4
覚悟はできているか…。
昨日に起きた瀬尾との行為を振り返りながら、一人デスクで総務の事務作業をしている時だった。部署はたったの4人でかなりの雑務を手広く行っている。みちかはまだ2年目でまだまだ覚えることがたくさんだったが、彼女の教育係は若い新人を潰すクラッシャーな性格で、彼女の個人的な服装や些細な会話を聞いては揚げ足をとるように嫌味を言い放ってきた。例えば、過去にみちかがふんわりとした黄色のブラウスに白のレースのタイトスカートをはいて出勤したときは、あからさまにいやな顔をして、男に媚びていると聞こえるように言ってきたことがあった。彼女はそれを聞いて、部署内が彼女に対して冷たくなっていくのを感じ、すぐさまパンツスーツに変えた。すると、クラッシャーな教育係は満足したように批判しなくなったのだった。
教育係は部署内の空気を握っていた。
「職場は仕事をするところだからね。あんな派手な格好して、あの日は合コンでも行くつもりだったのかしら」
彼女が聞こえるようにそう言うと、総務部の人たちは追従するようにクスクス笑った。みちかは恥ずかしくなり、俯きながら仕事に没頭して、その嫌な記憶を消し去ろうとした。そんなとき瀬尾と知り合ったのだ。
瀬尾は営業部門で会社では花形の部署に所属していた。明るい快活な声、礼儀正しさとフットワークの軽さを両立したコミュニケーション能力の高さ、恵まれた容姿を持つ彼は目立つ存在だった。彼は誰の目から見ても好青年で、愛想が良かった。彼は上司に良く好まれていた。女性社員との関係も良好で、いつも柔らかな笑顔で女性と話しているのを見かけた。そんな彼と休憩室で2人きりになったことがあった。
「君、総務部のこでしょ?」
するりと滑り込むような自然な調子で、椅子に腰掛けていたみちかの前に立ちながら缶コーヒーを飲む瀬尾が近づいてきた。みちかは初めて声をかけられて、どぎまぎしながら返事した。
「そうです」
「この前着てた黄色いブラウスと白いスカート可愛かったなあと思って、覚えてたんだよね。今日はずいぶん固い格好だけど」
瀬尾がみちかの格好を個人的に覚えていたことに、嬉しさと恥ずかしさを感じながら警戒心を解くことなく、みちかは言葉を探した。
「あれはちょっと、気分がよかったので着てただけです。普段はこんな格好です」
「ふーん、その様子だと服装にいちゃもんつけられちゃったようだね」
ぎくりと体を震わせ、ぎょっとした顔で瀬尾をみると、彼は微笑んで「そうなんでしょ?」と言ってきた。
「君の反応見てるだけで想像つくよ。いびられたわけだ。まあ新人なんてそんなもんだよ。君にはあの服のほうが似合ってるけど、ここでやってくためには我慢しないとね」
みちかは瀬尾の格好を見て、嫉妬した。彼は明らかに洒落た格好をしていたが、誰一人として彼に文句を言う人はいなかった。その立場の強さと、彼の機転の利き方がみちかにはなくて、とても羨ましかった。
みちかは、この会社で勤め始めてから日に日に自傷行為である不特定多数の男たちとの性行為をする頻度ががぐんと上がっていくのを感じながら、出勤していた。1時間ほどサービス残業をしたあとに、サイトで出会った男とゆきずりのセックスをして発散したあと、家に帰って死んだように寝ることの繰り返しだった。彼女にとって総務の仕事は、自分に合わない仕事だと薄々思い始めていた。まず、他部署の人間との接触が多く、その対応が内向的な彼女にはいちいち負担になっていた。また、どうでもいいような雑務が多く、頻繁に他部署からその仕事を投げかけられ、処理していくが、これが適切な評価のある仕事には全く思えなかった。
瀬尾とはよく休憩室で2人きりになった。みちかはサービス残業をしているときによくその休憩室に行って、一人の時間を味わっていたが、瀬尾もその時間帯にやってくると分かって内心心が弾んだ。彼は持ち前の愛想の良さとフットワークの軽さで彼女の警戒心を解き、彼女が好きそうな話題や仕事のことを話した。そのひと時は、窮屈な毎日の中のささやかなご褒美だと思っていた。
ある日だった。いつものように仕事を終えて、サービス残業をしてるときに自動販売機の前に立って水の購入ボタンを押した時だった。瀬尾の足音が後ろから聞こえ、笑顔で振り返ったら、その顔には薄ら笑いが浮かべられていた。ねっとりした、何とも言えない不可解な表情に戸惑いながらも、お疲れ様ですというと、瀬尾がニヤニヤ笑いながらこの前会ったときとは違う態度で話しかけてきた。
「君ってさあ、意外とやるんだね」
纏わりつくような粘っこい話し方だった。明らかにいつもの爽やかな声ではなく、声を作っていることを感じた。
「なにをですか」
緊張感がみちかを襲う。みちかは瀬尾の様子が違うことに気付いて身を固くした。
