九話 鮮血
血潮の花に 影の嵐
ぞろり、と闇夜─────赤が動いた。
ひたりひたりと音を立て。獲物を取り巻き、飛沫を上げて。
牙を剥く狐は、にぃっと目を細めた。
好物にありつける期待にか、今しばしで仕留められるという狩猟者としての本能か。
毛並みが逆立ち、前足を上げ、ガブリと狐が小鳥を喰ってみせる。
上質な和紙の上で行われた殺傷劇に、くつくつ男は笑った。
紙で踊った赤よりもずっと鮮烈なそれを衣服に散りばめた、穏やかな顔の若人。
適当に結わえたらしい髪は、赤を浴びてかおどろおどろしい艶を持つ。
さあ、狩りの時間だ。
ぞろり、と闇夜─────赤が動いた。
◇ ◆ ◇
菖蒲は麹町の詳細な地図とにらめっこをしつつ、どうしたものかと思案した。
女郎屋に、絵師の工房、雑多な廃墟。
一貫性のない瘴気の反応は、これまで見たことがなかった。
『幽現』は、人であった頃の記憶に強く捕われる。
ゆえに、その手段や結界を築く場所もまた、『幽現』の記憶や与えられた妖の本質に左右されやすい……のだが。
「─────工房の絵師は、恐らく人ではないでしょう」
それぞれが持ち帰った報告をあげる中、いの一番にそう口を開いたのは、蓮だった。
穏やかな声で、ひどく静かに。
常とは若干異なる様子に、菖蒲は僅かに目を細めた。
「ああ、それ。うちも思うたわ。なんやえらいおっかない絵を描きはるんよなぁ」
いまいち緊張感にかける声で、茨もそれに首肯する。
「おっかない絵?」
菖蒲が聞き返せば、茨は獣が襲いかかるような仕草をして見せた。
……実際のところは小馬鹿にしているようにしか見えなかったが、ご丁寧に八重歯を見せた茨の様子で、すぐさま分かった。
「ああ、なるほど。その絵師があれを描いたのか」
「あれッつーと、女郎屋にあッた珍妙な絵か?」
藪に取り囲まれ、今まさに獲物を食いちぎらんとする物騒な狐の捕食する様。
随分と上質な掛け軸で飾られていたそれに、菖蒲はおぞましさ以外の何かは感じなかった。
「廃墟にも忽然とございました。絵の掛けられた場所だけは綺麗に残っておりましたし、やはり……」
「絵に仕掛けがあるとみて間違いない、か」
楓は首を縦に振った。
「廃墟にあったものは、二匹の子狐が狩りをしている最中のような……なんとも言えない絵でした」
そこではた、と蓮の動きが止まる。
茨も同じく顔を顰め、「そら……」と平素よりも低い声で言った。
「狐尽くし、っちゅうことやね。女郎屋もせやったんやろ?」
「ああ。……そのことで一つ、気になることがあった」
「─────〝何故、狐なのか〟……か」
己が呈した疑問を反芻し、僅かにため息を零す。
『幽現』の本体である妖の名と性質を記した妖縁起という本には、これまでに倒したことが確認された妖のみが載る。
その中でもとりわけ多いのが、獣の妖だ。
狐もそのうちの一つで、やはり稲荷神信仰や一般的なこともあるのだろう。
妖の題材には事欠かないのだ。
今回の『幽現』が狐そのものなのか、それとも狐を使役する妖なのか。
その問題もさることながら、やはりあの絵の不可解さをどう説明するかも、問題になってくる。
あの女郎屋で対峙した年若の女郎である秋夜は、店にあった絵とそっくりな柄の着物を身にまとっていた。
それを単なる偶然と片付けるのは、些か早計だろう。
「麹町全体を結界化される前に、片をつけなければ……」
幸酔の話によれば、あの妙な絵の配置の仕方は、己の勢力圏を示唆している可能性が高いという。
狐の妖といえば大抵は弱小だが、時に奴らは年を経ることで強大な力を手にしてしまう。
逃げ足が早いとなれば、分が悪いのはむしろこちらになるだろう。
『あの女郎屋で、ちょいと気になるもんを見つけた』
幸酔の言葉を思い出し、菖蒲は女郎屋を示した印に目を落とす。
『女郎の部屋に写真があッたンだが……妙なことに映ッていたのは絵師のそれだッた』
本人の映っていないものを、私物の少ない部屋に後生大事に持っている理由は?
