序章010
宝くじを買ったのは、奈々未の思いつきだった。
大学四年の冬、就職活動が一段落した頃のことだ。二人でスーパーへ買い物に行った帰り道、駅前の宝くじ売り場の前を通った。年末ジャンボの看板が出ていた。
「買ってみようか」と奈々未が言った。
凪は少し意外に思った。奈々未はどちらかといえば堅実な人間だった。無駄遣いを嫌い、計画を立てて動く。宝くじを買うという発想が、奈々未から出てくるとは思っていなかった。
「当たらないよ」と凪は言った。
「当たらなくてもいいじゃない。夢を買うんだから」
凪は少し笑った。「夢を買う、か」
「三百円で夢が買えるなら安いでしょ」
結局二人で一枚ずつ買った。六百円の夢だった。
当選発表の日、凪は忘れていた。
奈々未に「確認した?」と言われて思い出した。引き出しの中に突っ込んだままだった券を引っ張り出して、番号を確認した。
一致していた。
最初は見間違いだと思った。もう一度確認した。一致していた。三回確認して、凪はようやく信じた。
「当たった」と凪は言った。
「え」と奈々未は言った。
「当たった」
「どのくらい」
「二千万」
奈々未はしばらく黙った。それからテーブルに両手をついて「本当に?」と言った。
「本当に」
奈々未は凪の手から券を取って、自分でも確認した。一度、二度、三度。それから顔を上げて凪を見た。
「どうしよう」と奈々未は言った。
「どうしようって言われても」
「二千万よ」
「知ってる」
二人でしばらくテーブルを挟んで向かい合っていた。それから奈々未が笑い始めた。声を出して笑うのは珍しかった。凪につられて笑った。理由もなく、ただおかしかった。
受け取った二千万の使い道を、二人で話し合った。
奈々未はメモ帳を取り出して、真剣な顔で書き始めた。凪はその横で「もう少し浮かれてもいいのに」と言った。奈々未は「浮かれてる」と言った。メモを取りながら。
結論が出るまで二時間かかった。半分は将来のために手堅く貯金する。残りで、もう少し広い部屋に引っ越す。家具を揃える。それでも余った分は、二人で旅行に行く。
「旅行、どこがいい」と凪は聞いた。
「海」と奈々未は即答した。
「海のどこですか」
「どこでもいい。海が見えれば」
奈々未は施設にいた頃、海を見たことがなかったと言った。テレビの中でしか知らなかった、と。凪はそれを聞いて、何も言わなかった。翌月、二人で沖縄へ行った。
空港から出た瞬間の、奈々未の顔を凪は覚えている。南国の空気に少し目を細めて、それからゆっくりと息を吸った。海岸に着いたとき、奈々未はしばらく波打ち際に立ったまま動かなかった。凪は少し離れたところで、それを見ていた。
やがて奈々未が振り返った。「来てよかった」と言った。
その夜、ホテルの部屋で奈々未が「お義父さんに相談したい」と言った。
「父さんに?」
「二千万って、ただ持ってても勿体ないでしょ。将来の家族のために、何かできないかなって。でも私、そういうの全然わからないから」
凪は少し考えた。誠一郎に頼るのは、悪くない選択だった。父は投資や資産運用に詳しかった。凪自身はその方面にほとんど興味がなかったが、奈々未がそう言うなら聞いてみてもいいと思った。
「言ってみる」と凪は言った。
帰京して数日後、凪は父に話した。誠一郎は珍しく少し表情を動かして「奈々未さんが言ったのか」と聞いた。「そうだ」と答えると、父は「賢いな」と言った。それだけだった。
誠一郎のすすめで、二千万の一部をいくつかの銘柄に分けて投資に回した。凪にはよくわからない話だったが、奈々未はメモを取りながら真剣に聞いていた。
最初は微増だった。それがじわじわと動き始め、一年後には誰も予想していなかった額になっていた。凪が通帳を見て「これ本当に俺たちの金ですか」と言うと、奈々未は「本当に」と言って、また声を出して笑った。
その週末、二人で凪の実家へ報告に行った。誠一郎はリビングで結果を聞いて「そうか」と言った。佐和子はお茶を持ってきながら「すごいじゃない」と言った。
「人生ってこうやって勝ちが確定するんだな」と凪は言った。我ながら気持ちのいい言葉だと思った。
奈々未が凪を見た。少し間があった。
「あなたらしくない」と奈々未は言った。静かな声だったが、凪にはその重さがわかった。「私は努力するあなたが好きなの」
