序章020
書き直しました。20260329
葬儀は家族葬にする。
決めたのは凪。選択の余地はほとんどなかった。社会的な事情を考えれば、大きな葬儀を開ける状況ではない。報道陣が来るかもしれない。被害者遺族が来るかもしれない。それは父と母が望む形ではないと、凪は思う。
二人がどんな葬儀を望んでいたかは、聞いていない。聞いたことがない。生前にそんな話をしたことがない。凪は二十代で、両親は五十代と四十代。葬儀の話をする年齢ではなかった。死ぬ予定がなかったから。
葬儀社に連絡する。電話。名前を言って、状況を説明する。「ご家族様ですか」と聞かれる。「息子です」と答える。「ご愁傷さまでございます」と言われる。その言葉が、受話器を通して、凪の耳に入る。ご愁傷さま。丁寧な言葉。丁寧だが、温度がない。業務の一部として発せられた言葉。
日程を決める。場所を決める。祭壇の規模を決める。棺の種類を決める。花の種類を決める。遺影の写真を選ぶ。全部、凪が決める。
奈々未が隣にいる。凪が電話している間、ずっとそこにいる。テーブルの前に座って、メモ帳を開いている。凪が話す内容を、メモしている。日時。場所。金額。必要なもの。持っていくもの。全部、奈々未がメモしている。
凪が電話を切ると、奈々未がメモを見せる。「これで合ってる?」と聞く。凪はメモを確認する。合っている。全部合っている。奈々未は正確にメモを取る人間。聞き漏らしがない。凪が忘れていることまで書いてある。
「ありがとう」と凪は言う。
「うん」と奈々未は言う。
お腹が大きい。椅子に座っていると、テーブルとの間にお腹が当たりそうになる。少し椅子を引いて座っている。それでもそこにいる。凪が電話している間、一度も席を立たない。
連絡を入れる親族は少ない。
父方の祖父は数年前に他界している。父方の親族とは、不祥事が発覚してから連絡が取りにくくなっている。電話をかけても出ない親族がいる。留守番電話にメッセージを入れても、折り返しが来ない。凪のことを避けているのか、高原という苗字を避けているのか。たぶん両方。
母方の親族は、叔母が一人いる。母の姉。帯広に住んでいる。電話をかけると、三コール目で出る。
「凪ちゃん?」
叔母の声がする。明るい声。でもすぐに「何かあったの」と続ける。凪が電話をかけてくることが珍しいから。凪と叔母は、正月に年賀状を交わす程度の関係。電話をかけるのは、何かあったとき。
凪は話す。話しながら、声が途切れる。途切れるたびに、少し間を置いて、続ける。全部話し終えるまでに、何度途切れたかわからない。
叔母は黙って聞く。途中で一度だけ、小さな声が漏れる。嗚咽の手前の、短い息。でもすぐに飲み込んで、続きを待つ。
話し終えると、叔母は「行くわ」と言う。「いつ?」
日時を伝える。叔母は「わかった」と言う。それだけ。あれこれ聞かない。聞く余裕がないのか、聞くより先に来ることを選んだのか。
来てくれると言った親族は、叔母だけ。
葬儀の日、来たのは五人。
凪と奈々未。母の姉の叔母。葬儀社のスタッフ。そして弁護士が一人、手続きのために来た。
五人で、二人を送る。
式場は小さかった。家族葬用の、十人も入れば窮屈になる部屋。椅子が三列並んでいて、前の列に凪と奈々未が座る。後ろの列に叔母が座る。弁護士は端の椅子に座って、書類に目を通している。
祭壇に並んだ花は白。菊と百合。花の匂いが、部屋全体に漂っている。甘い匂い。少し重たい匂い。窓のない部屋で、花の匂いが行き場をなくして、天井の近くまで上がっている。
父の遺影。数年前に撮った写真を使った。スーツを着て、少し口角が上がっている。誕生日の夜、洋食屋で凪が撮ったもの。ビーフシチューを食べている最中で、凪が「写真撮っていい?」と聞いたら、父は「好きにしろ」と言った。そのときの顔。仕事の顔ではない。少しだけ緩んだ顔。
母の遺影。家族で出かけたときの写真を使った。どこへ行ったか、正確には覚えていない。近くの公園か、どこかの庭園か。佐和子が珍しく声を出して笑っている写真。口が開いていて、目尻が下がっている。いつもの控えめな笑い方ではなく、何かに本当に可笑しくなって笑っている顔。
凪はその二枚の遺影を、式の間中見ている。
父の口角。母の笑い声が聞こえてきそうな写真。あの頃はまだ、何も起きていなかった。父の会社は健在で、母は一人ではなかった。凪は奈々未と暮らし始めたばかりで、未来は開けていた。
