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序章002

 父が年に二回しか帰ってこない、という言い方は正確ではない。

 

 誠一郎は毎晩家に帰った。ただ、凪が起きている時間には間に合わなかった。朝は凪が登校する前に出勤した。だから平日の父は、凪にとって「家にいる気配」だった。洗面台に並んだ髭剃りと整髪料。脱衣所の籠に入ったワイシャツ。靴箱の一番上の段に揃えられた革靴。父がここで生活しているという証拠は至る所にあったが、父本人と言葉を交わすことは滅多になかった。

 

 週末も多くは仕事だった。接待ゴルフ、会合、出張。誠一郎が家にいる土日は、月に一度あるかないかだった。

 

 そういう父だったから、凪は「父親とはそういうものだ」という認識で育った。友人の父親が週末に野球を教えていると聞いても、羨ましいとは思わなかった。羨ましいという感情が湧くより先に、自分の父とは違う種類の人間なのだと処理した。

 

 ただ一度だけ、その均衡が崩れたことがある。




 凪が小学三年生の秋だった。

 通知表を持って帰る日、父がいなかった。

 

 出張だった。前日から新幹線で大阪へ行き、会議が長引いて帰れなくなったと、夕方に母から説明された。凪は「そう」と答えた。別に泣きはしなかった。ただ、通知表をランドセルに入れたまま、夕食も早々に済ませて自分の部屋に戻った。

 

 その夜、遅くに父から電話があった。佐和子が受けて、少し話してから「凪、お父さん」と受話器を差し出した。

 

「悪かった」

 電話口の父はそう言った。声がいつもより低かった。

 

「別にいいよ」と凪は言った。

 

「来週、俺が帰ったら見せろ。ちゃんと見る」

 

「うん」

 

 それだけの会話だった。受話器を母に返して、凪はまた部屋に戻った。

 

 来週、誠一郎は約束通り帰ってきた。スーツのまま玄関に入るなり「通知表は」と言った。凪は用意していたそれを渡した。父はいつもと同じように一ページずつめくり、いつもと同じように「よく頑張った」と言った。

 ただそのあと、少し間があった。

 

「待ってたか」

 父が聞いた。凪は少し迷ってから「少し」と答えた。

 

 誠一郎はそれ以上何も言わなかった。でも凪は、父の目が一瞬だけ揺れたのを見た。


 

 母が怒ったのは、その翌年だった。


 春の終わり、凪が四年生になった頃。誠一郎が珍しく早く帰ってきた夜のことだ。夕食を家族三人で食べるのは久しぶりだった。食卓は穏やかで、父も機嫌が悪いわけではなかった。会話は少なかったが、それは普段通りだった。

 

 凪が先に風呂を済ませて自分の部屋で宿題をしていると、階下から両親の声が聞こえてきた。

 最初は何を言っているのか聞き取れなかった。次第に、母の声が低くなっていくのがわかった。佐和子はめったに声を荒げない。怒るときも、声を上げるのではなく静かになる。その静けさが怒りだと、凪は経験で知っていた。

 

 宿題の手を止めて、廊下に出た。階段の途中まで降りて、耳をすませた。

 

「……あなたはいつもそうやって、仕事を理由にするのね」

 母の声だった。静かで、平坦で、だからこそ重かった。

 

「凪は何も言わない。でも待ってるのよ。あの子はずっと待ってるの」

 父の返答は聞こえなかった。低すぎて届かなかった。

 

「一度くらい、仕事を後回しにしてみたらどうなの。世界が終わるわけじゃないでしょう」

 また沈黙。

 

「私はいい。でも凪には、ちゃんとそこにいてあげて」

 

 凪は階段を引き返した。自分の部屋に戻って、布団に潜った。

 胸の中に、うまく名前のつけられない感情があった。母が怒ってくれたことへの、温かさとも申し訳なさともつかない何か。そして同時に、聞いてはいけないものを聞いてしまったような、居心地の悪さ。

 

 次の朝、食卓の雰囲気はいつもと変わらなかった。父はワイシャツにネクタイで、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。母はトーストを焼いていた。何事もなかったように。

 でも父が出勤するとき、玄関で靴を履きながら、誠一郎は凪を振り返った。

 

「今度の日曜、空いてるか」

 凪は驚いて「うん」とだけ答えた。

 

「どこか行くか」

 結局その日曜日、三人で近くの公園に行った。特別なことは何もなかった。父は歩きながら凪と他愛のない話をして、母はその少し後ろをついてきた。ベンチに座って缶コーヒーを飲む父の横で、凪はずっと何か言いたいことがある気がしたが、何も言わなかった。父も何も言わなかった。

 

 ただ、そこにいた。

 

 帰り道、母が父の腕に手をかけた。誠一郎はちらりと佐和子を見て、それから前を向いた。その横顔は、仕事の顔ではなかった。

 凪はそれを、少し後ろから見ていた。


 父は変わらなかった。翌週からまた仕事に戻り、週末もまた埋まっていった。

 

 でもあの一度が、凪の中に残った。

 

 誠一郎は、自分が何かを間違えたと気づいたとき、言葉ではなく行動で返す人間だった。謝らない。言い訳もしない。ただ、動く。それが父の反省の仕方だった。

 

 不器用だと思った。でも凪は、その不器用さを嫌いになれなかった。

 

 あの日曜日の、父の横顔を思い出すたびに、そう思った。

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