一人と一冊、“あちら側”の話。
いつもの店へ向かうべく、日が傾きかけた大通りを歩いていた。帰り道を急ぐ人々とすれ違いながら、クロに説明の続きを促す。
「ヤヨイが走海さんを“連れて行って”しまった……ってことなのか?」
「うん。ヤヨイは走海さんが必ず探しに出ると理解した上で姿を消した。走海さんはまんまとヤヨイに誘導されたのさ。結果は淳平君が言った通りで間違いない。彼女はヤヨイと一緒に“こちら側”を去った。」
「外に出られるようになった偶然が、ヤヨイにとって走海さんを連れていく『チャンス』になってことか。」
「そういうこと。」
「動機は?」
「ヤヨイは走海さんを助けたかったのさ。僕が君を助けた時と同じように。」
人の摂理を見限って、猫の摂理で愛する者を救おうとした。クロが俺を『人の世界の外側』の方法で救ったのと同じように、ヤヨイは走海さんを連れ去った。この世界にいても、彼女は幸せになれないと判断して。
「簡単にできることなのか?ヤヨイは特別な猫だったとか?」
「いいや?猫はその程度のこと普通にできるよ。彼らがとても高次元的な生命体であることを人間が知らないだけで。」
「そ、そうなのか…………。」
「彼らには彼らの『文明』が存在する。国のある幻夢郷には人間も住んでいるから走海さんが行ったところで何の問題も無い。猫が先導しているから“本来のやり方”より楽に行けただろう。」
「ゲンムキョウ?」
「異世界のこととだけわかっていればいいよ。」
ゲンムキョウについて、クロはそれ以上の説明をしようとしない。言外で、通常の人間が深入りすべきではないと忠告しているのだ。それが人間側に対する“気遣い”だとわかっているので、俺は自分の好奇心を引っ込める。一言「わかった」とだけ頷く俺に、クロも頷いて話を続けた。
「猫が“そう”であるのに加えて“名前”もね。少数派というのは総じて特別だから。」
「名前?少数派?」
「睦月、如月、“弥生”、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、“師走”。」
淡々と読み上げられた文字列が、旧称と気付くのに少し時間を要した。話に追い付けていない俺を見て、クロは単調な声のまま説明してくれる。
「“月”の文字が入らないのは弥生と師走だけだろ?」
「弥生と、師走。」
「出会った時点で強い運命があったんだろ。そして拾い主は自分と同様の由来で子猫に名前を付けた。遠回しに見えるが自分と関連した名前を付けたんだ。」
引き寄せやすかっただろうね、クロは言う。
三月に拾われた子猫、十二月に生まれた女の子。孤独を抱えた一人と一匹の出会いは、果たして偶然だったのか。少数派同士に生まれる絆は、決して弱く無かっただろう。
「最終的に走海さんもそれを受け入れたし。」
「なんでわかる?」
「未練が無い。助けを求める声が無い。向こうからの意志が無い。」
さも当然のように言い放つので、根拠のわからない俺は首を傾げる。クロは「それもまた“僕ら側”の理屈さ」と語る。
「あちら側が助けを求めていれば僕は『わかる』んだ。けれどそれがちっとも感じ取れない。」
「ふうん……?」
「僕は“あちら”と“こちら”の橋渡し役として製造された物だから。どちらにいようと人間側の意志に沿うように出来ているんだよ。」
百年以上保管された『魔導書』の付喪神、クロノ・B・A・アーミテージ。人間が人間のために生み出した製造物でありながら、刻まれているのは別世界の理論公式。“こっち”と“あっち”の境界線に立ちながら、人間側の「助け」であることが存在理由。だからこそ、クロには人間の『意志』がなによりもよく聞こえるのだろう。もしも走海さんが元の世界に戻ることを望んでいるなら、クロが聞き逃す筈が無く、見つけられない筈が無い。その声が聞こえないということは、彼女が「帰ることを望んでない」ってことになる。
「確認したけれど“彼女”からは何の言及も無かったし。」
「“彼女”?」
誰のことだ?
急に新しいキャラを出すな、混乱するから。
「ここら一体の人外を管理している縄張りの主だ。この縄張りの中で人間を害するには彼女の許可がいる。僕も『あの女』を消すときには許可を取った。」
「ええ………………」
本当に居るのか、そういうの。
人間の知らないところで、人間を管理している『何か』は実在したようだ。
「管理者が口出ししてない。つまり「猫の行動が飼い主の為になるもの」と判断されている。」
「走海さんが嫌がっていたら、とっくに“縄張りの主”が阻止してた筈なのか。」
「そう。」
クロは大げさなほど深く深く頷いた。