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拝啓、語りの外へ  作者: おやゆびキング
序章

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10/17

序章010

 宝くじを買ったのは、奈々未の思いつきだった。

 

 大学四年の冬、就職活動が一段落した頃のことだ。二人でスーパーへ買い物に行った帰り道、駅前の宝くじ売り場の前を通った。年末ジャンボの看板が出ていた。

 

「買ってみようか」と奈々未が言った。

 

 凪は少し意外に思った。奈々未はどちらかといえば堅実な人間だった。無駄遣いを嫌い、計画を立てて動く。宝くじを買うという発想が、奈々未から出てくるとは思っていなかった。

 

「当たらないよ」と凪は言った。

「当たらなくてもいいじゃない。夢を買うんだから」

 

 凪は少し笑った。「夢を買う、か」

「三百円で夢が買えるなら安いでしょ」

 

 結局二人で一枚ずつ買った。六百円の夢だった。



 当選発表の日、凪は忘れていた。

 

 奈々未に「確認した?」と言われて思い出した。引き出しの中に突っ込んだままだった券を引っ張り出して、番号を確認した。

 

 一致していた。

 

 最初は見間違いだと思った。もう一度確認した。一致していた。三回確認して、凪はようやく信じた。

 

「当たった」と凪は言った。

「え」と奈々未は言った。

 

「当たった」

「どのくらい」

 

「二千万」

 奈々未はしばらく黙った。それからテーブルに両手をついて「本当に?」と言った。

 

「本当に」

 奈々未は凪の手から券を取って、自分でも確認した。一度、二度、三度。それから顔を上げて凪を見た。

 

「どうしよう」と奈々未は言った。

「どうしようって言われても」

 

「二千万よ」

「知ってる」

 

 二人でしばらくテーブルを挟んで向かい合っていた。それから奈々未が笑い始めた。声を出して笑うのは珍しかった。凪につられて笑った。理由もなく、ただおかしかった。



 受け取った二千万の使い道を、二人で話し合った。

 

 奈々未はメモ帳を取り出して、真剣な顔で書き始めた。凪はその横で「もう少し浮かれてもいいのに」と言った。奈々未は「浮かれてる」と言った。メモを取りながら。

 

 結論が出るまで二時間かかった。半分は将来のために手堅く貯金する。残りで、もう少し広い部屋に引っ越す。家具を揃える。それでも余った分は、二人で旅行に行く。

 

「旅行、どこがいい」と凪は聞いた。

「海」と奈々未は即答した。

 

「海のどこですか」

「どこでもいい。海が見えれば」

 奈々未は施設にいた頃、海を見たことがなかったと言った。テレビの中でしか知らなかった、と。凪はそれを聞いて、何も言わなかった。翌月、二人で沖縄へ行った。

 

 空港から出た瞬間の、奈々未の顔を凪は覚えている。南国の空気に少し目を細めて、それからゆっくりと息を吸った。海岸に着いたとき、奈々未はしばらく波打ち際に立ったまま動かなかった。凪は少し離れたところで、それを見ていた。

 

 やがて奈々未が振り返った。「来てよかった」と言った。



 その夜、ホテルの部屋で奈々未が「お義父さんに相談したい」と言った。

 

「父さんに?」

「二千万って、ただ持ってても勿体ないでしょ。将来の家族のために、何かできないかなって。でも私、そういうの全然わからないから」

 

 凪は少し考えた。誠一郎に頼るのは、悪くない選択だった。父は投資や資産運用に詳しかった。凪自身はその方面にほとんど興味がなかったが、奈々未がそう言うなら聞いてみてもいいと思った。

 

「言ってみる」と凪は言った。


 

 帰京して数日後、凪は父に話した。誠一郎は珍しく少し表情を動かして「奈々未さんが言ったのか」と聞いた。「そうだ」と答えると、父は「賢いな」と言った。それだけだった。

 

 誠一郎のすすめで、二千万の一部をいくつかの銘柄に分けて投資に回した。凪にはよくわからない話だったが、奈々未はメモを取りながら真剣に聞いていた。

 

 最初は微増だった。それがじわじわと動き始め、一年後には誰も予想していなかった額になっていた。凪が通帳を見て「これ本当に俺たちの金ですか」と言うと、奈々未は「本当に」と言って、また声を出して笑った。


 

 その週末、二人で凪の実家へ報告に行った。誠一郎はリビングで結果を聞いて「そうか」と言った。佐和子はお茶を持ってきながら「すごいじゃない」と言った。

 

「人生ってこうやって勝ちが確定するんだな」と凪は言った。我ながら気持ちのいい言葉だと思った。

 

 奈々未が凪を見た。少し間があった。

「あなたらしくない」と奈々未は言った。静かな声だったが、凪にはその重さがわかった。「私は努力するあなたが好きなの」

 

