序章001
大幅に加筆修正して再掲します。
初日は11話公開します。11話以降は、毎日20時に投稿します。
高原凪が生まれたのは、十一月の雨の夜だった。
父・高原誠一郎は、その夜も仕事だった。会社の幹部たちとの会食を途中で切り上げ、タクシーの後部座席で何度も携帯を握り直しながら病院へ向かったと、後になって母から聞いた。産声を聞いたとき、誠一郎は廊下の椅子に座ったまま顔を覆って泣いたという。四十二歳にして初めて父になった男の、人目も憚らない泣き方だったと、母はそのたびに少し呆れたように、でも嬉しそうに話した。
高原製薬。祖父の代に創業し、父の代に東証一部上場を果たした。国内シェア三位、従業員数八千人超。凪はその社長の一人息子として生まれた。
恵まれていた、という言葉では足りない。凪の生まれた家は、恵まれているという状態がそもそも空気のように当たり前に存在していた。広い家、清潔な部屋、美味しい食事。欲しいと言えば大抵のものは手に入った。ただし父は、何でも与えることはしなかった。
誕生日と、通知表を持って帰る日。父が凪のために時間を作るのは、一年にその二回だけだった。
初めて通知表を持って帰った日のことを、凪はよく覚えている。小学一年生の秋だった。いつもは夕食の時間に間に合わない父が、その日はリビングにいた。スーツを着たまま、ソファに浅く腰かけて、凪を待っていた。
「見せてみろ」
父は通知表を受け取ると、一ページずつ丁寧にめくった。凪はその横に立って、じっと父の横顔を見ていた。誠一郎の顔は仕事の顔だった。感情を読ませない、静かな目。
しばらくして、父は通知表を閉じた。
「よく頑張った」
それだけだった。褒め言葉としては素っ気ない。でも父の声には、確かに何かが乗っていた。凪にはそれが嬉しかった。大袈裟に褒められるより、その短い言葉のほうがずっとよかった。
「来年も見せろ」
父はそう言って立ち上がり、また仕事に戻った。凪はその背中を見送りながら、来年も同じ言葉を言わせようと思った。
母・高原佐和子は、父とは全く違う人間だった。
誠一郎が静かなら、佐和子は温かかった。誠一郎が結果を見るなら、佐和子は過程を見た。凪が転んで膝を擦りむいて帰ってきたとき、佐和子はまず傷の手当てをして、それから「どこで転んだの」と聞いた。叱るより先に、心配した。
夜、凪が眠れないときは決まって台所に行った。佐和子はたいてい起きていた。本を読んでいるか、お茶を飲んでいるか、ぼんやりと窓の外を見ているか。凪が台所の入り口に立つと、佐和子は振り返って「おいで」と言った。それだけで十分だった。
二人でテーブルに座って、ホットミルクを飲みながら他愛のない話をした。学校のこと、好きな本のこと、夢に見たこと。佐和子は凪の話を、どんなにつまらない内容でも最後まで聞いた。相槌を打ちながら、ときどき静かに笑いながら。
凪はその時間が好きだった。
父の不在を、凪が不満に思ったことはほとんどなかった。それは佐和子が上手く埋めていたからかもしれないし、凪自身がどこかで「父とはそういうものだ」と飲み込んでいたからかもしれない。誠一郎は家にいないとき、社会にいた。八千人の従業員と、その家族の生活を背負っていた。凪はそれを幼いながらに理解していた。帰ってこない夜も、父は仕事をしていた。仕事をすることが誠一郎の愛し方だった。
だからこそ、凪にとってあの年二回が特別だった。
誕生日は、父と二人で夕食を食べた。
どこか高級なレストランではなく、いつも決まった洋食屋だった。駅から少し歩いた、古い建物の一階。テーブルが六つしかない小さな店。父がまだ会社員だった頃から通っている店だと、誠一郎は一度だけ言った。
凪が何歳になったかによって、話の内容は変わった。小学生の頃は学校の話。中学になると進路の話が混じりはじめた。高校になると、会社のことも少し話した。父は凪に継がせることを強制しなかった。ただ、自分が何をしてきたかを、淡々と語った。
凪はいつもハンバーグを頼んだ。父はいつもビーフシチューを頼んだ。それも変わらなかった。
「お前は何になりたいんだ」
十五歳の誕生日に、父が聞いた。
「まだわからない」と凪は答えた。
「そうか」と父は言った。責めもせず、急かしもせず。
「でも、誰かの役に立てるものになりたい」
その言葉は、考えて出てきたものではなかった。口をついて出た、その瞬間に自分でも驚いた。父は少しの間黙って、それからビーフシチューをひとくち食べた。
「それで十分だ」
誠一郎はそう言って、窓の外に目をやった。凪はその横顔を盗み見た。父は少しだけ、目を細めていた。
凪の子ども時代は、穏やかだった。
裕福で、安全で、愛されていた。欠けているものを探すほうが難しいくらい、整った環境だった。凪はそれを当たり前だと思って育った。当たり前だと思っていたから、感謝することも忘れがちだった。
でも後になって、凪はあの頃のことを何度も思い出す。
父の横顔。母の声。洋食屋の匂い。夜中の台所のホットミルク。
どれも失ってから初めて、どれほど重かったかがわかった。
幸せというのはそういうものだと、凪はずいぶん遅くに知った。持っているときは重さを感じない。手放してから初めて、その輪郭が見える。
あの頃の凪には、まだその重さがわからなかった。
ただ、温かかった。それだけは確かだった。




