【嘆きの森】第9話 誰の心臓?
風が止まる。流れ落ちる滝の水も凍ったように動かなくなる。
ボルガの足下には魔方陣があった。軽く飛び上がって、魔方陣の中心に着地したボルガの顔に、焦りの色が浮かぶ。
「馬鹿な……転送されない?」
魔方陣で空間転移して、不意打ちをしようとしたらしい。その直前に、ノアールが世界をズラしたのに気付かなかったのか?
「妾が世界をずらしました。ここで魔方陣は使えませんよ」
ボルガは、黒い翼を広げた。そして、足で地面を蹴って飛び上がろうとする。しかし、空に舞い上がることはできなかった。
今度は、両の掌を伸ばした。しかし、赤い光は現れない。掌を見つめるボルガの肩が震え出した。
「ここでは、何も起こりません」
魔法の炎すら揺れ動かなくなったズレた世界。ノアールが、ゆっくりとボルガに近づく。
「捕まえたぁ!」
ボルガの両手が、無警戒に近づくノアールの首を捕らえた。
「魔法を封じられても、その細い首をへし折るくらいは簡単だぜ!」
だが、首を絞められているはずのノアールはニッコリと笑った。左脚から伸びた蛇の頭を持つ触手が、ボルガの右腕と左腕に巻き付く。
蛇の頭はボルガの腕に牙を立てて噛みついた。そして、その腕を喰らい始める。
「ひぃぃぃぃ」
蛇の頭に食いちぎられた傷から、黒い砂が噴き出す。ボルガの両腕は、瞬く間に黒い砂となって地面にこぼれ落ちてしまう。
今度はノアールの左手が、両腕を失ったボルガの首を掴んだ。
「や、やめろ……離せ……」
ボルガの顔が引きつっていた。肩を振るわせて、必死に声を絞り出している。
「左胸の『生きた心臓』が、この森の魔を集めてるんだってさ。ノアールが貰っておきな」
「まあ、是非とも頂きたいです!」
ノアールは嬉々として、ボルガの服を鉤爪で引き裂いた。こぼれたボルガの左の乳房に鉤爪を食い込ませる。
「やめて……やめて……」
ノアールの鉤爪が、ボルガの左胸からドクドクと脈打つ心臓を引きずり出す。
「お願い……私の心臓、取らないで!」
滝の水が流れ出した。ノアールがずれた世界を閉じて、わたしたちを元の世界へ戻したのだ。
ノアールの口が耳元まで裂けた。牙の生えた真っ赤な口を大きく開けてボルガの頭を囓り取った。蛇の頭を持つ触手はボルガの胸から下に巻き付いて、その身体を貪り喰らっている。ボルガの身体は、足下から黒い砂になって崩れていく。
ゴロリ……と、ほんの少し前までボルガだったモノが地面に転がった。
頭の左半分を、左目の辺りから囓り取られた顔。首から上だけの姿になりながらも、ボルガにはまだ意識があるようだった。




