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その日の残業中に、休憩室によるとお昼の休憩時間に三重島たちが話していた霜月がベンチに座りながら、ペットボトルのコーヒーを飲んでいた。肩幅が広く、運動をしていた名残のような体型が白いシャツとよく似合っていた。
「お疲れ様です」
微笑みながら言うと彼も気づいて挨拶してきた。飲み物を買って、少し離れたベンチに座ると、霜月が話しかけてきた。
「残業ですか?まだ新人なのに」
「私仕事遅いのでしょうがないんです」
先輩の椿からはしょっちゅう注意されていた。サービス残業が見つかれば、上司の仕事の割り当てがちゃんとなってないことになることを残業のたびに話してきたが、みちかはそれを無視して居残っていた。
みちかは霜月が自分のことを知っていることに少し驚いていた。他部署の人間だし、自分より年下の女のことなど覚えているわけがないと思っていた。
「仕事量が合ってないんじゃ?」
霜月が心配しながら言ってきたが、仕事量はちょうどいいくらいで、ただ一つの仕事をちゃんと完成させたいと思ってしまい、確認の時間が沢山かかることを説明した。
「そっか…、総務っていろんな仕事あるもんね」
「そうなんです、議事録とったり、会議の資料を用意したり、雑用なんかもするので、忙しくて」
「無理しないでね」
霜月の濃い眉毛の下の目が優しくなり、みちかをいたわるように見つめる。
「お気遣いありがとうございます。」
そう言って、休憩室から離れようとしたとき、霜月が言いにくそうにモジモジしながら声をかけてきた。
「この前、たまたま見てしまったんだけど、君営業部の男から張り手で叩かれてたよね?大丈夫?」
ギクッとして、思わず振り向く。瀬尾と口論していたところをたまたま見られていたのか。あの場所には誰もいないと思っていたのに、遠くから見ていたのだろうか。みちかは顔が痙攣するのを感じながら、焦って嘘をついた。
「あ、あれは、蚊がいて私にとまった瞬間にそうなったんです」
霜月はそれを聞いた瞬間、同情的な顔をした。嘘だと見抜いた表情をしていた。彼はみちかを気の毒そうに見つめながら、言葉を続けた。
「君たちがそういう関係だとしたら、俺が割り込んであーだこーだー言うのも迷惑だと思うけど、なんか違う気がしてね。君は明らかにあの男から逃げたかっていた雰囲気だったから、脅されてるようにみえて」
霜月の慧眼に心のなかで拍手しながら、みちかは自分が瀬尾から頼まれた仕事をしてなかったから彼が迷惑してると直接言ってきたという嘘をついた。あの日の出来事をすべて見られていたとしたら、すぐバレる嘘ではあったが、霜月は相変わらず同情の眼差しでみちかを心配していた。
「女性に手を挙げるなんて、いくら何でもやりすぎだろう。仕事で失敗したとしても、手をあげていいわけない。俺があいつに言ってやろうか」
「そこまですることじゃないですよ。迷惑かけるし。でもそこまでしてくれて嬉しいです。私なら見て見ぬふりするから」
みちかが思ったことをありのまま伝えると、霜月はふっとかなしそうに微笑んだ。
「君を見てると、なんだか前に付き合った女性を思い出してね。助けたくなってしまうんだ」
霜月の元妻のことだろうか。彼は奥さんと別れて、バツイチだと三重島たちは言っていた。詳しく聞く気にはなれなかったが、彼が彼女と自分を重ねてみているのがわかった。だから、存在に気づいたのだろうか。
「君を見ていると可哀想だと思ってしまうんだ」
またかわいそうの言葉がみちかを貫く。男たちは同情的に自分を見つめてくる。自分が助けれるかもしれないと思うのだろうか。それとも、瀬尾のように弱い人間を利用するのが目的なのだろうか。
「多分、あの人、霜月さんが注意したら怒って、もっと酷くなると思うので、大丈夫です」
「君はそういう匂いをはなってしまうんだろうな。
ああいう男はそれを敏感に嗅ぎ分けるんだ。そして、そういう女性を狙っていたぶるんだ。あいつはそういうヤツに見えた」
自分が自ら弱い立場を作ってしまうのだろうか。霜月の言っている瀬尾の性格はまるっきり当てはまっていた。瀬尾は敏感に自分を探り出して、手を出してきたような気がしていた。あの服装の話といい、みちかがしていた不特定多数の男性との性行為を発見した件といい、瀬尾が自分を狙って付け回している可能性があった。彼は今、新たな女性に首ったけになっていて、みちかをターゲットから外したが、それも時間の問題な気がした。多情な男瀬尾は、最終的に根源的な欲求を求めて、みちかに再び接触するに違いない。彼は、本能的な欲求である、暴力の快感と性衝動に突き動かされている獣のような男なのだ。
みちかは霜月に助けを求めたかったが、あの悪魔のような瀬尾の逆襲が怖くて、できなかった。瀬尾は霜月に接触した場合、みちかの秘密を嬉々として高らかに叫ぶように霜月に伝えるだろう。その時、彼はどう思うのか。哀れに思って黙ってくれるかもしれないが、もう関わりを持ちたくないと離れていく可能性も十分あった。その時、瀬尾はほくそ笑むに違いない。助けを求めても状況は変化しない。みちかが最初からそういう行為をしなければ、そんな不幸な立場に陥ることはなかったのだと宣告するのだ。
霜月はみちかの前まで足を進めると、名刺を取り出して差し出してきた。
「これ俺の名刺。なにかあったら俺に言って。俺があいつにガツンというから」
そういうと霜月は、休憩室から出ていった。これは希望ではあったが、すがりついた瞬間に粉々に砕けるシャボン玉のような儚い希望だった。