一冊、一人と歩く。
冬にはまだ冷たさが足りないが、今宵は“星が冴えて”いる。
僕と秋翠は、喫茶店のあるビルの屋上に来た。都会というほど発展していないこの街には、首都圏のような高層ビルが無い。よって、僕らがいる古いビルの屋上からも、簡単に星を眺めることができる。
「夜空を見上げて感傷に浸る余裕は無かっただろ?」
「あぁ……その通りだ。」
輝く星月夜を見上げた姿勢のまま、秋翠は動かない。空を見上げること自体、久しぶりに違いない。星空に見入っている彼をそのままに、柵を乗り越えた。僕の行動に気付いた秋翠が、青ざめながら「おい」と駆け寄ってくる。
「なにやってんだ。」
「立って見上げるだけではつまらないだろ?」
「…………空を飛ぶ、とか?」
「“飛ぶ”より“歩く”と表現すべきかな。」
僕は屋上の外側へ踏み出して、そのまま空中を歩く。感嘆の声とともにこちらを見守っていた秋翠に、手を差し伸べた。何の疑いもなく手を取った彼を、引っ張り上げる。簡単に空を歩き始めた自分に、秋翠は興奮した声を上げた。
「すげぇ~……」
「手を離さないでね。離したら落ちるよ。」
「お、おう。」
はしゃぐ子供みたいな秋翠の手を引いて、ゆっくりと歩みを進める。夜の冷たい風に頬を撫でられ、彼は目を細める。見上げれば星空、足元には淡い街明かり。
「きれいだ。」
思わず漏れたその一言で、僕の選択肢が正解だったと確信できる。黙って真っ直ぐ歩いていると、秋翠から「あのさ」と話しかけられた。
「一つ、気になってることがあるんだが。」
「なんだい?」
「俺はほぼ毎日、あの女にストーキングされてたんだが…………あの店にアイツが乗り込んでこなかったのは、なんでなんだ?」
それどころか、店を離れてから彼女に「どこ行ってたのよ!」と詰め寄られたらしい。当然の疑問に、僕は淡々と答える。
「招かれざる客は『はじかれる』からだよ。」
「というと……まさか、マスターも人間じゃないのか?」
「うん。クォーターだけどね。」
「何の?」
「吸血鬼。」
「だから地下で店やってんのか……」
「少し日光と臭いに弱いだけ。あとは殆ど人間と変わらないよ。喫茶店を守っている『おまじない』も大掛かりなものじゃない。」
「ふーん……でも、おかげで生まれて初めて「ゆっくり過ごす」って経験ができた…………マスターにも、お礼言っとかないとだったか。」
「また来た時に言えばいいさ。」
僕の提案に、秋翠は「じゃあ明日も行くか」と頷く。そしてまた、黙って空を歩く時間が続いた。彼の行きたいと思った方向へ、僕はただついていく。星がよく見える分、街の明かりは少ない。けれど秋翠は星だけでなく、街の明かりにもときどき目をやった。
「あの女とは、いわゆる幼馴染でさ。」
沈黙を破って、ポツリポツリと過去を語り始める。
「家が近所で、幼稚園から一緒。親同士の仲が良くて、家族ぐるみの付き合いがあったんだ。」
裕福な家庭で甘やかされて育った彼女は、当時から自由奔放で我儘な性格だったという。秋翆は振り回されることにウンザリしていたが、親達は微笑ましそうに見てるだけ。彼が何を訴えても「照れているだけだろ」と取り合わず、5歳にして「誰にも言葉が届かない絶望」を味わった。
「アイツの親に言われた「あの子をよろしくね」を思い出すと、今でも吐き気がする。」
玩具や菓子をとられたり、宿題を代わりにやらされたりした。拒否すると喚き散らして、周りに自分が被害者だと訴える。彼女が『お嬢様』だったからか、面倒を回避するためか、大人も子供も秋翠に折れるよう言った。ある意味、秋翠は生贄だったのかもしれない。面倒な性格の問題児を大人しくさせるための、体の良い生贄。
「中学に上がって、俺の立場はさらに悪くなった。」
奴隷の如く扱われるまま思春期を迎え、色恋に興味を持つようになったころ。秋翠は彼女に交際を迫られるも、強く拒否した。
「俺にも選ぶ権利はある、頼むからもう関わらないでくれって言った。アイツは顔を真っ赤にして、逆上して…………次の日、俺は顔も知らない先輩達にタコ殴りにされた。」
蝶よ花よと育てられた彼女にとって、生まれて初めての屈辱だったのだろう。プライドが許さなかったのか、その日から秋翠は徹底的に痛めつけられた。他の生徒にはいじめられ、教師には不良のように扱われた。少しでも彼に友好的な態度を取ったものは、彼女によって『嫌がらせ』を受けて消えていく。その状態が、今の今まで続いていた。人間性を失い、表情を失うのも納得の話。全てを諦めた秋翠は、他人と関わることを止めた。
「一人暮らしを始めても、ストーキングはなくならなくって……親もさ、しょっちゅうアパートに来ては「あの子と最近どうなの?」って聞いてくんだよ。それが嫌で、職場に泊まったりしてよ…………落ち着ける場所は、本当にあの喫茶店が初めてだ。」
