一人、ただいまとおかえり。
「じゃあ猫背は直さないといけないね。」
「えっ」
ギョッとして隣を見ると、クロがいつもの表情でそこにいた。
それどころか、館内にはちらほらと入館者の姿がある。平日なので人は少ないが、人工池の方から子供のはしゃぎ声が聞こえた。
いつの間にやら、元の世界に戻ってきている。
「た、ただいま…………?」
「おかえり。」
突然の場面転換に目を白黒させながら、俺の口から出てきたのはそんな言葉。クロは返事をしたが、状況がサッパリわからない。
「え~っと、お前が出してくれたのか?」
「いいや。君が自分で戻ってきたんだよ。」
ゆるゆると首を振って、クロは否定する。俺の行動は、正解だったようだ。
「駄目そうなら手を貸すつもりだったけど。」
「……その言い方だと。放っておかれてたのか俺は、おい。」
「うん。君には必要な経験だ。」
しれっと言うものだから、俺はガックリと肩を落とす。そこは助けようとしていて欲しかった。だが同時に。腑にも落ちる。
「じーさんのこと思い出せたのは、良かったよ。」
「そうかい。」
「よく覚えてないつもりだったけど、思い出せるもんだな。」
「そういうものだよ。」
「そういうもんか。」
自力で動こうとして、自分で考えていなければ。きっと、祖父の言葉を忘れたままだった気がする。今、意識して背筋を伸ばそうとはしていなかった。そう考えると、クロが黒幕なんじゃないかと勘繰ってしまう。決してダジャレではない。こいつの「良かれと思って」は、圧倒的に人間とズレる。聞けばどちらにせよ答えるだろう、けど。
どっちでもいいので、聞かないことにした。
今度は二人で、順繰りに展示物を眺めていく。人工池のエリアに入っても、もう彼らは俺に見向きもしない。餌を撒いてはしゃぐ子供の方に、我先にと集っている。水の音と、鯉の体がぶつかり合う音は、現実だった。
「シュウのことを仲間だと思ったんだね。」
「仲間ぁ?」
それは、最初の集ってきた現象の話だろうか。こちらとしては、食われるかと思ったんだが。俺の考えをわかっているのか、クロは首を横に振る。
「人間は溺れている誰かを見たら助けようとするだろ?彼らも打ちあがった同種を見たら助けようとするんだよ。」
「…………、…………………魚が?」
「“こちら側”の世界ではありえないことだね。でも“あちら側”で名前と言う概念は、それほど強いものなのさ。」
「ふーん………前もあったな、そんな話。」
確かに、庭園の方では誘うような動きをしていた。あれは、俺を『仲間』だと認識していたから?陸に居る仲間が、死んでしまうかと思って?俺はそんなに、息苦しそうだったろうか。まあ、息苦しくなくなったのはここ最近の話。無理もない、のかもしれない。
俺は池の前でしゃがみ、数匹しかいない湖面に語り掛ける。
「……心配かけさせたみたいですけど、俺はこっち側で大丈夫なんで。」
ご迷惑おかけしました、と頭を下げた。伝わらないかもしれないけど、一応の礼儀として。次に来るときは、ちゃんと餌も買おうと決める。アレが彼らなりの善意だったなら、すれ違っていたとしても、誠意をもって返そう。
背に美しい模様を浮かばせた鯉が一匹、目の前を横切った。
その鱗を、自慢げに、見せつけるように。