
誰も悪くないのに、凪は一人。
その構造が、凪には一番きつい。
怒りをぶつける相手がいない孤立は、怒りをぶつけられる孤立より、ずっと静かで、ずっと重い。遺族に怒鳴られたとき、凪は少なくとも「受け取る」ことができた。受け取ることは苦しいが、行為としては成立する。相手がいて、怒りがあって、凪が受け取る。三者の間に、何かが流れている。
でも今の孤立には、流れがない。誰も怒っていない。誰も凪を責めていない。ただ距離を置いている。距離を置くことは行為ですらない。何もしていない。何もしないことによって、凪は一人になっている。
何もしないことに対して、凪は何もできない。
帰り道、電車に乗る。窓の外を見る。暗い街。十一月の夜。街路樹の葉が落ち始めている。枯れ葉が歩道に散っている。
家に帰ると、奈々未が「どうだった」と聞く。
「普通だった」と凪は言う。
嘘ではない。今日起きたことは、全部「普通」の範疇。同期に昼食を断られるのも、研修を見送られるのも、給湯室で気まずいと言われるのも。全部、普通のこと。劇的な出来事は一つもない。凪を殴った人間はいない。怒鳴った人間もいない。ただ、少しずつ、静かに、輪の外に出ていった。それだけの一日。
奈々未は凪の顔を少し見てから「そう」と言う。それ以上聞かない。
凪は奈々未の隣に座る。ソファ。いつもの場所。いつもの距離。肩が触れるか触れないかの距離。
座った瞬間に、体の力が抜けていくのがわかる。肩が下がる。顎の噛み締めが緩む。朝からずっと——いや、家を出た瞬間から——体のどこかに入っていた力が、ここに座った瞬間に抜けていく。
職場では力が入っている。常に。少しだけ。一ミリの防壁を維持するために、体のどこかが緊張し続けている。エレベーターで同僚と乗り合わせるとき。会議で発言するとき。給湯室に入るとき。廊下を歩くとき。全部の場面で、体が少しだけ硬い。
ここでは硬くない。
奈々未の隣では、硬くならなくていい。防壁がいらない。一ミリの距離がいらない。ゼロでいい。ゼロになれる場所が、ここしかない。
凪はそのことに、改めて気づく。今日、改めて。
職場に居場所がなくなった。昼食を一緒に食べる相手がいなくなった。会議で発言しても、その先に誰もいない。情報が流れてこない。給湯室に入ると空気が変わる。全部、今日一日で確認したこと。
でも家に帰ると、奈々未がいる。「おかえり」と言ってくれる。「どうだった」と聞いてくれる。凪が「普通だった」と嘘をついても、それ以上聞かないでいてくれる。聞かないことで、凪を守っている。
奈々未のお腹に手を当てる。
動いている。
中から、小さな動きがある。掌の下で、何かが押している。肘か。膝か。かかとか。わからない。でも確かに動いている。生きている。この手の下で、生きている。
温かい。
十一月の夜。外は冷えている。凪の手は冷たい。二駅分歩いて帰ってきた手。ポケットに入れていたのに、まだ冷たい。その冷たい手を、奈々未のお腹の上に置いている。奈々未は何も言わない。冷たいとも言わない。置かせてくれる。凪の冷たい手が、奈々未の体温で少しずつ温まっていく。
この感覚を、凪は名前のないまま知っている。安心でもない。安堵でもない。幸福でもない。もっと原始的な何か。呼吸ができる、ということに近い。水面から顔を出して、空気を吸い込む瞬間。それに似ている。
一日中水の中にいて、夜ここに帰ってきて、やっと顔を出す。息を吸う。奈々未の隣で。
奈々未がいなかったら、と考えることがある。考えたくないが、浮かぶことがある。
奈々未がいなかったら、この部屋に帰ってきて、誰もいない。「おかえり」がない。「どうだった」がない。冷たい手を温めてくれる体温がない。お腹の動きがない。
帰る場所がない。
実家には両親がいない。もういない。職場には居場所がない。友人——沢田や北川とは、高校を出てからほとんど連絡を取っていない。松本とも疎遠になった。凪の世界は、この数年で狭くなっていた。それでも大丈夫だったのは、その狭い世界の中に、確かなものがあったから。両親がいた。仕事があった。奈々未がいた。
