序章013
最初に気づいたのは、奈々未だった。
発覚から十日ほど経った朝、奈々未が「外に人がいる」と言った。凪はまだ半分眠いまま窓に近づいて、カーテンの隙間から外を見た。
マンションの入り口の前に、男が二人いた。一人はカメラを持っていた。もう一人はメモ帳を持って、建物を見上げていた。
凪は少し考えた。高原製薬の社長の息子が、このマンションに住んでいる。その情報がどこかから漏れたのだと、すぐにわかった。
「出かけるときは気をつけて」と凪は言った。
奈々未は黙って頷いた。
その日の夕方、凪が仕事から帰ると、入り口の前に人が増えていた。
三人から五人になっていた。カメラが増えた。テレビ局のロゴが入ったジャケットを着た人間もいた。凪はマンションに近づきながら、足が少し遅くなるのを感じた。
止まるわけにはいかなかった。
凪が建物に近づいた瞬間、一人が気づいて声を上げた。「高原さん」という声がした。カメラが向いた。マイクが伸びてきた。
「高原製薬の件についてお聞きしたいのですが」
「お父様とは連絡を取っていますか」
「被害者の方々へのお気持ちをお聞かせください」
声が重なった。凪は前を向いたまま歩いた。何も言わなかった。エントランスのドアを開けて、中に入った。ドアが閉まると、声が遠くなった。
エレベーターのボタンを押して、扉が閉まるのを待った。鏡に映る自分の顔を見た。表情がなかった。
部屋に入ると、奈々未がソファに座っていた。テレビはついていなかった。
「大丈夫だった?」と奈々未が聞いた。
「大丈夫」と凪は言った。
「私も昼に一度出たら声をかけられた」
凪は奈々未を見た。「何か言われたか」
「奥さんですかって。何も答えずに戻ってきた」
奈々未は落ち着いた声で話した。怖かったとは言わなかった。でも凪には、奈々未が昼からずっとその出来事を抱えていたことがわかった。
「外に出るのを控えてくれ」と凪は言った。「しばらくの間だけ」
「うん」と奈々未は言った。それだけだった。
お腹の子のことが頭をよぎった。妊娠中の奈々未に、余計な負担をかけたくなかった。でも何もできなかった。
翌朝、人はさらに増えていた。
凪は早めに家を出た。正面玄関を避けて、駐車場側の出口から出ようとしたが、そちらにも一人いた。カメラはなかったが、凪の顔を見て「少しだけ」と言いながら近づいてきた。
凪は「ノーコメントです」と言って、足を止めなかった。
会社に着くと、上司の田中部長に呼ばれた。
「大丈夫か」と部長は言った。
「問題ありません」と凪は答えた。
部長は少し間を置いて「無理するな」と言った。研修の話も、今後の話も、その日は何も出なかった。凪は自分の席に戻って、仕事をした。集中しようとした。できている時間と、できていない時間があった。
その夜、凪の実家にも報道陣が来た。
母から電話があった。「玄関の前に人がいる」という内容だった。声は静かだったが、いつもの均一さが少し崩れていた。抑えているのに、抑えきれていない声だった。
「出なくていい」と凪は言った。「窓も開けなくていい。必要なものがあれば俺が届ける」
「大丈夫よ」と母は言った。「ごめんね、心配かけて」
心配かけて、という言葉が凪には引っかかった。母が謝るのは珍しかった。それだけ、余裕がなかったということだった。
電話を切ってから、凪はしばらく動けなかった。
母が一人で、玄関の前に人がいる家にいる。父は対応に追われて帰れない。凪は自分のマンションから出られない。全員がそれぞれの場所で、それぞれに耐えていた。
五日目の朝、凪はカメラの前に立った。
意図したことではなかった。早朝に出れば人が少ないと思って五時に家を出たが、一人だけいた。カメラを持っていない、若い男だった。手帳を持っていた。
「少しだけいいですか」と男は言った。「被害者の方への気持ちだけでも」
凪は立ち止まった。
被害者への気持ち。それを聞かれると思っていなかった。会社のことや父のことを聞かれると思っていた。被害者への気持ちを聞かれたとき、凪の中に何かが動いた。
「申し訳ないと思っています」と凪は言った。「自分には何もできないが、申し訳ないと思っている」
男は手帳に何か書いた。「お父様とは連絡を」
「それだけです」と凪は言って、歩き始めた。
言うべきではなかったかもしれない、と後から思った。でも嘘はつきたくなかった。申し訳ないという気持ちは、本当だった。死んだ人がいた。苦しんでいる人がいた。その人たちに、凪は何もできなかった。
一週間が経って、報道陣の数は少し減った。
ニュースとしての鮮度が落ちてきたのかもしれなかった。でも完全にはいなくならなかった。一人か二人、常に誰かがいた。
凪はその存在に、少しずつ慣れていった。
慣れることが正しいのかどうか、わからなかった。でも慣れなければ、外に出られなかった。仕事に行けなかった。日常が送れなかった。
慣れることは、受け入れることではない。ただ、やり過ごすための技術だった。
母も今頃、同じようにやり過ごしているのだろうと、凪は思った。
明日も20時に投稿します。




