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ノウ 3


 退職や引っ越しの手続きはすべて、琉斗がしてくれた。あちこちに電話をかけたり、書類を提出したり、役所に行ったりはノウにはとてもむずかしいことだったから、ぜんぶ琉斗が行ってくれてものすごくたすかった。

 ノウは身ひとつで彼の家へ行くだけで良かった。


 琉斗に連れて来られたのは、大きな一軒家だった。二階建てで、部屋が四つもあるのに琉斗はここでひとりで住んでいるのだという。

 驚いたのは、ノウが琉斗の家を訪れたときにはすでに、ノウの部屋が用意されていたことだ。ベッドや机、タンスや本棚などがきれいに並んでおり、一番日当たりが良くて、リビングの次に大きな部屋だった。ノウがこれまで住んでいたアパートとは比べ物にならないぐらい居心地良く整えられた空間だった。


 ノウの部屋の隣が、琉斗の部屋。

 覗かせてもらったら、ノウの部屋があたたかな色合いのもので揃えられていたのと対照的に、琉斗の部屋はモノトーンですっきりとした印象だった。


 そしてこの家には地下室があって、そこが琉斗の『作業部屋』だと教えてもらった。

 作業部屋の中には色んな機材や楽器が並べられている。


「ここはノウの好きに使っていいからね」


 琉斗はそう言って、家の鍵と一緒に作業部屋の鍵もノウにくれた。


 琉斗の仕事は音楽関係らしい。詳しい内容は言わずに、ただ音楽に携わっているとだけ、琉斗は教えてくれた。詳細を聞いたところでノウにはきっと理解できなかったから、簡単で短い琉斗の説明はノウにはわかりやすかった。

 因みに彼の年齢はノウよりも五つ上の二十五歳。

 学生の頃はバンドも組んでいた、と聞いて、ノウは琉斗の音楽が聴きたいとねだった。


 琉斗が照れながらも音楽プレーヤーで再生してくれる。

 流れ出したギターは確かに琉斗の奏でる音で、ノウは最初うっとりと聴いていたけれど、ボーカルの声が流れ出してからは一分ももたずに()を上げてしまった。


「あんまり好きじゃない」


 ノウがそう言うと、琉斗はガッカリしたように肩を落とした。

 悄然とした彼の様子にノウは目を瞬かせて、それから言葉足らずだったことに気づく。


「リュートのギターは好き」


 好きじゃないのはボーカルから出る音で、琉斗のギターは好きだと伝えると、琉斗が嬉しそうににっこりと笑った。


「僕も、ノウの歌が好きだよ」


 これまでは、ノウが歌うとうるさいと怒られることの方が多かった。好きだと褒められたことなんて、たぶん、一度もなかったように思う。だから琉斗の言葉は新鮮に聞こえて、ノウの頬はニマニマと緩んだ。


 琉斗と二人なら、永遠に歌える。

 歌がどんどん降りてくる。

 次はどんな歌がいいだろうか。

 この作業部屋で琉斗と二人、音を奏でる自分を想像して、ノウの胸は躍った。


 引っ越しに当たってノウの私物は少なかったので、片付けはあっという間に終わった。ほとんど琉斗がしてくれた。


 休憩がてらにリビングでジュースを飲んでいると、

「ところでノウ」

 と、改まった口調で琉斗が切り出してきた。


「色々手続きをしていて気づいたんだけど」

「うん」

「きみの名前」

「うん」

「クサカベソウヤなんだけど」

「んん?」


 ノウは首を傾げた。

 誰も呼ばないからすっかり忘れていた自分の本当の名前の音は、知らない国の言葉のように聞こえた。

 クサカベソウヤ? そんな名前だったかもしれない。

 ノウが首を捻る動作を真似るように、琉斗も軽く小首を傾げて、不思議そうに口を開いた。


「ノウってあだ名、どこから来たの?」


 琉斗の質問に、ノウは少し考えてから答えた。   


「ん~と、ノウは、ノウナシの、ノウなの」


 能無しで、脳無し。


「ノウは、役に立たない能無しで、脳みそが足りない脳無しだから、ノウ」


 施設では他の子どもたちにノウナシ、ノウナシ、と指をさされて笑われた。

 みんな笑っていたのでノウもつられて笑ったら、余計にギャハハと笑われた。

 ノウナシのノウ、と節をつけて歌う子も居た。それが楽しくてノウも歌った。ノウは、ノウナシのノウ。口にするとリズムが良くて、らららと歌を続けたら、「ノウがまた変な歌歌ってる」「うるさいなぁ」と後ろから背中を蹴られたりもした。


 子どもの頃を思い出してノウは小さく笑ったけれど、琉斗の表情はみるみるうちに険しく強張っていった。


「きみ、そんなふうに呼ばれてなんで笑ってるんだよ」


 眉を吊り上げた琉斗が、テーブルの向かいから半身を乗り出して、ノウの腕を掴んでくる。

 ノウはびっくりして琉斗を見つめた。

 彼がなぜ急に怒りだしたのかわからなかった。

 掴まれた手を引こうとしたら、肘がジュースのグラスに当たった。テーブルの上に、オレンジ色の液体が広がってゆく。


 ノウがグラスを倒したことを、琉斗は怒らなかった。施設なら絶対に叱られる場面だったのに。

 琉斗はオレンジジュースがこぼれたことには一切構わずに、ただひたすらノウの目を真っ直ぐに覗いていた。


「そんなふうに二度と呼ばせちゃダメだ。きみにはちゃんと名前があるんだから!」

「……でも、ノウはノウだから」


 それでいい、と続けたら、琉斗の手の力が強まった。


聡也(そうや)。きみは聡也だ。ノウじゃない」

「ノウでいいよ」

「僕は呼ばない。もう呼ばない」


 しずかな動作で首を振って、琉斗がじっとこちらを見つめた。


「聡也。理不尽な扱いに慣れちゃダメだ。これからは好きなことを、好きなだけするといいよ。僕がきみを、大切にするから」


 琉斗の言葉が、地面に触れた雪のように溶けて、ノウの……聡也の鼓膜に沁みた。


 なぜ、彼はこんなにもひたむきな目で、聡也を見つめてくるのだろう。

 なぜ、出会ったばかりの自分をこれほどに気にかけてくれるのだろう。


 わからないことばかりだったけれど、琉斗の眼差しに悪意などは欠片もなくて、聡也はなんの抵抗もなく彼のすべてを信じ、この日を境にノウという名前を捨てたのだった。 













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