一章 2
『八尾比丘尼』を知っていますか?
不老不死となった少女を総じてそう呼ぶのだそうです。
彼女は幕末の頃に生まれ、現代まで二百年近くもの間、当時の姿のままに生き続けてきました。
永い時を生きる中で彼女にはただ一人、自分の存在を受け入れ愛してくれた恋人がいました。
彼は第二次世界大戦の折、例に漏れず召集を受け、ついに帰って来ませんでした。
彼女は彼に必ずまた逢えると信じて生きてきました。
彼を探すことが彼女の生きる意味であり、意義でした。
数え始めてから二百回目の春。
彼女は町の図書館で、一人の少年と出逢います。
その出逢いが、永らく凍ったように眠らせてきた彼女の心を溶かすことになろうとは、その時はまだ、知るよしもなかったのでした。
私は死ぬことが出来ない。歳をとることもない。
私が今から死亡を届け出る"千歳"という人物は紛れもなく私で、"千歳"が歳をとったのは、これから死ぬのは書類上だけ、ということになる。
私が持つ四つの名前は、歳をとった"私"が死ぬと次の"私"が生まれるという周期を違和感なく必要最低限の名前で行う為に創り出した仮面だ。私はその都度、その時私の外見に一番近い年齢の自分を名乗っている。
最初の頃こそ気が狂いそうにもなったけれど、慣れとは恐ろしいもので、五回目の頃から儀式として受け流すようになっていた。
こんなことも、二百年近く続くこの命が、この時代を生きていく為には仕方のないことだった。
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時代の転換期。永らく籠城を極め込んだ日本で文明が花開いたその頃、身寄りのなかった私は人攫いに捕まり、とある貴族の屋敷に売られた。
そこでのことは殆ど憶えていない。いや、思い出したくないの方が正しいかも知れない。およそ人間らしい扱いは受けなかった。奴隷か、玩具か、良くて飼い犬と言ったところか。
三年ほどが経ったある日、屋敷の主人が妙なものを持ち帰ってきた。とある町の骨董屋で手に入れたというそれは、片手に収まる程の小さな木箱の中に収められていた。
屋敷の主人は嬉々として話す。これは"人魚の肉"なのだと。
"人魚の肉"と称されたそれは、白い花弁のような鱗に紅色の萼のような肉の欠片…まるで梅の花を思わせる代物だった。
その夜、屋敷では盛大な夜会が開かれていた。普段ならそんな日は小さな物置部屋に閉じ込められるのだが、その日は違った。大勢の貴族が群がる会場の真ん中に引き出され、逃げようともがく私の頭を床に押さえつけながら屋敷の主人は高らかに言った。
「"人魚の肉"を食べた者は人魚になってしまうらしい。今宵の余興にこの娘を人魚にしてみましょう。」
異物が喉を通る痛みよりも、屋敷の主人に顔を掴まれた不快感の方が強く記憶に焼き付いている。
その後、私の身体に何の変化も起きないことに興が削がれたのか群がっていた貴族たちは散り散りに元いた場所へ戻って行き、屋敷の主人はゴミを打ち棄てるように私を会場の外へ出した。
その日、屋敷を逃げ出した。夜会会場に人が集中し警備が手薄になっていた裏庭の塀をよじ登って外へ出た。数年ぶりの外だった。人目を避ける為に森の中を死に物狂いで走った。行く宛もないまま、とにかく屋敷から離れることだけを考えて走り続けた。
どのくらい走ってきただろう。東の空が白み出した頃、私は自身の異変にやっと気がついた。
身体のどこにも、血の一滴も見当たらない。あれだけの悪路を、なりふり構わず素足で駆けてきたはずなのに。茂みや枝に引っ掛けて、衣服はあちこち裂けているのに。
それどころか、もう何時間も走り続けてきたはずなのに、息が全く上がっていないのだ。