両親がいなくなった。仕事は形だけ残っている。
残っているのは、奈々未。
奈々未だけが、凪の世界に残っている。
その事実が、凪を支えている。同時に、凪を怖がらせている。
一つしかないものは、失ったら終わる。一つしかないから大切にする。大切にするから、失うことが怖い。父が言っていた——正確には母が言っていたのを、凪が覚えている——「大事なものができると、失うのが怖くなるから」。あのとき凪にはわからなかった。今はわかる。身体でわかる。
奈々未がいなくなったら。
その想像が頭をよぎるたびに、凪は振り払う。振り払って、目の前の現実に戻る。目の前の現実。奈々未のお腹の上にある、自分の手。その手の下で動いている命。温かさ。
これが現実。これだけが現実。
職場の孤立も、研修の見送りも、給湯室の会話も、全部が現実ではある。でもこのソファの上で感じている温かさのほうが、ずっと濃い現実。ずっと確かな現実。あちらの世界はぼんやりしていて、こちらの世界だけが輪郭を持っている。
奈々未が凪の肩に、頭を預ける。
重さ。軽い重さ。奈々未の頭の重さ。髪の毛が凪のシャツの肩に触れている。シャンプーの匂いがする。奈々未のシャンプー。花の匂い。何の花かは知らない。凪が嗅ぎ分けられるのは「奈々未の匂い」ということだけ。
「疲れた?」と凪は聞く。
「少し」と奈々未は言う。「凪くんのほうが疲れてるでしょ」
「そうでもない」
「嘘つき」
嘘つき。母も同じことを言っていた。最後の電話で。凪が「心配してない」と言ったとき、母は「嘘つき」と笑った。奈々未も笑っている。声に笑いが含まれている。二人の「嘘つき」が、凪の中で重なる。
奈々未は母に似ていない。外見も、性格も、育ちも、全く違う。でも凪の嘘を見抜く精度が同じ。嘘を見抜いた上で、責めずに笑う温度が同じ。凪を透明にする力が同じ。
「ここにいると」と凪は言う。言いかけて、止まる。
「ここにいると?」
「……息ができる」
奈々未は少し黙る。頭を凪の肩に預けたまま、黙っている。
「私も」と奈々未は言う。「凪くんがいると、息ができる」
凪は少し驚く。凪が奈々未に支えられていると思っていた。凪が奈々未を必要としていると思っていた。でも奈々未も同じことを感じている。奈々未にとっても、凪がいることが、息をするための条件になっている。
施設で育った奈々未。家族がいなかった奈々未。「自分の家族を作りたい」と言った奈々未。その奈々未が「凪くんがいると息ができる」と言っている。凪がいることで、奈々未も呼吸している。
支え合っている、というのとは少し違う。もっと深い場所で、二人の呼吸が繋がっている。片方が息を吸えなくなったら、もう片方も吸えなくなる。そういう繋がり方をしている。
それが怖い。でもそれがないと、生きていけない。
お腹の中で、また動く。今度は少し大きい。ぐにゅ、と掌を押し返すような動き。
「今のすごかったね」と奈々未が言う。
「ああ」
「元気だね、この子」
元気。お腹の中の子が元気。その事実が、夜の部屋の中で、小さな灯りのように光っている。周りが暗くても、この灯りは消えない。消えないでいてほしい。消さないでいたい。
凪は手を置いたまま、目を閉じる。
明日も出社する。明日も一人で昼食を食べるかもしれない。岡田が声をかけてくれるかもしれない。給湯室で会話が止まるかもしれない。全部、起きるかもしれない。
でも夜、ここに帰ってくれば、この動きがある。この温かさがある。奈々未の頭の重さがある。シャンプーの匂いがある。「嘘つき」と笑ってくれる声がある。
世界が凪を外に押し出し続けても、ここだけは内側に引き込んでくれる。遠心力の反対。求心力。凪をここに留めておく力。
それだけで、今は十分。
十分であってほしい。
十分であると思わなければ、明日の朝、ネクタイを締められない。
明日も20時に投稿します。




