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序章017

 実家に寄ったのは、九月の土曜日だった。

 

 父はまだ対応に追われていた。弁護団との協議、行政への対応、被害者への補償交渉。誠一郎が家に帰れる日は、月に数えるほどしかなかった。母は一人で実家にいた。

 

 凪は週に一度、実家に顔を出すようになっていた。母の様子を確認するためだった。母は「来なくていい」と言ったが、凪は行った。

 

 その日、マンションのエントランスを入って、廊下を歩いていると、遠目に何かが見えた。

 

 実家のドアに、何か書いてあった。

 近づくにつれ、はっきり見えてきた。

 

 赤いスプレーで、大きく書かれていた。

 

 『死ね』


 凪は立ち止まった。

 

 ドアの前に、母がいた。

 佐和子は雑巾を持って、扉を擦っていた。背中を向けていた。凪に気づいていなかった。スプレーの塗料は簡単には落ちなかった。母は同じところを何度も何度も擦っていた。

 

 凪は声が出なかった。

 母の背中が、小さく見えた。いつもより小さかった。背筋はまっすぐだった。でも肩が、かすかに震えていた。

 

 怒りなのか、悲しみなのか、疲労なのか。凪にはわからなかった。たぶん全部だった。

 

 凪は「母さん」と言った。

 佐和子が振り返った。凪を見て、一瞬だけ表情が動いた。驚きとも安堵ともつかない、複雑な顔だった。すぐに元の顔に戻った。

 

「来てたの」と母は言った。いつもの声だった。

「いつから」と凪は聞いた。

 

「今朝気づいたの。昨夜書かれたんだと思うわ」

 凪は母の手から雑巾を受け取った。「俺がやる」

 

「大丈夫よ」

「貸して」

 母は少し迷ってから、雑巾を渡した。


 スプレーの塗料は、雑巾では落ちなかった。

 

 凪はホームセンターへ行って、塗料除去剤を買ってきた。それでこすると、少しずつ薄くなっていった。完全には落ちなかったが、読めない程度にはなった。

 

 作業している間、母は隣に立っていた。何も言わなかった。ただそこにいた。

 

 一時間ほどかかった。凪が立ち上がると、母が「ありがとう」と言った。

 

 凪は母の顔を見た。佐和子はいつもの顔だった。穏やかで、静かで、感情を表に出さない顔。でも目の下に影があった。父の顔に見たのと、同じ影だった。

 

「中に入ろう」と凪は言った。



 台所でお茶を飲んだ。

 

 母は何も言わなかった。凪も最初は何も言わなかった。窓の外に、秋の薄い光が入っていた。

「管理会社に連絡したか」と凪は聞いた。

「したわ。カメラの映像を確認してもらってる」

 

「警察は」

「一応、届けた。でも何もできないって」

 凪は湯飲みを持ったまま、テーブルを見た。警察に届けても何もできない。管理会社に連絡しても特定できない。凪のマンションでも同じだった。やれることをやっても、何も変わらない。ただ記録が積み重なるだけだった。

 

「父さんには言ったか」と凪は聞いた。

「言ってないわ」と母は言った。

 

「なんで」

「お父さんには、今それを聞かせる余裕がないの」

 凪は黙った。

 

「お父さんは今、自分が抱えているもので手一杯なの」と母は続けた。「これ以上重いものを渡したくないから」

「でも」

 

「凪」と母が言った。静かな声だった。「お父さんを心配しないで。あの人は大丈夫。ただ、今は重いものを持ちすぎてる。だから私が持てるものは、私が持つわ」

 凪はしばらく黙っていた。

 

「母さんは」と凪は言った。「大丈夫か」

 佐和子は少し間を置いた。

「大丈夫よ」と言った。

 いつもと同じ答えだった。でもその間が、いつもより少し長かった。

 