いつの写真か、正確にはわからない。でもあの頃の空気は覚えている。普通の空気。幸せという言葉を使うまでもない、ただの普通の日常の空気。
読経が始まる。僧侶の声が、小さな部屋に響く。低い声。一定のリズム。凪はその声を聞きながら、遺影を見ている。
叔母は式の間、何度か泣く。
声を出さずに泣いている。肩が震えている。ハンカチで目を押さえている。白いハンカチ。叔母の手は母の手に似ている。指の形が似ている。姉妹だから当然かもしれない。でも凪はそのことに今初めて気づく。母の手に似た手が、白いハンカチを目に当てている。
式が終わる。
叔母が奈々未のところへ来る。奈々未の手を取って、両手で包む。母が奈々未のお腹を両手で包んだのと、同じ動作。
「佐和子は幸せだったと思うわ」と叔母は言う。声が震えている。
「はい」と奈々未は言う。
叔母は凪を見る。何か言いかけて、やめる。口が少し開いて、閉じる。言葉が出てこないのか、出そうとしてやめたのか。
それから深く頭を下げる。
帰り際、叔母が凪に近づいてくる。
「一人で抱えないで」と叔母は言う。声が震えている。目が赤い。
「佐和子の分まで、幸せになって」
凪は「はい」と言う。それ以上、言葉が出ない。
佐和子の分まで。その言葉が重い。母の分。母が生きるはずだった時間の分。母が見るはずだった景色の分。母が抱くはずだった孫の分。その全部を含んだ「佐和子の分まで」。
叔母が帰る。弁護士も帰る。葬儀社のスタッフも片付けを終えて帰る。
気づいたら、凪と奈々未だけが残っている。
小さな式場に、二人。祭壇の花がまだ匂っている。遺影が正面にある。父の口角。母の笑い声。
奈々未が凪の隣に座っている。何も言わない。凪も何も言わない。
しばらくそうしている。
奈々未が凪の手に触れる。右手。指先が触れて、そっと握る。温かい。いつもの温かさ。
凪はその手を握り返す。握り返しながら、遺影を見ている。
二枚の写真の中の両親は、笑っている。カメラに向かって。凪に向かって。あの頃の凪に向かって。
今の凪に向かっては、もう笑わない。
葬儀が終わった後、実家に戻る。
遺品の整理は、まだ先でいいと弁護士に言われている。でも凪は、その日のうちに一度見ておきたかった。理由はうまく説明できない。見ておかないと、何かが閉じてしまう気がした。何が閉じるのかもわからないが。
奈々未も来た。「一人で行かないで」と言った。凪は断らなかった。
実家は静か。
玄関を入る。靴を脱ぐ。廊下を歩く。自分の足音だけが聞こえる。奈々未の足音がその後ろに続く。
台所。
母が使っていたエプロンがかかっている。壁のフックに。紺色のエプロン。白い紐。何度も洗われて、生地が少し薄くなっている。端がほつれかけている。母はこのエプロンを何年使っていたのか。凪が覚えている限り、ずっとこのエプロン。別のものも持っていたはずだが、いつもこれを使っていた。
コンロの横に、よく使う調味料が並んでいる。醤油。みりん。料理酒。塩。砂糖。胡椒。出汁の素。母の定位置に、母が置いた順番で並んでいる。この並び順を知っているのは、もう凪だけかもしれない。
冷蔵庫を開ける。
作りかけの惣菜が入っている。タッパーに入った煮物。蓋の上に「10/12」と日付が書いてある。十月十二日。あの日。母が最後の電話をかけてきた日。あの日に母が作った煮物。
昨日の続きがそのまま残っている。「食べることは生きることに一番近い」と母は言っていた。その母が作った、最後の煮物。蓋を開ける勇気がない。開けたら匂いがする。母の煮物の匂いがする。その匂いを嗅いだら、何かが壊れる気がする。
冷蔵庫を閉じる。
凪はそのまま少し立ち止まる。冷蔵庫の前で。銀色の扉。扉に磁石で留められたメモがある。買い物リスト。母の字。「牛乳」「豆腐」「長ネギ」「卵」。日常の文字。次に買うはずだったもの。買われることのないリスト。
奈々未がリビングにいる。凪は台所を出て、父の書斎に向かう。
書斎のドアを開ける。父の部屋。机の上は、いつも通り整然としている。書類が揃えられている。ペンが定位置に置いてある。引き出しの取っ手が、全部同じ角度で収まっている。誠一郎は几帳面な人間だった。机の上の乱れを許さない人間だった。
引き出しを開ける。
一番上の引き出し。中に、小さな封筒がある。
凪の名前が書いてある。父の字。角張った、硬い字。母の丸みのある字とは対照的な、直線的な字。
