退治屋として舞台へ その5
話しは遡る。
翼が物の怪退治に出かけてから暫くして、ユリは翼の後を追いかけた。
翼が山へと向かってから1時間後である。
それというのも、ユリの父親・公一郎がユリに清く正しい男女交際とは何かを言い始めてしまったためだ。
ユリの母が公一郎を諫めたが、公一郎はこれだけは言わせろと聞かなかったためである。
出遅れたものの翼に気がつかれないよう後を追うのは、ユリにとってさほど難しいことではなかった。
だが、それはユリにとってであって、一般の者には難しい。
一つの山の頂上を目指すと決して平坦な登りで頂上に辿り着くわけではない。
何度か登り下りを繰り返しながら、一つの山の頂上に辿り着くのである。
頂上から次の山に向かって下るのも同じである。
それが二つ向こうの山となれば、決して楽な道では無い。
急峻な山道に馴れていないものが、先行している人に追いつこうとする事は大変な事なのだ。
何が辛いかというと膝に来るのだ。
特に下りが後々響いてくる。
かといって登りが楽かというと、自分のペースで歩かなければ疲労が蓄積して早くバテるのである。
若いなら多少の距離は無理できるだろうが、その場合はえてして膝を痛める事になる。
俗に言う膝が笑うことになる。
余談であるが、このような場合、年をとってから膝がおかしくなることが多いのだ。
ユリの山道を歩く速度は、尋常ではなかった。
だが、決して無理をしているわけではない。
ユリは小学生の頃から高校卒業まで、山で厳しい修行をしていたからだ。
千日回峰行《》という、比叡山の修行をご存じだろうか?
真言を唱えながら山道を廻る過酷な修行であるが、これに近いことをユリは行っていたのである。
違いは真言は唱えず、山の中を只管走るのである。
物の怪の気配を察知して、避け、走り回る。
それにより物の怪の気配を探る能力、そして肉体と精神を鍛えたのである。
翼はこの行のまねごとのような事を、今回の行で行なったにすぎない。
それは物の怪の気配を知るためだけの修行であり、肉体を鍛えるというレベルではなかった。
それでも翼にとって、肉体的にきついレベルであった。
そのおかげで翼は、二ツ山の向こうに行けと言われても、ハイそうですか、というように苦情も言わなかったのである。
このような状況のため、ユリが翼に追いつくのは容易であった。
また、翼の通った後も簡単にわかり、翼を見失うことはない。
それというのも、普段は人が歩かない場所を翼が歩いたからである。
猟師が獣の歩いた後を追うのと同じである。
痕跡を堂々と残しているので、それを追えばよいから楽であった。
ユリは翼に追いつくと、木などで身を隠しながら後を追う。
しばらくすると、突如翼が木の陰に隠れた。
ユリは遠くから隠れてその様子を伺う。
どうやら物の怪の気配を翼が感じたようだ。
ユリに緊張が走った。
だが、現れたのはヤマスゲであった。
人に害をなさない物の怪なので、ユリはホッとする。
しばらくすると、翼はヤマスゲと別れ沢に降りていく。
どうやらヤマスゲから、危険な物の怪のいる場所を聞いたようだ。
ユリは翼の後を追う。
沢に完全に降りて翼は歩いて行くが、そこは丈の低いクマザサや、岩場でありユリが身を隠す場所がない。
風は向かい風で、翼が向かっている方向の物の怪の嗅覚を心配しないですむためか、翼はあまり気にしない様子で歩いていた。
ユリは沢に完全に降りなかった。
身を隠すためだ。
歩き難い山の斜面を、木に隠れながら翼を追う。
腐葉土で足が取られそうなのと、身を隠す木が疎らにしかないため、翼との距離が離れることがあり、いざというときに助けられるか心配になる。
だが、翼の行く方向にいやな物の怪の気配が漂い始めた。
翼はそれに気がつかないようだ。
歩くにつれ、それが危険な物の怪の気配だとユリは気がつく。
おそらく翼は先程のヤマスゲからそれを聞いているだろうから、注意しているはずだ。
そう思いはやる気持ちをユリは押さえこんだ。
やがて翼が見通しのよい河原に出た。
すると翼は身を低くして、ゆっくりと前方にポツンとある大岩に近づきはじめた。
ユリは河原に出る少し前から、背筋に冷や汗が流れた。
「な、なに、この気配!!」
ユリは物の怪の気配に戦慄した。
あまりに強い気配に、そしておぞましさに体の震えが止まらない。
なのに、翼はゆっくりと歩いて物の怪がいる大岩に近づいて行く。
物の怪のおぞましさに気がついていないの?!
そう思ったユリは、飛び出して翼と一緒に戦おうとした。
だが・・・。
翼に物の怪のあの気配がわからない筈はないのだ。
それにあの落ち着いた翼の様子に、踏み出しそうになった足を止め、物陰にそっと隠れた。
そして無事に物の怪を退治してくれることをユリは祈った。
翼は大岩に近づくと、体を起こし岩の影を覗く。
何の物の怪か確かめているのだろう。
だが、何か翼の様子がおかしい。
いったいどうしたというのだろう?
そう思ったときだ、物の怪のおぞましい気配が急激に大きくなった。
「な、何!? 何なのこれ!」
ユリは思わずそう大声を上げそうになった。
慌てて自分の口を手で塞ぎ、なんとか声を押さえた。
その矢先、突然に岩の影で何かが爆発した。
それと同時に突風が吹き荒れる。
ユリは思わず地面に這いつくばった。
地面の腐葉土が突風で舞い上がり、それと同時に河原にあった小石までが飛びすさんで来る。
身を低くしてたいたため、それらが自分の上をビュン!という恐ろし音を立てて飛んでいった。
翼くん!
そう叫んで翼に駆け寄りたかったが、それどころではなかった。
吹き飛ばされないよう、ユリは片手でクマザサを握り、片手で顔を庇い、突風が止むのを只管待った。
クマザサで手が切れ、血が滲む。
血で滑り始めたクマザサを必死に握るユリであった。




