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序章015

 電話が来るようになったのは、六月に入った頃だった。

 

 最初は固定電話だった。凪と奈々未が暮らすマンションの電話番号は、どこかから漏れたらしかった。夜の九時過ぎに鳴った。凪が出ると、無言だった。しばらくして切れた。

 

 翌日また鳴った。今度は声があった。

「高原製薬の関係者ですか」という声だった。中年の男の声だった。

 

「そうですが」と凪は答えた。

「人殺しの家族ですね」

 凪は何も言わなかった。

 

「恥ずかしくないんですか。よく生きていられますね」

 凪は電話を切った。



 それから毎日来た。

 

 同じ声のこともあった。違う声のこともあった。男のこともあった。女のこともあった。若い声のこともあった。内容はだいたい同じだった。人殺し。恥を知れ。死ね。消えろ。

 

 凪は最初のうち、出るたびに少し身構えた。でも内容が変わらないので、やがて身構えることもなくなった。出て、声を聞いて、切る。その繰り返しになった。

 

 奈々未には出させなかった。妊娠中だった。あの声を聞かせたくなかった。

 

 固定電話の番号を変えた。しばらく静かになった。でも二週間後にはまた来るようになった。新しい番号がどこかへ流れたのだろうと思った。



 携帯にも来るようになったのは、七月の初めだった。

 

 知らない番号からだった。出ると無言だった。切って、着信拒否にした。別の番号からまた来た。切って、拒否した。その繰り返しだった。

 

 ある夜、凪が寝ていると深夜二時に鳴った。

 

 番号を見た。知らない番号だった。出なかった。翌朝確認すると、深夜に三回来ていた。

 

 それ以来、夜中に目が覚めるようになった。電話が鳴っていないのに、鳴っている気がして目が覚めた。確認すると鳴っていない。また眠ろうとするが、眠れない。天井を見ながら、次にいつ来るかを考えた。

 

 眠れない夜が続いた。



 仕事中にも来た。

 会議の最中に振動した。会議が終わってから確認すると、知らない番号だった。折り返すわけにもいかず、着信拒否にした。

 

 同じ日の昼休み、また来た。別の番号だった。出た。

「高原さんですか」という声がした。若い女の声だった。

 

「そうですが」

「お父さんのせいで、うちの母が後遺症になりました」

 凪は少し待った。遺族かもしれないと思った。

 

「母はもう字が書けないんです。右手が動かなくて」

「それは」と凪は言いかけた。

 

「あなたも同じ目に遭えばいい」

 声のトーンが変わらなかった。感情的ではなかった。淡々としていた。だから余計に重かった。

 

「毎日電話します。あなたが謝るまで」

 凪は「わかりました」と言って電話を切った。

 

 わかりました、という言葉が自分でも意外だった。何がわかったのか、自分でもわからなかった。ただそう言うしかなかった。

 

 その番号からは、翌日以降来なかった。

 


 人間不信、という言葉を凪は好きではなかった。

 

 大袈裟に聞こえると思っていた。人間不信というのは、何か特別な裏切りを受けた人間が使う言葉だという印象があった。自分にはそれほどのことは起きていないと、凪は思っていた。

 でもその頃から、凪の中で何かが変わり始めていた。

 

 知らない番号から電話が来るたびに、身構えた。エレベーターで知らない人間と乗り合わせると、顔を見た。高原製薬の話を知っているかどうかを、無意識に考えた。郵便局で局員に名前を呼ばれると、周りの客が振り返らないかを確認した。

 

 疑っているわけではなかった。ただ、構えていた。

 

 人と話すとき、少し前まではなかった一拍が入るようになった。この人間は何を考えているのか、という一拍が。

 

 それが人間不信というものかどうか、凪にはわからなかった。でも少なくとも、以前とは違う目で人を見るようになっていた。



 ある夜、奈々未が「最近眠れてる?」と聞いた。

 

 凪は少し考えた。「まあまあ」と答えた。

「嘘つかなくていいよ」と奈々未は言った。

 凪は黙った。

 

「夜中に起きてるの、わかってる。隣にいるから」

「起こしてたか」

 

「起こされてはいない。ただ、わかる」

 凪はしばらく黙ってから「眠れない夜がある」と言った。

 

「電話のせい?」

「それもある」

 

「それも、ってことは他にも」

「いろいろある」と凪は言った。うまく言葉にできなかった。いろいろ、という言葉に全部を押し込んだ。

 

 奈々未は何も言わなかった。しばらくして「こっちおいで」と言った。

 凪は奈々未の隣に移動した。奈々未が凪の手を握った。妊娠してから、奈々未の手は少し温かくなっていた。

 

「眠れなかったら、握ってて」と奈々未は言った。

 

 その夜、凪は久しぶりに朝まで眠った。

 手を握ったまま、眠った。



 電話は夏を過ぎても続いた。

 

 凪は慣れた。慣れることで、傷つかなくなったわけではなかった。ただ、傷つくことに慣れた。

 人間不信という言葉を、凪はその頃から使えるようになった。大袈裟ではないと、わかったから。

 

 特別な裏切りがなくても、人間不信になれる。顔の見えない悪意が、毎日少しずつ積み重なれば、それで十分だった。

 

 凪はそれを、身体で覚えた。

明日も20時に投稿します。

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