凪は返す言葉が見つからなかった。
リビングの入り口で、誠一郎と佐和子が目を合わせた。誠一郎が小さく笑った。佐和子も笑った。声を出さない、二人だけの笑い方だった。
「堅実なお嫁さんをもらって、凪は幸せ者だな」と誠一郎が言った。
佐和子は「本当に」と言った。
凪は両親を見て、それから奈々未を見た。奈々未は少し照れた顔をして、コーヒーカップに手を伸ばした。砂糖を一つ入れて、スプーンでかき混ぜた。
「肝に銘じます」と凪は言った。
奈々未は「うん」と言った。でもその口元は、少し笑っていた。
「将来の家族のために取っておこう」と奈々未は言った。
さらりと言った。でも凪には、その言葉が胸に刺さった。将来の家族。奈々未の口から出る、その言葉の重さを凪は知っていた。
「そうしよう」と凪は言った。
奈々未は「うん」と言って、またメモ帳に金額を書き始めた。その横顔を、凪はしばらく見ていた。
内定が出たのは、その翌春だった。
凪は父の会社ではなく、別の製薬会社を選んだ。父の七光りではなく、自分の力でやってみたかった。誠一郎にそう話すと、父は少しの間黙って「そうか」と言った。それだけだった。反対もしなかった。翌年の誕生日の夜、洋食屋で父は「自分で決めたことをやり遂げろ」と言った。それがこの話題への、父なりの答えだった。
奈々未は教育関係のNPOに内定が決まった。給与は高くなかったが、奈々未は「やりたいことができる」と言った。その顔を見て、凪は何も言わなかった。言う必要がなかった。
二人で内定祝いをした。場所はあの喫茶店だった。マスターが「おめでとう」と言って、コーヒーを一杯サービスしてくれた。奈々未はいつも通り砂糖を一つ入れた。凪はそれを見て、なんとなく嬉しかった。
妊娠がわかったのは、社会人一年目の十二月だった。
奈々未から連絡が来たのは、凪が仕事を終えて帰る電車の中だった。「話がある、早く帰ってきて」とだけ書いてあった。
凪は嫌な予感と、別の予感を同時に感じながら帰った。
部屋に入ると、奈々未がテーブルの前に座っていた。テーブルの上に、細長い棒状のものが置いてあった。
凪はそれを見て、立ったまま少し固まった。
「できた」と奈々未は言った。声が少し震えていた。
凪はコートも脱がずに奈々未の隣に座った。奈々未の手を取った。冷たかった。
「怖い?」と凪は聞いた。
「怖い」と奈々未は言った。「嬉しいけど、怖い」
「俺も」
奈々未は凪を見た。「嬉しいの?」
「嬉しいよ」
奈々未はうつむいた。しばらく黙っていた。凪は手を握ったまま、何も言わなかった。
少し経って、奈々未が「名前、考えようか」と言った。
顔を上げたとき、目が少し赤かった。でも笑っていた。口角が上がって、すぐ戻る、あの笑い方で。
「男の子だったら」と凪は言った。
「女の子かもしれないでしょ」
「両方考えよう」
奈々未は「うん」と言って、メモ帳を取り出した。
二人でテーブルに並んで、名前を考えた。いくつも書いて、消して、また書いた。どれがいいかで少し言い合って、笑って、また考えた。
男の子だったら、という名前がいくつか出た。女の子だったら、という名前もいくつか出た。その中に、迷った人が帰ってこられる場所のような人になってほしい、という意味を込めた名前があった。
その夜は結論が出なかった。でも二人とも、悪くない顔をしていた。
あの頃を振り返ると、バラ色だったと思う。
大袈裟な言い方かもしれない。特別なことは何もなかった。毎朝砂糖入りのコーヒーを飲んで、狭い部屋で飯を食って、仕事で疲れて帰ってきて、奈々未の「おかえり」を聞いた。それだけだった。
でもそれだけで、十分すぎるほどだった。
誰かが帰りを待っている。帰る場所がある。隣に奈々未がいる。それがどれほどのことか、凪はそのときようやくわかり始めていた。
父が言っていた。大事なものができると、失うのが怖くなる、と。正確には母が言っていたのを、後から父も同じように感じているだろうと、凪は思っていた。
あのときの凪には、失うという想像ができなかった。
奈々未がいて、子どもが生まれてくる。仕事があって、帰る場所がある。これからも続いていくと、疑いなく思っていた。
バラ色の人生だった。
それがいつまでも続くと、凪は疑いなく思っていた。




