一人、傷の自覚。
「ところで、名前なんだっけ。」
「…………はい?」
同期の姿が見えなくなったタイミングで、後輩に問いかける。会話している間に、自力で思い出せればよかったのだが。質問された彼は、何度も瞬きを繰り返す。
「俺の名前、ですか?」
「おう。悪い、なんだっけ。」
「あの~、俺、ここに配属されて一年は経ったハズですけど。」
「だな。」
「千谷先輩と組んで仕事したのも、一回や二回ではないですよね。」
「うん。」
「それで、いま、俺は何を聞かれたんですか?」
「お前の名前。」
「えーーーー!?」
「うるさっ」
耳をつんざくような絶叫に、反射的に後輩から距離を取った。彼は明らかにショックを受けた表情で、体をブルブル震わせている。まさか、ここまで大袈裟な反応をされるとは思っていなかった。
「事件関係者の名前を覚えるのはあんなに早いのに!?」
「それは仕事だろ。」
「いやいや…………って、今の同期の方の名前は」
「あ、お前わかる?顔は覚えてたんだが、そっちも名前は出てこなくて。」
「噓でしょ!?」
後輩は泣きそうな顔になり、体を縮こまらせてガクガクと震えを強める。怪物を前にしたかのような様子だ、そこまでのことだろうか。確かに社会人として、仕事仲間の名前はちゃんと把握しておくべきだったかもしれない。仕事でしか会わないと軽く考えていたが、改める必要がある。
俺は後輩に謝りつつ、震える体を宥め続けた。
*
以上のできごとを、俺はいつものようにクロに話す。いつものように、黙って話を聞き終えたクロの見解を待った。
「シュウが今まで人間関係を“構築しない”ように徹底してきた弊害だろう。これは僕も想定できていなかったな。」
「そうか…………俺自身、おかしいとも思ってなかったし。」
今日の出来事で、俺の認識がどれほど周囲と隔絶しているか思い知った。想像以上のそれに肩を落とすと、クロの手がそっと添えられる。
「自覚症状の有無は大きい。これから注意していけば周りとの差も埋められるさ。」
「だと、いいけどな…………」
「大丈夫。現状は環境が改善されているのだから。」
よしよしと肩を撫でられると、落ち込んだ気分が回復してきた。それどころか妙に嬉しくなって、クロの手に自分の手を重ねて握る。
「…………ありがとな。」
「僕は何も。感謝はその後輩にしたまえ。ちゃんと名前を教えてくれたんだろ?」
「だな。」
心の深い傷がひとつ、治り始めたように思えた。