ノウ 2
ノウの日常に異分子が紛れ込んだのは、冬のある日のことだった。
いつものように仕事帰りに河川敷の土手を下り、裸足になって橋梁の下で歌っていると、音の切れ目で突然拍手が割り込んできた。
驚いて振り向くと、背の高い青年がビジネスバッグを小脇に挟んで、両手を打ち鳴らしていた。
「すごい! すごいよきみ! 感動した!」
彼は弾むようにそう言うと、ノウの傍へと走り寄ってきて、ぎゅっと両方の手を握ってきた。
あたたかな手だった。距離の近さに驚きはしたけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
「きみの歌はすごい! 見てよこの鳥肌……って、見えないか」
コートをしっかりと着込んだ自身の腕を見て、青年が明るく笑う。あんまりにも楽しそうな笑顔に、見ているノウまでつられてうふっと笑ってしまった。
青年の茶色の目が丸くなる。その目でじっと見つめられて、思わず見つめ返した。
数秒、無言で視線が絡み合う。
青年が相好を崩した。
「きみ、名前は?」
問われて、「ノウ」と答えた。それ以外にパッと思いつく名前がなかった。青年は小首を傾げて、口の中で「ノウ」と呟いた。
「ノウ、僕は琉斗。琉斗だよ」
琉斗、と名乗った彼がバッグから皮の名刺入れを取り出し、中から一枚を摘まみだして恭しくノウへと差し出してきた。
ノウはポカンとしてしまう。
自分に向けられている小さな紙がなんのかわからないし、書かれている漢字も難しくて読めない。ただ、長方形の紙に添えられた琉斗の爪が、とてもきれいだなと思った。艶があって、細長い指の先端にふさわしい形をしている。
琉斗が軽く背を丸め、指先ばかりを凝視していたノウを覗き込んで、眉をくしゃりと下げて笑った。
「受け取って?」
促され、恐る恐る親指と人差し指でそれを挟んだ。
琉斗の指と比べると、爪はガタガタで赤切れもあって、きたない手だった。なぜだか急にそれが恥ずかしくなって、ノウは名刺を持った手をさっと体の後ろに隠した。
「ノウ、もっと歌いたくない?」
突然、琉斗がそんなことを言った。
一瞬の躊躇もなくノウは頷いた。ずっと歌っていたい。
「僕ももっと聴きたい。ノウ、歌ってくれる?」
琉斗に促され、ノウは息を吸い込んだ。
唇から、音と一緒に白く凍った息が飛び出す。
ノウの声は伸びやかに橋裏に反響して、川の水に押し流されるようにして空気へと溶けていった。
一曲が終わるたびに、琉斗からの拍手が鳴り響いた。
ノウが琉斗と別れて家に帰ってからも、パチパチと乾いた拍手の音がずっと、耳の奥にやわらかく残り続けていた。
琉斗はその日から毎日、ノウの歌を聴きに来た。
彼は三日目にはノートを手にしていた。
「ノウの曲を書き留めてもいいかな?」
書き留める、という意味がわからなかったけれど、ノウは頷いた。
琉斗はノウが歌っている間、鬼気迫る表情でずっと鉛筆を走らせていた。
ノウが歌い終わっても琉斗の手は止まらなかった。
淀みなく動く鉛筆の先が丸くなってゆくのが面白くて、ノウはそれをじっと見下ろしていた。
「できた」
琉斗がようやく顔を上げた。
「見て、ノウ」
誇らしげに広げられたノート。そこには五本の線の上をオタマジャクシのような記号が踊っていた。見ているだけでなんだか楽しくなって、ノウは思わず笑みをこぼした。
これはなに? と問うと、「音符だよ」と琉斗が答えてくれた。音符ってなんだろう。首を傾げたノウへと、琉斗が弾むように告げてくる。
「さっきのノウの曲を書いたんだ」
ノウの曲、と言われてもよくわからない。
「見てて」
琉斗が音符のひとつを指さして、「ら」と声を出した。
「ら、ら、ら~ら、らら」
琉斗の指が五本の線の上を滑る。音符に行き当たるたびに彼の口からは、さっきのノウの歌と同じメロディがこぼれた。
ノウは目を思い切り見開いた。
すごい。
すごい。
「なんで歌えるの?」
僕の歌なのに、どうして琉斗が歌えるんだろう?
