序章016
郵便受けに生ゴミが入っていたのは、七月の終わりだった。
凪が朝、郵便受けを開けると異臭がした。中を見ると、コンビニの袋が詰め込まれていた。袋の口は縛られていなかった。腐った食べ物の臭いがした。
凪はそれを取り出して、ゴミ袋に入れた。手を洗った。郵便受けをウェットティッシュで拭いた。
奈々未には言わなかった。妊娠中だった。臭いに敏感になっていた。知らせる必要はないと思った。
翌日また入っていた。今度は袋ではなく、直接詰め込まれていた。凪はまた取り出して、洗って、拭いた。
三日目も入っていた。
凪は管理会社に連絡した。防犯カメラの映像を確認してほしいと言った。管理会社は「確認します」と言った。数日後、「深夜に人物が確認されたが、特定には至らなかった」と連絡が来た。それで終わった。
生ゴミは一週間ほど続いて、ある日突然止んだ。理由はわからなかった。
次はインターホンだった。
ある朝、凪が仕事に出ようとして玄関を開けると、インターホンのパネルが壊されていた。カバーが割れていた。配線が引きちぎられていた。
凪はしばらくそれを見た。
壊すためには、少し時間がかかる。無音ではできない。それなりの力が必要だ。誰かがこのドアの前に立って、時間をかけてこれを壊した。その事実が、じわじわと凪の中に染みてきた。
管理会社に連絡した。修理を依頼した。費用は凪が負担した。防犯カメラの映像は今回も特定に至らなかった。
修理が終わるまでの三日間、インターホンが使えなかった。奈々未が一人でいる時間が怖かった。鍵を二重にした。チェーンを常にかけるように奈々未に言った。奈々未は「わかった」と言った。何も聞かなかった。
嫌がらせの種類は、少しずつ変わっていった。
郵便受けに紙が入っていることがあった。手書きのものもあった。印刷されたものもあった。内容はだいたい同じだった。読んで、捨てた。
マンションの共用廊下に、凪の部屋番号と名前が書かれた紙が貼られていたことがあった。管理会社が気づいて剥がしてくれた。凪はその話を管理会社から聞いて、初めて知った。
エントランスの掲示板に何かが貼られたこともあった。他の住人が剥がしてくれたと、後から隣の部屋の住人が教えてくれた。「大変ですね」とその人は言った。悪意のない言葉だったが、凪はその言葉をどう受け取ればいいかわからなかった。
「ありがとうございます」と凪は言った。
奈々未が知ったのは、八月の半ばだった。
凪が隠していたわけではなかった。ただ、一つ一つを報告する必要はないと思っていた。でも奈々未は気づいていた。凪が朝、郵便受けを開けるときに少し身構えるようになっていたことを。帰宅するたびに玄関周りを確認するようになっていたことを。
「何か来てる?」と奈々未が聞いた。
「たまに」と凪は言った。
「どんなもの」
凪は少し考えてから、これまでのことを話した。生ゴミのこと、インターホンのこと、紙のこと。淡々と話した。
奈々未は黙って聞いた。最後まで聞いてから「引っ越そう」と言った。
「引っ越しても、また来るかもしれない」
「来たらまた引っ越せばいい」
「それは」
「ここにいたら、あなたが壊れる」と奈々未は言った。静かな声だった。でも芯があった。「お金はある。体が大事」
凪は返せなかった。
お金はある、という言葉が凪には刺さった。投資の資産は消えていた。でも給料はあった。貯金は残っていた。引っ越せないわけではなかった。ただ、逃げるような気がして、踏み切れなかった。
「もう少しだけ待ってくれ」と凪は言った。
奈々未はしばらく凪を見た。「いつまで」
「わからない。でも、もう少しだけ」
奈々未は「わかった」と言った。でもその目は、納得していなかった。凪にはそれがわかった。わかった上で、もう少し待ってくれと言った。
自分でも、なぜ待つのかうまく説明できなかった。
嫌がらせが続く中で、凪は一つのことに気づいた。
慣れていく、ということだった。
最初に生ゴミを見たとき、凪は胃が締まる感覚があった。インターホンが壊されたとき、じわじわとした恐怖があった。でも繰り返されるうちに、その感覚が薄くなっていった。
薄くなることは、良いことのようにも思えた。傷つかなくなるから。でも凪には、それが良いこととは思えなかった。
傷つかなくなるのではなく、傷つくことに疲れて感覚が鈍くなっているだけだと、凪にはわかっていた。鈍くなった感覚は、どこかへ消えるわけではない。ただ奥へ積み重なっていく。
その積み重なりが、いつか何かになると、凪はぼんやりと思っていた。何になるかは、そのときはまだわからなかった。
明日も20時に投稿します。




