一冊、一人に応える。
成人女性が一人、交通事故で死亡。
それは日常でよくある事故として、すぐ他のニュースに埋もれていった。
新聞に掲載された小さな記事を、僕はいつもの喫茶店で読む。夜の店内には、マスターがミルで豆を挽く音だけ。僕以外の客は、誰もいない。もう来ない可能性を考えていた時、ドアベルが控えめな音を立てた。
「……まだ、大丈夫ですか。」
「勿論ですよ、いらっしゃいませ。」
夜の冷えた空気を纏い、秋翠が恐る恐る入ってきた。こちらの姿を見た途端に肩の力を抜いて、迷わず隣に座る。僕が新聞を持っていることに気付き、低い声で「お前の仕業なんだよな」と聞いてきた。
「うん。」
「お前は…………何なんだ?」
「僕の正体という意味?この国で言うところの『付喪神』みたいなものさ。」
「はー……いや、その、何の付喪神なのかってのは……聞いていいのか?」
「本だよ。」
「…………本の付喪神が、どうやって人間を交通事故に見せかけて殺すんだ?」
「本は本でも『魔導書』だから。」
「えーっと……魔法が使えるのか?」
「うん。」
「……………………ふーん。」
首を傾げながらも、秋翠は「まあいいか」とカウンターに向き直る。気にするのをやめたように、マスターが出した一杯目のコーヒーに口をつけた。
「いいのかい?」
「あんまり詳しいこと聞いても、俺には理解できねーだろうし。」
「そうかい。」
「……ありがとな、クロ。助かった。」
姿勢を正して頭を下げてきた秋翠に、僕は見入ってしまう。素直にお礼を言われるのは、予想外だった。頭を上げた彼の目には、もう沼底のような暗さは無い。見つめ合って数秒、彼は首を傾げて僕の顔を覗き込む。
「なんで驚いてんだ?」
「驚いているように見えるかい?」
「見えっけど……」
「じゃあ驚いているのだろうね。てっきり化け物扱いされて二度と会ってくれない可能性を想定していたから。」
「なんでそうなるんだよ、馬鹿じゃねーの。」
秋翠の機嫌が明確に悪くなって、少し眉間に皺が寄った。彼が表情を取り戻すのに時間はかからなそうだ、浅い皺から予測する。
「君が二度と会ってくれない可能性も捨てきれなかった。」
「じゃあ何で、俺を助けるような真似したんだよ。」
「その時は遠距離で勝手に見守ろうとしていただけさ。」
「あっそ…………。」
「不服そうだね。」
「当然だ。実際に罪に問われなくても、俺はお前の手を汚させた……これは、事実だろ。」
「僕がやりたくてやったことだから気負わなくていいんだよ。」
「だとしても、だ。つーか、本当は人としてこんな簡単な手段に手を出すのは良くない……と、思う。俺が、他の誰かに助けを求めて、自分で解決するべき問題の筈だった。」
「それもそれで当然の考え方だろうけれどね。」
どこまでも真摯で誠実、これが本来の千谷秋翠なのだろう。虐げられ、踏みにじられ、人としての権利を奪われ、人生に絶望していただけ。彼から人間性を剥奪する人間はもういない、これからは自由に人間関係を築いていける。他人の命を奪って得た自由だとしても、僕はそれを喜ばしいことと認識した。
「だから、クロ。」
「なんだいシュウ?」
「俺がお前に責任を丸投げしたら、俺を殺してくれ。…………いや、違うな……死んだほうがマシだと思うような、報いをくれ。」
「極端なことを言うね。」
「あの女を殺してくれって言ったのは、俺だろ?ぶっちゃけ俺は弱いから、俺だけで全部背負うのは無理だ。お前にそばにいてほしい。でも、クロだけに全部押し付けたりもしたくない。それだけは駄目だって言える。」
「了承した。」
情熱的な言葉に、僕に頷く以外の選択肢は無い。これもまた、秋翠が人間性を取り戻しつつある証拠なのだろう。熱を孕む彼の瞳を観察していたが、気付かれた瞬間に逸らされてしまった。照れているのだろうか、秋翠の頬が赤い。少し長く、目を見つめすぎてしまったようだ。
謝罪しようとした時、マスターが唐突に「そういえば」と言葉を発する。
「今晩は新月ですよ。」
「…………?」
「そういえばそうだったね。」
マスターの意図がわからず、秋翠は首を傾げた。困惑した眼差しを寄越した彼を安心させるように、僕は柔らかい『笑み』を作る。
「シュウ。ついて来ると良い。」
「え?」
「今日はこれで失礼するよマスター。」
「えぇ、おやすみなさい二人とも。」
「お、おいクロ、どこに……」
「すぐそこさ。」
戸惑う秋翠の手を取って、僕は喫茶店を後にした。