一度聴いただけなのに、まるきりさっきのノウの歌そのものだった。
不思議に思って訊ねると、琉斗がくしゃりと笑った。
「こうやって楽譜にすれば、誰でも歌えるんだよ。ねぇ、ノウ。きみの歌に伴奏をつけたい。今度、ギターを持ってきてもいい?」
ギター、というものがよくわからなかったけれどノウは頷いた。琉斗がすごく楽しそうだったから、きっとノウにとっても楽しいことなんだろうと思えた。
翌日、琉斗は黒い大きなケースを背負ってきた。
興味津々で見つめるノウの前で、琉斗がケースを開いた。
中には、きれいな飴色の木でできた楽器が入っていた。クラシックギターというのだと琉斗が教えてくれた。
琉斗はギターを抱えると、地面に座り込み、なにやら少しあちこちを触りだした。
ノウはその間に琉斗のノートをパラパラと見た。
昨日よりも音符がたくさん増えていて驚いた。
「ノウ、聴いてて」
琉斗がそう言って、息を吸い込んだ。
ポロン、と音が鳴った。
琉斗がギターを爪弾く。ポロン、ポロン、と曲が奏でられる。ノウの歌だ。
ノウは琉斗の隣に腰を下ろした。地面は冷たい。でも靴を脱いで、靴下も脱いで、裸足の足を土の上に置いて、唇を開く。白い息とともに、歌が宙を舞った。琉斗の出す音に合わせて、歌が下りてくる。
琉斗のギターと、ノウの声が混じり合う。
気持ちいい。
音が橋裏に反響する。幾重にも重なって、響いている。
ポロン……。
最後の一音が鳴ったとき、ノウの目から涙がこぼれた。
琉斗がぎょっとしたようにギターを傍らに置き、ノウの肩を掴んだ。
「ごめんっ! ノウ、嫌だった?」
焦ったように尋ねられ、ノウは首を横に振った。
「ううん。リュートの音は、気持ちよかった」
気持ちいいのに泣いてしまうなんて、自分はどこかおかしいのだろうか。
でも中々涙を止めることができずに目をごしごししていると、琉斗がノウを抱きしめてきた。
琉斗の温もりと、琉斗の匂い。
それがノウの肌に沁みて、なぜだか胸がぎゅっとなった。
「ノウ、あのさ」
「うん」
「僕と一緒に、音楽をやらないか?」
「うん」
「……え?」
琉斗が抱擁をほどいて、目を丸くした。
「え? いま、うんって言った?」
「うん」
こくりとノウが頷くと、琉斗が鼻の頭が触れそうなほどに顔を近づけてくる。
「僕、本気で誘ってるんだけど」
「うん」
「本当に僕と一緒に活動してくれる?」
「歌えばいいんでしょ?」
ノウは笑った。まだ涙の名残で目の奥が熱かったけれど、それは不快な熱さではなかった。
「リュートがギターで、僕が歌えばいいんでしょ? 歌うよ、僕。歌いたい。リュートのギターで歌いたい」
「ノウっ!」
琉斗がまたノウを抱きしめてきた。
しがみつくような強さで抱きしめられて、息苦しいほどだ。
「ノウ、仕事を辞めてくれる? それで僕の家で一緒に暮らそう。ずっと音楽のことを考えていられるよ。僕がぜんぶノウのいいようにしてあげるから。ノウ、一緒に暮らそう」
耳元で琉斗の熱い声が囁く。
ノウは頷いた。
後先は考えない。
いま、自分がそうしたいと思ったから、頷いた。
躊躇はなかった。
出会ったばかりの琉斗。それでも彼は、ノウにとってはいま一番身近な人間で、そして、一番あたたかなひとだったから。
琉斗の抱擁が深くなった。
抱きしめる腕の力が心地よい。ノウは、琉斗に溺れてしまいそうだと思った。