 少し沈黙が続いた。それを断ち切るように、佐和子が「そういえば、もうすぐよね」と言った。声が、さっきまでと違った。明るかった。意図的に明るくした声だった。

 

 凪は一瞬、何がもうすぐなのかわからなかった。母の顔を見て、すぐに思い至った。奈々未の出産だった。十一月の上旬。あと一月半ほどだった。

「孫ができるなんて、嬉しいわ」と佐和子は言った。「女の子かしら、男の子かしら。どっちでも可愛いわね。名前は決まったの?」

 

 矢継ぎ早だった。いつもの母らしくなかった。佐和子は普段、一度に多くを聞かない人間だった。それが今日は、言葉を詰め込むように話した。

 

 凪は母の顔を見た。口元は笑っていた。でも目が、笑いに追いついていなかった。

 現実から少しだけ離れようとしている。凪にはそれがわかった。わかったから、凪も合わせた。

 

「決まった」と凪は言った。「男の子でも女の子でも使える名前にした」

 

「素敵ね」と佐和子は言った。「奈々未さんが考えたの?」

「二人で」

 

「そう」と母は言った。その一言だけ、元の声に戻った。柔らかくて、静かな声。「よかった」



 帰り際、凪は玄関のドアをもう一度見た。

 

 薄くなっていたが、痕跡は残っていた。光の角度によっては、まだ読めた。

 

 誰かがここに来て、時間をかけてこれを書いた。母が一人でいる夜に。父が帰れない夜に。

 怒りがあった。

 

 遺族の怒りとも、匿名の電話への苛立ちとも、違う怒りだった。自分への攻撃は耐えられた。でも母への攻撃は、別のものだった。

 

 ただ凪には、その怒りをどこへ向ければいいかわからなかった。

 書いた人間は顔が見えない。捕まらない。同じことをしても、何も変わらない。

 

 凪はドアを閉めて、廊下を歩いた。

 母の震える背中が、頭から離れなかった。

 

 あの背中を見たくなかった。見たくなかったのに、見てしまった。そして何もできなかった。

 塗料除去剤でこすって、薄くすることしかできなかった。

 

 それが凪には、情けなかった。



 その夜、奈々未に話した。

 

 落書きのこと、塗料除去剤でこすったこと、母が一人で対処していたこと。話しながら凪は、どこまで話すか少し迷った。母が痛ましいほど明るく振る舞っていたこと、目が笑いに追いついていなかったこと。それを話すことが、母への裏切りのような気がした。

 

 でも話した。奈々未には、話せた。

 奈々未は黙って聞いた。最後まで聞いてから「お義母さん、一人にしない方がいい」と言った。

 

「来るなと言われた」

「来るなと言う人ほど、来てほしいときがある」と奈々未は言った。

 

 凪は少し考えた。それから、思い出したように「子供のこと、すごく楽しみにしてた」と言った。意識して、少し明るい声で言った。母が凪にしたように。「名前は決まったの、って聞かれた。矢継ぎ早に」

 

 奈々未は少し目を細めた。「そっか」

「嬉しそうだった」と凪は言った。「本当に、嬉しそうだった」

 

 嘘ではなかった。痛ましい明るさの中にも、本物の嬉しさがあった。孫への期待だけは、作り物ではなかった。凪にはそれがわかった。

 

 奈々未はしばらく黙ってから「会いに行こう」と言った。

 

「来週も行く」と凪は言った。

「私も行く」と奈々未は言った。

 

「お腹、もうすぐ臨月なのに」

「だから行く」と奈々未は言った。「お義母さんに、お腹を見せてあげたい」

 

 凪は何も言えなかった。

 奈々未はいつもそういう形で来た。凪が言葉に詰まるような、真っ直ぐな言葉で。

 

 翌週、二人で実家に行った。佐和子は奈々未のお腹を両手で包んで、「大きくなったわね」と言った。その顔は、久しぶりにいつもの母の顔だった。

明日も20時に投稿します。

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