序章019
母から最後の電話があったのは、十月の十二日だった。
夜の八時過ぎ、凪が仕事から帰って夕食を食べ終えた頃だった。奈々未が食器を片付けていて、凪はソファに座っていた。
携帯が鳴った。母からだった。
「凪」と母は言った。
声が、いつもと違った。いつもの均一な声だった。でもその均一さが、作られたものだとわかった。何かを整えて、整えた上で電話してきた声だった。
「どうした」と凪は言った。
「元気?」と母は聞いた。
凪は少し止まった。母が「元気?」と聞くことは、ほとんどなかった。心配するときも、別の聞き方をする人間だった。
「元気だ」と凪は答えた。「母さんは」
「元気よ」と母は言った。「奈々未さんは?」
「元気だ。もうすぐだ」
「そう」と母は言った。少し間があった。「よかった」
また間があった。凪は何かを感じた。うまく言葉にできない、胸の奥の違和感だった。
「お父さんと二人で、ちゃんと話した」と母は言った。
「そう」
「凪には心配かけたわね」
「心配してない」と凪は言った。嘘だったが、そう言った。
「嘘つき」と母は言った。笑っていた。声の中に笑いがあった。久しぶりに聞く、母の本物の笑い方だった。
凪は何も言えなかった。
「奈々未さんを大切にしてね」と母は言った。「あなたにはもったいないくらい、いい人だから」
「わかってる」
「わかってない」と母は言った。また笑っていた。「男の人って、わかってるつもりで全然わかってないから」
「母さん」
「冗談よ」と母は言った。声が、少し柔らかくなった。「凪、ありがとう」
ありがとう、という言葉が引っかかった。何に対してのありがとうか、わからなかった。
「何が」と凪は聞いた。
「生まれてきてくれたこと」と母は言った。「それだけ」
凪は返せなかった。
「じゃあね」と母は言った。
「また来週」と凪は言った。
「ええ」と母は言った。
電話が切れた。
翌朝、電話が繋がらなかった。
いつも朝に一度、短いメッセージを送る習慣が、最近の凪と母の間にできていた。その日の朝、凪がメッセージを送ったが、既読がつかなかった。
昼になっても既読がつかなかった。
凪は電話した。呼び出し音が続いた。繋がらなかった。
父にも電話した。繋がらなかった。
凪は仕事を途中で抜けて、実家へ向かった。
実家のマンションに着いたのは、午後二時過ぎだった。
エントランスを入って、エレベーターに乗った。廊下を歩いた。実家のドアの前に立った。
チャイムを押した。応答がなかった。
もう一度押した。応答がなかった。
凪はスペアキーを持っていた。ポケットから取り出した。鍵穴に差し込んだ。回した。ドアが開いた。
「母さん」と凪は言った。
応答がなかった。
玄関に靴があった。父の革靴と、母のパンプスが、きちんと揃えられていた。二足とも、いつも通りの場所に、いつも通りの向きで置いてあった。
凪は靴を脱いで、上がった。
廊下を進んだ。台所を見た。誰もいなかった。
リビングのドアの前に立った。
ドアノブに手をかけた。
一秒、止まった。
開けた。
凪はしばらく、動けなかった。
どのくらいそこに立っていたか、わからなかった。
やがて凪は携帯を取り出した。救急車を呼んだ。番号を押して、話して、住所を言った。自分の声が遠かった。別の人間が話しているような声だった。
電話を切った。
凪はリビングに入った。テーブルの上に、封筒が二つ置いてあった。一つには「凪へ」と書いてあった。もう一つには「奈々未さんへ」と書いてあった。どちらも母の字だった。
凪は「凪へ」と書かれた封筒を手に取った。開けた。
便箋が一枚入っていた。
短かった。
凪へ
長い間、心配をかけてごめんね。
お父さんとよく話し合って、二人で決めたことだから、凪が責任を感じる必要はないわ。誰のせいでもない。私たちが決めたことよ。
奈々未ちゃんと生きて。それだけを守ってほしい。
生まれてくる子を、大切にしてね。
あなたが生まれてきてくれた日のことを、ずっと覚えてる。お父さんが廊下で泣いていたこと。あなたの産声を聞いたとき、世界が変わった気がしたこと。あの日から、私たちの人生はあなたのものだったわ。
ありがとう。
お母さんより
救急車が来た。
凪は玄関で待っていた。来た人たちを中に通した。その後のことは、断片的にしか覚えていない。
誰かが凪に話しかけた。凪は答えた。何を答えたか、覚えていない。
廊下に出て、壁に背中をつけて、座り込んだ。
手の中に、まだ便箋があった。
『奈々未ちゃんと生きて。』
その一行が、頭の中で繰り返された。
命令ではなかった。遺言でもなかった。ただの、願いだった。
凪は便箋を折りたたんで、胸ポケットに入れた。
廊下の窓から、秋の空が見えた。昨日と同じ空だった。昨日と同じ高さに、昨日と同じ雲が浮かんでいた。
世界は変わっていなかった。
自分の中だけが、変わっていた。
明日も20時に投稿します。