開ける。中に一枚だけ紙が入っている。
---
凪へ
お前に伝えるべきことは、お母さんが書いてくれた。俺が書くことは一つだけだ。
自分で決めた道を、最後まで歩け。
お前は俺に似ている。似ているから心配だ。でもお前にはお母さんに似たところもある。だから大丈夫だと思っている。
奈々未さんと共に生きろ。お前一人で抱えるな。
すまなかった。
誠一郎
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凪は父の手紙を読む。
母の手紙より短い。母が便箋一枚使って書いたのに対して、父は半分も使っていない。余白が多い。言葉が少ない。でも父はそういう人間だった。必要最低限のことだけを言う人間。「よく頑張った」と一言で済ませる人間。
『自分で決めた道を、最後まで歩け。』
凪が別の製薬会社に就職したとき、父は何も言わなかった。反対もしなかった。翌年の誕生日に「自分で決めたことをやり遂げろ」と言った。この手紙に書いてあることは、あのときと同じ。最後まで歩け。やり遂げろ。同じことを、違う場面で、また言っている。
『お前は俺に似ている。似ているから心配だ。でもお前にはお母さんに似たところもある。だから大丈夫だと思っている。』
似ている。何が似ているのか。不器用なところか。言葉より行動で返すところか。一人で抱え込むところか。全部かもしれない。
でもお母さんに似たところもある。何が似ているのか。母のように人の話を聞けるところか。母のように穏やかでいられるところか。凪にはわからない。自分と母の共通点を、自分では見つけられない。でも父には見えていた。父の目から見た凪には、母に似た部分がある。
『お前一人で抱えるな。』
一人で抱えるな。父がそう書いている。一人で全てを背負って、一人で壊れていった父が、「一人で抱えるな」と書いている。
凪は手紙を折りたたむ。母の手紙と同じように、胸ポケットに入れる。二枚になる。母の便箋と、父の便箋。二枚の紙が、胸ポケットの中で重なっている。
書斎を出る。リビングに戻る。奈々未がソファに座っている。お腹に両手を当てている。
「何かあった?」と奈々未が聞く。
「父さんからも手紙があった」と凪は言う。
「読んだの?」
「読んだ」
奈々未は何も聞かない。何が書いてあったかを聞かない。凪も何も言わない。
リビングの窓から、夕方の光が入っている。オレンジ色の、傾いた光。その光の中に、両親がいた日常の残骸がそのまま置いてある。テーブルの上の湯飲み。ソファのクッション。本棚の本。
母が読みかけた本が、棚の端に立てかけてある。
凪は母が読みかけた本を手に取る。
文庫本。表紙が少し擦れている。何度も鞄に入れて持ち歩いたのだろう。角が丸くなっている。背表紙に、親指で撫でた跡がある。奈々未と同じ癖だと、凪は気づく。本を読むとき、背表紙を親指で撫でる癖。母にもあったのか。今まで気づかなかった。
栞が挟まっている。どこまで読んだか、わかる。全体の三分の二ほど。あと百ページほど残っている。
あと百ページ。物語の結末を知らないまま、母はこの本を閉じた。最後に読んだのはいつか。昨夜か。一昨日か。栞を挟んで、本を閉じて、棚に立てかけた。明日また読もう、と思ったかもしれない。思わなかったかもしれない。
続きは読まれない。物語の結末は、母の手に届かない。
凪は本を開く。栞のページを見る。文字が並んでいる。母が最後に目にした文字列。この文字の上を、母の目が通った。この行を読んで、この行で止まった。
読もうとする。でも文字が頭に入らない。意味が追えない。他人の物語を追いかける余裕が、今の凪にはない。
本を閉じる。栞はそのまま。元の場所に戻す。棚の端。母が置いた場所に。
奈々未が「帰ろうか」と言う。
「うん」と凪は言う。
二人で実家を出る。玄関で靴を履く。凪はドアを閉める前に、一度だけ中を振り返る。暗い廊下。台所の入り口。その奥に、エプロンがかかっている。紺色のエプロン。暗がりの中で、白い紐だけがうっすら見えている。
ドアを閉める。鍵をかける。
帰りの電車の中で、凪は窓の外を見ている。夕焼けが街を染めている。オレンジ色の空。
五人の葬儀だった。