「俺たまたま見ちゃったんだよ。男とホテル行ってるの。それも2度目は違う男とさ。君、けっこう好き者じゃないか」
「え」
「俺君のこといい子だと思ってたからさ。あ、まあ若いし、付き合ってるやつもいるだろうなって思ってその時は見ただけだったんだけど、2回目見たとき違う男と一緒だったからさ。あれ?って思っちゃったわけ」
みちかの顔が凍りつく。彼女は、会社の人間に知られないように隣町で不特定多数と会っていた。それも毎回違うホテルにしていた。それに加えて、服装も会社できている服ではなく、持参した服で髪形も会社でのひとつ結びではなく、髪を下げてカモフラージュしているつもりだった。それもその頻度は週に1回や2回だった。その数々の工夫にも関わらず、見つかってしまったのだ。
「セックス好きなんだね。いい趣味じゃん。
俺ともしてよ」
瀬尾の顔は今でも忘れられない。あのいつも浮かべている柔和な笑顔はなく、暗いいやらしい笑みを浮かべていた。彼の二面性に気づいたのはその頃で、みちかは彼に不特定多数としていることを会社の人間にバラされたくないあまり承諾してしまった。彼はそのことをほのめかすことはなかったが、彼女は彼に弱みを握られたように感じていた。みちかはこの日を境にして、瀬尾と休憩室で会うのをやめた。怖かったのだ。彼の態度の変わりようは、分かりやすいものであったし、彼とこれ以上仲良くなるとどんどんエスカレートしていくように感じた。その予想は当たっていて、連絡先を交換した瀬尾は、毎日のように会いたいと言ってきた。その短文は、以前の気を遣ったやりとりとは程遠く、ぞんざいなまるで見下した相手には気遣ってやる必要なんてないと言っているような欲望をストレートに表している文章だった。彼と最初にしたときは、恐ろしいほど淡々としたもので、無言でホテルに入って、雰囲気も何も作ることもなく、ただただ瀬尾の快楽を満足させるためだけの行為をした。そのときに太ももの傷をみられ、自傷のあとだと説明すると、彼は笑った。笑われたみちかはとても傷ついてしまい、彼とするときはどことなく後ろめたかった。
「他の男たちとやるようにしてよ」
彼は挑発するようにそう言って、みちかの反応を楽しんでいた。彼女は複雑な思いで、この圧政者に耐えていた。言うことを聞かないと本当に会社の人間にバラされると思った。必死に奉仕した。にも関わらず、彼は退屈さを感じて、新たな屈辱をみちかに対して振るった。
「俺ってさあ、普通のプレイじゃ満足しないんだよね。昔からさ、彼女とやるとき犯すように無理くりやるのが好きなんだよ。君に手伝ってもらいたいんだ」
そんな事を言って会った男たちは一人もいなかった。彼の嗜好は犯罪まがいだった。その危険さや暴力的な度合いが極度に達すると、彼は荒れ狂ったようにみちかを陵辱するようだった。彼の二面性は際立っていた。彼は容赦なく、彼女をいたぶった。その淡々とした冷たさは、あの休憩室で出会った瀬尾の様子をみじんも感じさせなかった。その頃からだった。痛みを感じると、日頃感じていた焦りを感じなくてすむことに気づいた。
仕事をしている時も、休んでいる時も感じた焦燥感は、彼女に纏わりつくようにくっついていた。それは彼女の気力を奪い、食欲を奪うほどで、彼女は、朝食を食べると吐くまでになっていた。体に異変がでているのは明白だったが、ボロボロになった体を無理くり立ち上がらせながら、彼女は毎日何とか仕事に行っていた。
廊下で度々、瀬尾とすれ違うたびに背中に冷たい刃物を当てられるようで、いつもドギマギしていた。彼がどんな顔で自分を見ているのか、確認することはほとんどできなかった。会社では接触はほとんどしなかったが、毎日送ってくる会う催促と激しい暴力に次第に体が悲鳴をあげ始めて、無視するようになっていた。すると、2日ぐらい後あたりから、瀬尾がみちかが1人になったときに、足音をたてながら鋭い視線で凝視しながら隣まで来た。その重々しい雰囲気に圧倒されながら、震える体を抑えて、怯えた目で彼を仰ぎ見ると、鋭い口調で言った。
「連絡したよね?無視するの?」
「体が痛くて辛いんです」
「ふーん、いろんなやつとやってる割に体は弱いんだね」
その棘のある言い方にぎくりとしながら、言葉を探すが何も見つからなかった。
「俺は何時でも君をここから追い払うことはできるんだからね」
彼が黒い笑みを浮かべながら、脅してきた。みちかの緊張が頂点に達し、胃から酸っぱいものがこみ上げてきてその場でえづいてしまった。
「おっと、大丈夫かい?君顔色がとても悪いよ」
その白々しい淡々とした言葉は、ただの事実確認のようにみちかの耳を通り過ぎる。勢いよく椅子から立ちたがり、トイレに駆け込もうとしたとき、瀬尾に右腕を掴まれる。
「逃げるなよ」
低い声が響く。みちかは視線を四方八方に飛ばしながら、この誰も助けてくれない状況に耐えるしか無かった。
