序章018
警察に相談に行ったのは、十月に入った頃だった。
きっかけは、奈々未への直接の嫌がらせだった。
九月の終わり、凪が仕事に出ている間に、奈々未宛の封筒がポストに入っていた。差出人の名前はなかった。奈々未が開けると、中に一枚の紙が入っていた。手書きだった。内容は短かった。
『人殺しの孫を産むな』
奈々未は凪が帰るまで、それを台所のテーブルの上に置いていた。凪が帰って封筒を見たとき、奈々未は「今日これが来た」と言った。声は平静だった。でも顔色が、いつもより白かった。
凪はその紙を見て、何も言えなかった。
奈々未のお腹に向けて書かれた言葉だった。まだ生まれていない子に向けて書かれた言葉だった。それまでの嫌がらせとは、また種類が違った。
翌日、凪は警察署へ行った。
署の窓口で事情を話した。
これまでの経緯を順番に説明した。匿名の電話、郵便受けへの生ゴミ、インターホンの破壊、実家の落書き、そして昨日届いた封筒。話しながら、記録として残しておいた写真や着信履歴を見せた。
窓口の担当者は、四十代くらいの男だった。凪の話を聞きながら、メモを取っていた。表情は変わらなかった。
話し終えると、担当者は少し間を置いてから言った。
「高原製薬の関係者の方ですね」
「息子です」と凪は答えた。
担当者の目が、わずかに変わった。凪はそれを見た。責めている目ではなかった。冷たい目でもなかった。ただ、何かが引いた目だった。一歩、距離を置くような目だった。
「嫌がらせについては、被害届を出すことは可能です」と担当者は言った。「ただ」
「ただ?」
「匿名の電話や郵便物については、発信元の特定が難しい状況です。インターホンの破壊については器物損壊にあたりますが、防犯カメラで犯人が特定できていない以上、捜査は難しい」
「では封筒は」と凪は言った。「妊娠中の妻への脅迫文です」
「内容を確認しましたが、直接的な危害を予告するものではないため、脅迫罪の適用は難しい状況です。ストーカー規制法についても、特定の個人からの継続的な行為という要件を満たしているかどうか」
「複数の人間から継続的に嫌がらせを受けています」
「そうですね」と担当者は言った。「ただ、それぞれが別人物である場合、法的な対応には限界があります」
凪は黙った。
言っていることはわかった。法律の話として、筋は通っていた。でも目の前にいる人間が、本当に凪の話を聞いているかどうか、凪にはわからなかった。
「被害届は出せますか」と凪は聞いた。
「出すことは可能です。ただ、捜査に進むかどうかは」
「出します」
担当者は少し間を置いてから「わかりました」と言った。書類を取り出して、凪に渡した。
凪は書類に記入した。名前を書いた。住所を書いた。高原、という苗字を書くたびに、担当者の視線を感じた気がした。実際に見ていたかどうかはわからない。でも凪にはそう感じた。
書類を提出すると、担当者は「連絡先を控えさせていただきます」と言った。手続きは淡々と進んだ。
最後に担当者は「何かあればご連絡ください」と言った。
マニュアル通りの言葉だった。悪意はなかった。でも温度もなかった。
警察署を出て、凪は少し歩いた。
秋の空は高かった。風が冷たかった。
何かが変わったわけではなかった。被害届を出したが、それで嫌がらせが止まるとは思っていなかった。担当者が言った通り、特定も捜査も難しい。凪にはわかっていた。
それでも行ったのは、何もしないよりましだと思ったからだった。記録を残すことに意味があると思ったからだった。
でも帰り道、凪の中に残ったのは、手続きが終わった安堵ではなかった。
担当者の目が、頭に残っていた。
冷たくはなかった。悪意もなかった。ただ、一歩引いた目だった。高原製薬の息子と知った瞬間に、距離を置いた目だった。
意識してやったのかどうかも、わからない。無意識だったかもしれない。でも凪には見えた。
守ってもらいに行った場所で、一歩引かれた。
それだけのことだった。それだけのことだったが、凪には重かった。
家に帰ると、奈々未が「どうだった」と聞いた。
「被害届は出せた」と凪は言った。「ただ、すぐに何かが変わるわけじゃない」
「そう」と奈々未は言った。
「封筒のこと、怖かったか」と凪は聞いた。
奈々未は少し考えてから「怖かった」と言った。「子供に向けて書かれてたから」
「ごめん」
「謝らなくていい」と奈々未は言った。いつもと同じ言葉だった。「あなたがやったことじゃないから」
凪は奈々未の隣に座った。奈々未のお腹が、大きくなっていた。あと数週間ほどで生まれる予定だった。
「生まれてくる前に、落ち着いてほしいな」と奈々未は言った。独り言のような声だった。
凪は何も言わなかった。
落ち着くかどうか、わからなかった。でも落ち着かないとも言えなかった。
ただ隣にいた。それだけだった。
明日も20時に投稿します。