また沈黙が訪れたかと思えば、鼻を啜る音。秋翠は、繋いでないほうの手で顔を覆って俯いている。懸命に涙を堪えようとする彼に、僕はその手を掴んだ。
「シュウ。顔を上げて。」
「いや、いまは……」
「恥ずかしがる必要は無い。ここには僕しかいないのだから。」
「────っ」
泣くことを恥じる秋翠の頬に手を添えて、顔を覗き見る。素直に顔を上げてくれた彼が、幼い少年に見えた。十数年もの間、物陰に隠れて一人で泣いている。頬に添えた手をずらして、頭を撫でた。
次の瞬間、力強く抱きしめられた。
想定外の行動に固まっていると、秋翠は僕に縋り付いてわんわん泣き出した。堰を切ったように、子供らしく。親にすら頼れなかった彼には、目の前の僕しかいない。だったら仕方ない、僕は次に彼の背中を優しく叩く。子供をあやす親を真似て、ぽんぽんと。大丈夫、これからは僕がいる。僕だけじゃない、これからは誰にも邪魔されずに交友関係を広げられる。涙を我慢する必要も、隠れる必要もない。千谷秋翠の人生は、ようやく秋翠だけのものになった。彼はこれから、幸せになれる。
だんだんと落ち着いてきた泣き声に、僕は改めて秋翠の顔を覗き込んだ。泣き腫らして、気まずそうにしている。赤く腫れた目が痛そうに見えたので、指で撫でた。体温の無い僕の手は、きっと冷たい。
「クロ、」
「なんだい?」
唐突に、秋翠の目を撫でていたほうの手を強く握られた。両手を取った体勢で、彼は真っ直ぐ目を合わせてくる。
「お前が、体も心も人間と違うモノだっていうのは、なんとなくわかったつもりだ。」
「うん。」
「これから先、もっと分かるようになっていきたい、と思う。」
「うん。」
「その上で、もし、お前が是と判断してくれるなら…………俺は、お前と、友人とは違う関係になりたい。」
「前置きが長いな。具体的に言ってくれないとわからないよ。」
「ぐっ…………」
結論を求めると、秋翠は顔をしかめてしまった。何故だろうか、僕は彼の希望を具体的に聞きたいだけなのだが。決して意地悪とかではなく、本当にわからないのだ。秋翠の出した結論が、読めない。泣き腫らした目元とは別に、彼は頬を赤らめる。視線を彷徨わせて数秒、手を握り直された。
「クロ、俺と恋人になって欲しい。」
「何故その結論に至ったのか聞いてもいいかい。」
「俺がお前のことを好きになったからだ。」
目を合わせて真剣に紡がれる言葉を、僕はただひたすら受け止める。
「お前と話すようになってから、ずっと好きだった。少しでも長く話していたいって思いながら、あの喫茶店に行ってた。叶わないと思っていたそれを、お前が叶えてくれた。だから、えーっと、その…………俺を助けてくれたクロを、俺は、独り占めしたい。」
目を見ていれば、秋翠の不安は読み取れた。当然だ、僕は人間の女ではなく、そもそも生き物ですらない。先の展開が予測しきれなくて不安なんだろうけど、これに関しては僕だって予測が立てられない。
「人間から恋人になりたいと言われたのは初めてだ。」
「そいつは嬉しいな……あ、いや、これは俺の一方的な気持ちだってわかってっから、あとは、クロの判断に任せる。」
「いいよ。」
「早!?そして軽!!」
信じられないような顔をする秋翠に、僕は事実だけ語る。
「確かに僕は人間ではない。君に同じ感情を返せる可能性は低い。」
「…………ああ。」
「それでも良ければいいよ。僕はこれから君の一生を見守るつもりだから『友人』でも『恋人』でも関係ないと考えている。言葉を入れ替えたところで君への態度は変わらない。」
「十分だ……ってか一生いてくれんのかよ…………」
「人間の君を見たいと言ったのは僕だからね。それに君が好きだと言ってくれる以上は僕もちゃんと努力する。」
「努力?」
「シュウと同じ気持ちになれる努力。」
恋愛感情を抱いてくれた秋翠に対して、僕は何も感じられない。けれど誠実な告白をくれた彼に、何も返さないつもりもない。可能かはわからないが、僕自身にも恋愛感情が芽生えるよう模索していくつもりはある。素直に意図を伝えれば、彼は「十分過ぎる」と嬉しそうに笑った。恋愛感情の自覚はまだ持てなくとも、彼を『笑顔』にできたことは喜ばしい。
「ありがとな、クロ…………じゃ、じゃあ、あともう一つ。」
「なんだい?」
「落とさないでくれよ。」
もちろん、そう答えるための口は塞がれてしまった。
僕たちは『恋人』になった。
下記に投稿したものの修正分は以上になります。
http://monogatary.com/story/100441?share=c783a7e965e7551a67da03bda35651b9