私は屋敷の主人や使用人が口にした断片的な情報だけを頼りに、あの"人魚の肉"を手に入れたという骨董屋を探した。何日も何ヶ月もかけて。
そうして辿り着いたその店で私が聞かされたのは、"人魚の肉"を食べた者は人魚になるのではなく、不老不死になるのだということ。
そして、あの"人魚の肉"は間違いなく本物であるということだった。
私は暫くの間、身元を引き受けてくれた骨董屋に身を置いていた。必要な知識と衣食住に困らない生活を与えられるうち、私は罪悪感と少しの居心地の悪さを覚えるようになった。何年もまともな人間らしい生活を送っていなかったから、突然訪れた平穏に心がついてこなかった。
私は骨董屋を出ることにした。店主の厚意で、籍だけは養子としてこの場所に残してくれることになった。
誰の手も借りず、ひとりで生きていくというのは生易しいものではなかった。女がひとりで生きていくには過酷な時代だった。
必要とされればどこへでも行った。誰でも受け入れた。「愛している」という言葉さえ、簡単に懐へ入れた。愛されるのも必要とされるのも心地が良かった。そこには同情も責任もないはずだと。馬鹿な私はそれらを本物と信じて疑わなかった。
結論から言うと、それは大きな間違いだった。彼らが口にする「愛している」も「必要」も私の表面、外皮のみに向けられた言葉だった。薄皮を剥いだその内側、中身が不死の化け物だと解ると例外なく皆私の前から姿を消した。
愛に対して嬉しいと思う心をひとつひとつ砕かれて、歪に残った心はもう愛を信じることをやめていた。
そうして数十年をやり過ごした頃、貴方が私の前に現れた。
貴方は私が働く喫茶店の常連で、よく顔を合わせていたけど給仕以外で話したことはなかった。不自然なほどよく目が合うことを除けば殆ど接点のないただの給仕と客だった。
その均衡が破られたのは、本当に偶然だったのだと思う。私が試しに死んでみようと気まぐれに海へ入ったところを岸まで引き戻した貴方は「命を粗末にするな」と真正面から私を叱った。
以来、貴方は顔を合わせる度に私に話しかけるようになった。他愛もない世間話から徐々にお互いに踏み込んだ話題になっていくのを、私は抵抗なく受け入れていた。理由は恐らく、その瞳に誠実さを感じ取ったからだと思う。
私は貴方に、最後まで自分の正体を明かすことなかった。でも貴方は私の正体に気付いていたと、今では思う。
貴方は、戦争が人々の生活にまで侵蝕してきたことに憤り嘆きながら、こんなことを平気で続ける人間の方がよっぽど化け物だと、高台から海を眺めながら私の隣で独り言のように溢した。
その戦禍に貴方が呑まれるまで、貴方は私の正体には一切触れなかった。その上で、私の傍にいてくれた。恋人のような関係性も、お互いに愛の言葉を交わし合うことはなかった。愛を信じられない私は、愛を口にすることができなかった。貴方も未来を約束できないからこそ、言葉にすることはしなかった。
私と貴方が恋人だったのかは、正直私には断言できない。
それでも、私を化け物と知っていて尚私を受け入れてくれた貴方が最後の恋だと、私は信じずにはいられないのだ。
『貴方が生まれ変わったら、私がきっと見つけ出すから。逢えたら今度こそ、私と生きよう。』
伝えられなかった言葉の代わりに、あの約束だけは、この命に懸けて果たすから。どうか、もう一度だけ……
初めまして。
ここまで読んでくれた方に最大級の感謝を。
当サイトを利用すること、書いた小説を誰かに読んでもらうこと。どれをとってもド素人です。
読んでくれた方の心に少しでも残ってくれるような、続きが気になってもらえるような物語を目指して拙いながらも紡いでいこうと思います。
ゆっくりな更新にはなるかと思いますが、お付き合い頂けると幸いです。
改めて、ここまで読んで下さり有難うございます。