第一章 気になる噂話
「――あそこには邪神が封じられているんだとさ」
龍の形をした大陸、サン・ドラーグナ。
その前足のあたりに浮かぶ円形の島は、まるで龍が宝玉を抱えているように見える。
長い年月、そこへ立ち入ることは禁じられていた。
禁忌を破った者がいたなら、呪いに触れるとまで言われる島。
「けど、その禁を最初に破ったのが、僕の先祖だ」
緑豊かなアイオニアン王国。
城の裏には深い森が広がり、正門の前には賑やかな城下町がある。
その一角の酒場で、ひとりの若者が酔いに任せて熱弁を振るっていた。
「だから、あいつは呪われてる。でなきゃ、あんな醜い姿のはずがないよ。僕と同じ血が流れてるなんて、おぞましくて考えたくもないね!」
何度も繰り返した台詞を叫ぶと、若者はよく冷えた赤い酒を一気にあおる。
栗色の髪に碧い瞳――この国ではごく普通の容姿だ。
上等な服を着ているが、気品はあまり感じられない。
やがて、若者はテーブルに突っ伏し、そのまま眠ってしまった。
◇
「……同じ酒を一杯くれないか」
少し離れた席に座っていた男が、酒場の主人に声をかける。
ファイン・スレーブ。肩まで伸びた髪と薄い髭を持つが、三十代半ばの妻子持ちには見えないほど童顔の男だ。
やがて運ばれてきた赤い酒を口にして、ファインは顔をしかめた。
「何だ、やけに甘いな」
主人は笑って答える。
「旦那、この辺りの人じゃないね。カナの実から作った酒ですよ。酸っぱい実も発酵させると甘くなるんでさあ」
暗い照明の下、赤い酒は血のように濃く見えた。
ファインはふと、先ほどの若者の言葉を思い出す。
「呪われた血って、どういう話だ?」
思わず漏れた問いに、主人はぎょっとした顔をする。
慌てて眠る若者を振り返り、小声で答えた。
「旦那、本当にご存じないんですか? あの御仁はラフォルテ王家のアルペジオ王子で。来ては弟のオルタード王子の悪口ばかり言ってるんです。……まあ、確かにオルタード様には人と違う特徴が」
そこで言葉を濁す主人。
ファインは苦笑して、グラスを揺らした。
「王子様が酒場で弟の悪口か。たいしたもんだな」
◇
その夜。
「なるほど、例の噂は順調に広まっているようですねえ」
眼鏡を押し上げながら笑ったのは、アルペジオ王子の教育係ギミック。三十代ほどの男だが、瞳は深い闇色で生気がなく、じっと見ていると吸い込まれそうなほどだった。
「まだ城の周辺だけだがな。それに……あんたの王子様は評判が悪いぜ」
ラフォルテ城の一室に潜り込んでいたファインは、世話係の衣装を着せられている。
髭まで剃られたせいで機嫌は悪かった。
「これから良くなりますよ。貴方が仕事をきっちり果たしてくれればね」
ギミックが冷ややかに笑う。今回の依頼主は彼だった。
「……わざわざ継承権から遠い弟王子を殺す理由は?」
「オルタード王子の“異形の姿”。それを聖龍の生まれ変わりと信じる者がいるのです。不安の芽は早いうちに摘み取らねば」
ファインは溜め息をつき、無言で懐に忍ばせた拳銃に触れる。
今回の暗殺は、銃でなければならないという。
なぜかは、まだ聞かされていなかった。