 凪は返す言葉が見つからなかった。

 リビングの入り口で、誠一郎と佐和子が目を合わせた。誠一郎が小さく笑った。佐和子も笑った。声を出さない、二人だけの笑い方だった。

 

「堅実なお嫁さんをもらって、凪は幸せ者だな」と誠一郎が言った。

 佐和子は「本当に」と言った。

 

 凪は両親を見て、それから奈々未を見た。奈々未は少し照れた顔をして、コーヒーカップに手を伸ばした。砂糖を一つ入れて、スプーンでかき混ぜた。

 

「肝に銘じます」と凪は言った。

 奈々未は「うん」と言った。でもその口元は、少し笑っていた。

 

「将来の家族のために取っておこう」と奈々未は言った。

 

 さらりと言った。でも凪には、その言葉が胸に刺さった。将来の家族。奈々未の口から出る、その言葉の重さを凪は知っていた。

 

「そうしよう」と凪は言った。

 奈々未は「うん」と言って、またメモ帳に金額を書き始めた。その横顔を、凪はしばらく見ていた。


 


 内定が出たのは、その翌春だった。

 

 凪は父の会社ではなく、別の製薬会社を選んだ。父の七光りではなく、自分の力でやってみたかった。誠一郎にそう話すと、父は少しの間黙って「そうか」と言った。それだけだった。反対もしなかった。翌年の誕生日の夜、洋食屋で父は「自分で決めたことをやり遂げろ」と言った。それがこの話題への、父なりの答えだった。

 

 奈々未は教育関係のNPOに内定が決まった。給与は高くなかったが、奈々未は「やりたいことができる」と言った。その顔を見て、凪は何も言わなかった。言う必要がなかった。

 

 二人で内定祝いをした。場所はあの喫茶店だった。マスターが「おめでとう」と言って、コーヒーを一杯サービスしてくれた。奈々未はいつも通り砂糖を一つ入れた。凪はそれを見て、なんとなく嬉しかった。



 妊娠がわかったのは、社会人一年目の十二月だった。

 

 奈々未から連絡が来たのは、凪が仕事を終えて帰る電車の中だった。「話がある、早く帰ってきて」とだけ書いてあった。

 

 凪は嫌な予感と、別の予感を同時に感じながら帰った。

 部屋に入ると、奈々未がテーブルの前に座っていた。テーブルの上に、細長い棒状のものが置いてあった。

 

 凪はそれを見て、立ったまま少し固まった。

 

「できた」と奈々未は言った。声が少し震えていた。

 凪はコートも脱がずに奈々未の隣に座った。奈々未の手を取った。冷たかった。

 

「怖い?」と凪は聞いた。

「怖い」と奈々未は言った。「嬉しいけど、怖い」

 

「俺も」

 奈々未は凪を見た。「嬉しいの?」

「嬉しいよ」

 

 奈々未はうつむいた。しばらく黙っていた。凪は手を握ったまま、何も言わなかった。


 少し経って、奈々未が「名前、考えようか」と言った。

 顔を上げたとき、目が少し赤かった。でも笑っていた。口角が上がって、すぐ戻る、あの笑い方で。

 

「男の子だったら」と凪は言った。

「女の子かもしれないでしょ」

 

「両方考えよう」

 奈々未は「うん」と言って、メモ帳を取り出した。

 

 二人でテーブルに並んで、名前を考えた。いくつも書いて、消して、また書いた。どれがいいかで少し言い合って、笑って、また考えた。

 

 男の子だったら、という名前がいくつか出た。女の子だったら、という名前もいくつか出た。その中に、迷った人が帰ってこられる場所のような人になってほしい、という意味を込めた名前があった。

 

 その夜は結論が出なかった。でも二人とも、悪くない顔をしていた。



 あの頃を振り返ると、バラ色だったと思う。

 

 大袈裟な言い方かもしれない。特別なことは何もなかった。毎朝砂糖入りのコーヒーを飲んで、狭い部屋で飯を食って、仕事で疲れて帰ってきて、奈々未の「おかえり」を聞いた。それだけだった。

 

 でもそれだけで、十分すぎるほどだった。

 

 誰かが帰りを待っている。帰る場所がある。隣に奈々未がいる。それがどれほどのことか、凪はそのときようやくわかり始めていた。

 

 父が言っていた。大事なものができると、失うのが怖くなる、と。正確には母が言っていたのを、後から父も同じように感じているだろうと、凪は思っていた。

 

 あのときの凪には、失うという想像ができなかった。

 

 奈々未がいて、子どもが生まれてくる。仕事があって、帰る場所がある。これからも続いていくと、疑いなく思っていた。

 

 バラ色の人生だった。

 

 それがいつまでも続くと、凪は疑いなく思っていた。

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