一冊、笑う。
「…………………………何、言ってんだ。」
秋翠は呆然として、僕から離れた。
「君が求めるなら僕はできるよ。」
僕からは行動できない、けれど人間が求めるなら応えられる。人間ではない、人のしがらみの外側にいる、人間の真似事をする非科学的存在だからこそ。人の法を無視し、すり抜け、手を汚すことも代償もなく、人間一人をこの世から消すことぐらい────簡単にできる。
「最初から彼女は存在しなかったことにもできる。」
でも、こんな提案を付け加えた相手は秋翠が初めて。同じ人間は二人といなくとも、似ている人間はたくさんいたのに。千谷秋翠と出会ってから、僕は初めての行動を起こしてばかり。付き合いの長いマスターも、目を見開いている。
だが改めて考察しても、これが一番手っ取り早い。正直に言うと、人間の法や規則の中では秋翠を救えない。彼女の行動をどこに訴えたところで、勝つことは難しい。物的証拠はないし、証言者もまともに得られないだろう。今現在、秋翠の味方をする人間はいない。彼女の被害に遭ってきた人間は、みんな関わりたがらないだろう。
「彼女が消えた後に付随するであろう面倒ごとも全て僕が請け負う。僕は君にそれだけのことをしたい。」
「…………なんで、そこまで。」
「君があまりにも人間らしくなかったから。」
僕は人間に製造された製品の一つとして、ただ『人間を知る』ことを目的として活動してきた。数十年、人間の形を模して人間を観察し続けた。いろんな国へ行って、たくさんの人を見て、『真似事』の技術も上がった。けれど、まだ、たったの数十年。半永久的に続くであろう旅の、ほんの始まり。同じ個体の存在しない生物をいくつ観察したところで、すぐに想定外の個体と出くわす。今この瞬間にも、世界のどこかで生まれている。
その一人として、僕は千谷秋翠に強烈な興味を抱いた。欠けていた彼の『人間らしさ』が修復される過程を観察し、もっと人間を知りたい。彼がどのような『人間』になっていくのか知りたい。汚物に塗れた泥沼からゴミを取り除き、綺麗な池に戻したい。秋翠が一生を終えるまで、何年かかっても構わない。僕が僕の存在理由と定義した目的を達するため、千谷秋翠という一個人を突き詰めよう。
「僕は君を『人間』にしたい。」
「それが、俺を助ける理由になるのか?」
「なる。僕が人間の千谷秋翠を見たいから。」
断言すると、秋翠は困ったように顔を歪めた。やっと表情らしい表情が出てきたけれど、まだ固い。不安そうな秋翠を安心させるために、彼の片手を僕の両手で優しく包む。驚きに息を飲むと同時に、震えは止まる。見開かれた目が、よく見えた。
「クロ……お前、人間じゃ、ない?」
「うん。そういえば言っていなかったね。」
触れ合って初めて、僕に体温が無いことで気付いたらしい。力の入っていない武骨な手を優しく撫でた。真似事でも、彼の心を慰められる可能性はある。
「シュウ。君がさっき僕を殴ったのは正しい。」
「いや……暴力を振るうのは、駄目だ。悪かった。」
「僕は今の君の生き方を否定した。拒絶するのは当然のことだ。」
握られていないほうの手で、秋翠が殴った側の頬を撫でてきた。本来の彼がただの『優しい青年』であることを象徴する仕草。
「確かに法治国家で暴力による解決は許されない。戦争の火種になるからね。でも人として自分を守るために怒ること自体は間違ってない。今の君はルール違反をしてでも自分のために怒るべきなんだよ。過去に何があったとしても人間が人間であることを捨てていい理由はない。」
「……………わかった。」
深く頷いてくれた秋翠に、僕は『にっこり』とした笑顔を作った。