そのことを、ぼんやりと考える。父はかつて八千人の従業員を抱えていた。取引先、関係者、知人友人。その数を合わせれば、どれほどになるかわからない。母にも友人がいたはず。近所の知り合いがいたはず。帯広の実家にも、かつての同級生がいたはず。
その二人の葬儀に、五人が来た。
凪と奈々未。叔母。葬儀社のスタッフ。弁護士。
五人のうち、二人は仕事で来ている。純粋に見送りに来た人間は、三人。凪と奈々未と叔母。
何かを責める気持ちはない。来られない事情があることも、来たくない理由があることも、凪には理解できる。高原製薬の社長の葬儀に来たら、自分まで巻き込まれるかもしれない。報道陣に撮られるかもしれない。来ないことは、自分と自分の家族を守る判断。間違っていない。
間違っていない。
でも五人。
父と母が生きた時間の重さと、その葬儀の静けさの間にある落差を、凪はうまく言葉にできない。父は四十年以上働いた。母は三十年近く家庭を守った。二人の人生には、たくさんの人間がいたはず。でも最後に残ったのは五人。
人間の数は、人生の重さを測る尺度にはならない。五人でも十分。五人が心を込めて見送ったなら、それは百人の葬儀と同じ重さがある。凪はそう思おうとする。思おうとして、思いきれない。
思いきれないのは、凪の中にある怒りのせいかもしれない。来なかった人間への怒りではない。来られなくした状況への怒り。高原製薬の不祥事がなければ、もっと多くの人間が来たかもしれない。父が生きた時間に見合うだけの人間が、式場に並んだかもしれない。
でも不祥事があった。父と母が死んだ。葬儀に五人が来た。
全部が繋がっている。繋がっていて、一つも切り離せない。
電車が揺れる。窓の外の夕焼けが、少しずつ暗くなっていく。
その夜、凪は眠れない。
奈々未は隣で眠っている。お腹が大きくなっている。あと一月と少しで、予定日。
凪は天井を見ている。暗い天井。何も見えない。
五人の葬儀だった。
その言葉が、頭の中を周回している。五人。五人。五人。
父の横顔が浮かぶ。洋食屋でビーフシチューを食べていた横顔。通知表を一ページずつめくっていた横顔。「よく頑張った」と言ったときの横顔。
その父の葬儀に、五人。
母の声が聞こえる。「おいで」と台所で言った声。ホットミルクを作りながら。「今日はどういう一日だった」と毎晩聞いた声。「嘘つき」と笑った、最後の電話の声。
その母の葬儀に、五人。
怒りなのか、悲しみなのか、凪にはわからない。両方かもしれない。両方が混ざって、名前のつかない感情になっている。
隣で、奈々未のお腹が動く。
凪はそれに気づく。奈々未は眠っている。でもお腹の中の子は起きている。動いている。掛け布団の上から、わずかにお腹の膨らみが動くのが見える。暗い部屋の中で。
凪はしばらく、その動きを見ている。
小さな動き。中にいる命が、動いている。この暗い部屋の中で。凪が眠れずに天井を見ている夜に。五人の葬儀のことを考えている夜に。両親を失ったばかりの夜に。
この子は何も知らない。高原製薬のことも、不祥事のことも、報道陣のことも、遺族のことも、電話のことも、生ゴミのことも、「死ね」と書かれたドアのことも、「産むな」と書かれた紙のことも。何も知らない。何も知らないまま、お腹の中で動いている。
その動きが、凪の中の何かに触れる。
怒りでも悲しみでもない何か。名前がない。でも確かにある。お腹の中で動いている命が、凪に何かを伝えている。言葉ではない。意味でもない。ただ、動いている。ここにいる、と。
凪は手を伸ばす。奈々未を起こさないように、そっと。掛け布団の上から、奈々未のお腹に手を置く。軽く。触れるか触れないかの力で。
動いている。掌の下で。温かい。布団越しでも温かい。動いて、温かい。生きている。
凪は手を置いたまま、目を閉じる。
五人の葬儀だった。父と母がいなくなった。お金は消えた。仕事も変わった。何もかもが壊れた。
でもここに、手の下に、動いているものがある。
それだけが今の凪の現実。それだけが、凪をここに繋いでいる。
凪はお腹に手を置いたまま、いつの間にか眠る。眠りに落ちる直前に、もう一度動きを感じる。小さな、確かな動き。
父の手紙が胸ポケットに入っている。母の手紙も。二枚の便箋が、凪の胸に当たっている。紙の硬さ。その硬さと、お腹の温かさが、凪の体の両側にある。
片方は冷たくて、片方は温かい。
片方は終わっていて、片方はまだ始まっていない。
凪は眠る。
手を置いたまま。
明日も20時に投稿します。




