序章011
すみません。コピペミスにより前話と同じ内容になっていましたが、正しい文章へ修正しました。
また、以降の予約投稿分についても確認し、同じミスがないことを確認しました。
令和8年3月17日20:20修正
社会人二年目の春は、忙しかった。
一年目で基礎を叩き込まれ、二年目からは少しずつ実務が増えた。担当する案件が増え、会議に呼ばれる回数が増え、出張も増えた。凪はそれを苦にしなかった。仕事は面白かった。製薬という業界の複雑さ、開発から販売までの長い道のり、数字の奥にある患者の存在。覚えることは山ほどあったが、覚えるたびに景色が広がった。
直属の上司である田中部長は、五十代の寡黙な男だった。褒めることをほとんどしない人間で、凪は最初の半年、自分が評価されているのかどうか全くわからなかった。
それが変わったのは、一年目の終わりに行われた部内の総括会議だった。
会議の最後、田中部長が凪を呼んだ。他の社員が帰った後、二人きりになった会議室で、部長は資料を片付けながら「高原、来年も頼むぞ」と言った。
それだけだった。でも凪にはわかった。田中部長がその言葉を口にする相手は、限られていた。
翌朝、部長に呼ばれた。
「来月、大阪で研修がある。お前に行ってもらいたい」
社内の選抜研修だった。各部署から数名ずつ選ばれ、次世代の幹部候補として育成するプログラムだった。凪は二年目での選抜だった。同期の中では最初だった。
「期待しているよ」と部長は言った。
凪は「はい」と答えた。余計なことは言わなかった。でも帰り道、その言葉が頭の中で何度か繰り返された。
家に帰ると、奈々未が「どうだった」と聞いた。
凪は研修の話をした。奈々未は聞きながら、夕食の準備を続けた。話し終えると「よかったね」と言った。
「よかった、か」
「嬉しくないの?」
「嬉しいよ」凪は少し考えた。「ただ、まだ実感がない」
奈々未は振り返って凪を見た。「あなたが頑張ってたのは私が知ってるから、嬉しい」
凪は何も言わなかった。奈々未の言葉は、いつもそういう形で来た。自分の感情ではなく、凪への言葉として。
夕食を食べながら、二人でこれからの話をした。凪の仕事のこと、奈々未のNPOのこと、子どものこと。奈々未のお腹はまだ目立たなかったが、二人の間に確かにいた。
「名前、決めようか」と奈々未が言った。
「まだ決まってないんだっけ」
「決まってない。候補はあるけど」
「あの名前にしよう」と凪は言った。
奈々未はしばらく考えた。「うん、あれがいいと思う」
迷った人が帰ってこられる場所のような人に。
そういう意味を込めた名前だった。二人とも、その夜ようやく腑に落ちた顔をしていた。
あとから振り返れば、その年の五月の半ばがその始まりだった。
凪は東京を離れ、二泊三日の研修プログラムに参加していた。初日と二日目は順調だった。グループワーク、ケーススタディ、夜の懇親会。他部署の同世代と話す機会は新鮮で、凪は充実していた。
三日目の午前、最後の講義が始まって一時間ほど経った頃、凪の携帯が鳴った。
マナーモードにしていたが、バイブレーションが続いた。一度、二度、三度。講義の途中で席を立つのは躊躇われたが、四度目で凪は立ち上がった。
廊下に出て画面を見た。母からだった。
「凪」と母の声がした。
いつもと違った。抑えている声だった。何かを必死に抑えながら話している、そういう声だった。
「どうした」と凪は言った。
「ニュース、見た?」
「見てない。今研修中で」
少し間があった。
「お父さんに電話してみて」
それだけ言って、母は電話を切った。
凪はその場で父に電話した。
呼び出し音が続いた。繋がらなかった。
もう一度かけた。繋がらなかった。
凪はニュースアプリを開いた。
トップに速報が出ていた。
高原製薬、と見えた瞬間、凪の目が止まった。
見出しを読んだ。内容は、すぐには頭に入らなかった。文字は見えていた。でも意味が追いつかなかった。もう一度読んだ。三回読んだ。
高原製薬が製造・販売した複数の医薬品に、承認を受けていない原料が使用されていた疑いがある、という内容だった。服薬した患者の一部に重篤な症状が出ており、死亡例も複数確認されているという。厚生労働省が立ち入り検査に入った。
死亡例、という言葉が、凪の頭の中で止まった。
高原製薬の薬を飲んで、死んだ人がいる。
意味はわかった。でも実感がなかった。高原製薬は祖父が作った会社だった。父が継いだ会社だった。凪が物心ついた頃からそこにあった会社だった。その会社の薬を飲んで、死んだ人がいる。
凪はもう一度父に電話した。繋がらなかった。
廊下の壁に背中をつけて、凪は立ったまま動けなかった。
講義室の扉の向こうから、講師の声が聞こえていた。
研修は午前中で切り上げた。
事情を話すと、担当者は「すぐに帰ってください」と言った。同じ研修に参加していた他部署の社員が、遠巻きに凪を見ていた。凪はそれに気づいたが、気にする余裕がなかった。
新幹線の中で、母に電話した。繋がった。
「今から帰る」と凪は言った。
「来なくていい」と母は言った。「お父さんはもう対応に追われてる。凪が来ても何もできないわ」
「でも」
「家に帰りなさい。奈々未さんのそばにいてあげて」
母の声は穏やかだった。でもその穏やかさの奥に、何か固いものがあった。
「父さんは」
「大丈夫よ」と母は言った。
凪は黙った。父がその言葉を使うのを聞いたことがなかった。母がその言葉を使うのも、ほとんどなかった。大丈夫だと言う必要がないときは言わない。大丈夫だと言ったとき、それは大丈夫ではないときだと、凪は知っていた。
「わかった」と凪は言った。
電話を切って、窓の外を見た。新幹線は田園地帯を抜けていた。青い空の下に、整然と並んだ田んぼが続いていた。
ニュースアプリを開いた。速報の数が増えていた。被害者の会が結成されたという記事が出ていた。死亡者数の続報が出ていた。数字が、さっきより増えていた。
凪は画面を閉じた。
窓の外をずっと見ていた。景色が流れていった。どこを走っているのかわからなかった。
三日前、同じ新幹線に乗ってきた。充実した研修だった。期待しているよ、という部長の言葉が頭にあった。エリート街道という言葉が、冗談めかして頭に浮かんでいた。
あの三日間と、今が、同じ世界の話とは思えなかった。




