第七章 姫君の決意と傭兵の望み
左腕が疼く。
こんな日は、決まって良くないことが起こる。
オルタードは朝から憂鬱だった。
部屋の中は少し蒸し暑かったが、わざわざ窓を開ける気にはなれない。
けだるい身体を持て余しながら、寝台に横になった。
そのまま、いつの間にか眠っていたらしい。
目を開けようとした瞬間――部屋の中に、人の気配を感じた。
眠ったふりを続けながら探る。
天井の片隅から、鋭い殺気。
……その後のことは、思い出したくもない。
◇
誰も殺すつもりはなかった。
天井に張りついていた刺客だって、掠り傷を負わせる程度に留めるつもりだった。
世話係が来たとき、とっさにファインを庇った。
理由は分からない。
あのおぞましい光景を見たにも関わらず、ファインが自分を化け物扱いしなかったから――かもしれない。
我ながら愚かな真似だと思う。
刺客に背を向けるなど、撃ってくれと言っているようなもの。
けれど、それでもいいと思った。
そうやって殺されるのも、悪くないと。
世話係が立ち去ると同時に、張り詰めていた気が緩み――オルタードは意識を手放した。
◇
再び目を覚ましたとき。
自分が生きていることに、まず驚いた。
そこは自室とは違う、薄暗い空間。
岩肌がむき出しになった壁。
見覚えのない場所。
「やっとお目覚めかよ」
いきなり顔を覗き込まれ、オルタードは息を呑む。
「どうして……お前が」
「お前じゃなくって、ファイン・スレーブ・エイリアシング・ノイズ。素敵に長ったらしい名前だろ?」
「なぜ殺さなかった?」
問い詰めると、ファインは髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、うーんと低くうなった。
「分かんねえ。気絶してる人間を殺せないなんて、俺は上品な主義じゃなかったはずなんだがな。……らしくもねえ。家族の生活がかかってんのに、何やってんだか」
真顔で呟く姿に、オルタードは思わず呆れる。
「変な奴だな、ノイズは」
「その呼び方はやめろ。ノイズってのはあんまりいい意味じゃねえんだ。ファインでいい」
「そうか」
それきり、しばし沈黙が落ちた。
◇
沈黙を破ったのは、ファインだった。
「なあ王子。王になる気はねえか?」
唐突な言葉に、オルタードは目を瞬く。
「僕は王になる気はない。兄上がなりたいなら勝手になればいい。それに、こんな呪われた腕を持つ人間が王になんかなれるか? 民だって望まない」
「そうでもねえぞ。アイオニアンの民は、あんたを“聖龍の生まれ変わり”だって信じてる。城周辺じゃギミックのせいで妙な噂が流れてるが……悪意は持たれてないさ」
ファインの言葉に、オルタードは自嘲気味に笑った。
「聖龍の生まれ変わり? 人を食らう腕を持つ、この僕が?」
左腕に爪を立てる。鱗がきしむ音。
銀色の鱗に水晶の角と牙。
醜いとは思わなかった。
だが人を食らった事実は消えない。
◇
「その龍は、一応あんたを守ってるんじゃねえのか? 危機のときだけ動くんだろ?」
「僕は常に危険にさらされているようなものだ。その度に人が死ぬくらいなら……僕が死んだ方がいい」
あっさりと口にする「死」。
ファインの胸に、憤りが込み上げる。
「本気で、死んでもいいなんて思ってんのか?」
「刺客にわざと殺されようとしたこともある。でも、この腕が邪魔をする。一度は切り落とそうとしたが、傷一つつかなかった」
暗い瞳で呟くオルタード。
「拳銃を持つお前なら、僕を殺せる。そうすれば報酬ももらえるんだろう?」
「ああ」
「だったら、僕を殺せ。……誰かの幸せに繋がるなら、僕は生まれてきてよかったと思える」
ぎこちなく微笑み、背を向ける。
右腕で左腕を押さえつけながら。
◇
ファインはゆるゆると銃を構えた。
言葉はあまりにも哀しい。
いっそ殺してやったほうが楽かもしれない。
けれど――。
「……出来るかよ、バカ」
銃を捨て、オルタードに近づく。
言葉が見つからず、ただ後ろから乱暴に抱き締めた。
息子にしてやったのと同じように。
龍の頭の感触さえ、気にならなかった。
「また、死に損なった」
どういう顔をしていいか分からぬまま呟くオルタード。
けれど――悪い気はしなかった。
◇
「死ななくていい。死ぬ気になれば、何だって出来る。……王になることだってな」
「……そうかな。もし僕が王になったら、何を望む?」
「望み、ねえ。家族を養って、一緒に暮らしていけるだけの報酬」
「……たった、それだけ?」
オルタードは驚いて目を見開く。
王の命の恩人なら望むものを何でも得られるはず。
けれど、ファインが求めたのはただ家族の平穏だった。
その瞬間、気づく。
この男にとって家族がどれほど大切かを。
「本当に君は、変な奴だな」
――信じてみてもいいかもしれない。
◇
「……と、いうわけなんだ」
オルタードの話を聞き終え、リゾネータは首を傾げた。
ファインは横で大きな欠伸をしている。
この地下室では時の流れは分からないが、もう明け方かもしれなかった。
「あの……兄様。では、亡霊騒ぎは?」
「ああ、それは――ねえ、ファズ?」
くくっと笑い、オルタードはファインを見る。
「はいはい。その話はまた今度だ」
面倒くさそうに横を向くファイン。
リゾネータは初めて兄が笑うのを見て、驚いたように口元を覆った。
「それよりもオルタード。この姫はどうする?」
ファインに問われ、兄妹は顔を見合わせる。
「兄様、私は兄様の味方です。このことは誰にも言いません」
「ありがとう、リゾネータ」
オルタードは地下室の扉へ歩み寄る。
このままでは乳母たちが騒ぎ出すかもしれない。
――そのとき。
誰かの立ち去る足音が聞こえた。
「い、今のは……?」
オルタードの顔から血の気が引いていく。
今までの会話を、誰かに聞かれていたかもしれない。
重苦しい沈黙が、地下室を包み込んだ。