「俺が君のやってることをそれとなくみんなにほのめかして、君が汚い女っていう評判をつけることなんか朝飯前なんだよ。君はまだ新人で、俺は何年もここで勤めてるからね。会社は風紀を乱す淫乱な女なんて見つければ、評判が傷つく前に迅速に辞めてもらうようにするだろうからね。そういうストーリーを展開して、君を締め出すこともできるけど、まだまだ君には利用価値があるし、君だって簡単にここを辞めたくないだろう?」
みちかはその場でこみ上げる胃液を手に吐き出してしまう。指先から胃液がしたたり落ち、地面に滴る。
「君は今絶望的な状況なわけだ。俺からは毎日のように痛めつけられるは、行為しないってなると締め出しを食らいそうになるはハチャメチャだ。でも、君がそんな隠し事をしなければこんなことにはならなかったんだよ」
みちかの瞳から自然に涙が流れる。吐き気のせいだった。
「そんな泣いても俺は同情しないし、助ける気はないよ。自業自得だろう?ヤリマンさん」
「離してください、吐き気が止まらないんです…」
「ここで吐けばいいよ。匂いがつくがね。俺の知ったことじゃないや」
再び胃からせり上がってくるものが来た時だった。口を手で覆って床に胃液を零さないようにぎっちり覆う。
「お前ら何やってんだよ?仕事終わったんじゃねーのかよ」
上司の三重島が、忘れ物を取りに来たのか部署に戻ってきた。みちかに安堵の気持ちが沸き起こる。こんなにこの男に救われたことはなかった。
「三重島さん、お疲れ様です。ちょっと清水さんに用があって」
瀬尾は真顔からあの愛想のいい表情を作り、三重島に不審がられないようにカモフラージュした。
「おう!瀬尾じゃねーか。珍しい組み合わせだな。お前、彼女いんのにみちかにも手を出すのかよ。ほんと節操ねーな」
「僕はフリーですよ。変なウワサを広げないでくださいよ」
「まあ、社内恋愛はめんどいことになるからやめとけよ。俺がいうから説得力あるだろ?」
瀬尾が三重島に気を取られている間に、腕を引き剥がしてトイレに駆け込む。瀬尾が阻もうとしたが、三重島に話しかけられてうまくいかなかった。
みちかは盛大にトイレに胃液を吐き出すと、しばらくトイレの便座と対面しながら、放心していた。30分くらいたっただろうか。手を洗って、汚れた口周りを拭いながら、デスクに戻ろうとすると、瀬尾がずっと立ってスマホを弄りながら待っていた。みちかはうんざりしながら、おずおずと席に戻ると、案の定瀬尾が冷たい声音で言ってきた。
「遅かったじゃないか。ずっと待ってたんだけどな」
みちかは無言で席につく。やはりまだ吐き気はおさまなかった。瀬尾がバンとデスクをたたいて怒りを示した。
「無視か?なんか言ったらどうなんだ」
「今日は行けません」
「それを決めるのは俺なんだよ。君に選択肢はない。君が吐き気を感じながらでも、俺がやるって言ったらやるんだよ」
「体が壊れるんです、お願いだからやめてください」
「まだ壊れてないさ。吐き気があるだけだ。まだピンピンしてる。立てるしね」
「いやです」
そう叫んだ時だった。勢いよく横っ面を平手でバチンと叩かれた。叩かれたほおがじんわり熱をこもらせる。
「もう1回言ったら、今度は殴るよ」
「監視カメラにうつりますよ」
「いいさ。君に侮辱されたっていうからね」
瀬尾の瞳が、暗闇のようで飲み込むように何の感情の発露も見せず、みちかを翻弄してくる。
みちかに選択肢はなく、悪魔に引きずられるようにホテルに向かった。
淡々とした拷問のような性処理を終え、放心していた時だった。瀬尾が覆いかぶさりながら、みちかに尋ねてきた。
「きみは何でいろんな男としたくなるんだい?」
瀬尾がみちかに興味を持った瞬間だった。あの休憩室で尋ねられたときのような気軽な雰囲気だった。ふわっと身近に警戒心がほぐれたが、彼女は怯えた目つきで瀬尾を見ながらいった。
「安心するから。やってるときは焦りを感じないんです」
瀬尾は感心した声を上げて、みちかの髪に触れてくる。体がこわばる。
「必要とされたいってことでもあるのかな。孤立感を感じてるのか」
瀬尾が覗き込むようにみちかを見つめてくる。その露骨な視線がそそがれ、みちかは俯くしかなかった。
「瀬尾さんはどうして私なんかとこういう事するんですか?探せばたくさんあなたと付き合う女性はいますよ」
「俺は他人が不幸になってるのを見るのが好きなんだよ。幸せそうな雰囲気の女を突き落とすのも楽しいけど、あいつら煩いし俺の評判が落ちるから、反撃しなそうな奴を選ぶんだ」
潔いほどの性格の悪い回答だった。それに見事に当てはまったのがみちかだったということらしい。
みちかは無言になって、ただ放心していた。自分の不幸具合をこんなに呪ったことはない。
「君は可哀想だ、とてもね」
瀬尾はそう言うと同情的な目つきをしながらキスをしてきた。