菖蒲は意思の固まった双眸を、ゆっくり開いた。
◇ ◆ ◇
どうやら自分は面倒な役に回ることが多いらしい、と蓮は僅かに首を傾げた。
元々苦労人なんて人間ではないのだが。
「まさか、あの絵師の相手を任されるとは……」
工房向かいの屋根上で、蓮は悲観するでもなく、ただ淡々とした調子でそう言った。
確かに、本体と思わしきものと接触し、工房の作りを粗方理解しているとはいえ────街ひとつを手中に収めようなどと思う相手に、優位に立てるかどうか。
蓮はゆっくりと瞬きをして、鳳仙の玉眼を発動させた。
鮮やかな瞳の周りを火花が散ったような色彩が飾り立て、まるでひとつの宝石のように輝く。
(建物の中の生体反応はひとつ……逃げも隠れもしませんか)
それとも、勝てる三段はとうについているか。
蓮はしばし考え込んだ後、身軽に通りへと着地して、工房の戸の前まで歩み出た。
薄藍の夕空が、まとわりつく湿気とぬるい風を送ってくる。
白々しくも艶やかに輝く三日月が照らす、瘴気の出処。
しばしの間を置いて、蓮は腰にはいた刀神・仙弔花にそっと触れる。
目にも止まらぬ速さでそれを鞘から引き抜き、身軽にひとつ回して袈裟斬りを二つ、結界最深部の入口へと蓮はお見舞した。
鳳仙の玉眼が、鋭く工房の状況を見定める。
足を一歩踏み入れた刹那、炎熱が横を掠めたような心地がする。
───────コーン、という可愛らしいひと鳴きを合図に、ありもしない扉が蓮の背後で、確かに閉じる音を立てた。
◇ ◆ ◇
僅かに熱気を含んだ夕風が、肌を撫でる。
武家屋敷跡……もはやボロ屋と化したかつての栄光を見、幸酔は眉根を寄せた。
今回の『幽現』について報告に上がったものは、極めて特殊なことばかりだった。
まず第一に、他の『幽現』は瘴気の影さえ無かったこと。
第二に、同一の気配を町の方々から漂わせていること。
最後に────恐らくは本体である絵師が、動揺のひとつもしていなかったということ。
既に『幽現』たちの均衡は鵺討伐によって砕かれ、危機感を抱いていてもおかしくないのだ。
「相ッ変わらず、難儀なこッた……」
「分かっとったことやろうに」
幸酔の横で忍び笑った茨は、しかし何処か同じような思いを抱いているように眉を下げた。
「そやけど、気になるんは確かやね……」
間近であの絵師を見た茨は、不気味で得体の知れない笑みに、多少の不愉快さを与えられている。
ああいった、何故か優位に立たれているような心地を与える人外は、実のところあまり好きではない。
というより、振り回されることそのものが煩わしい、と言った方が良いだろう。
(そないな意味では、あの蓮やらいう食えへん男も苦手なんやけど……)
ちら、と注がれた幸酔の視線に、茨はキョトンと目を丸め、次いでうげぇ、と舌を出した。
『お待ち申し上げております』
脳裏に過ぎる男の余裕と、夥しいとでもいうべき赤い絵の具の散る絵画たち。
もし、あれら全てが手先になりうるというのなら────実力があろうが、消耗戦に持ち込まれるのは明白。
茨は肩を竦め、美しく結った長い髪を払った。
「ほんと、人使いの荒いことやわ」
「へェ、意外だな。お前、今回ばかりはあまり動きたくねェものだと思ッてたんだが」
「そらあ、うちはあん人らを手助けするために野良になったわけちゃうもの」
せやけど、と茨は朱塗りの下駄の足を止め、可憐な笑みを浮かべて振り返った。
「見せ場をくれたるのも、そらそれで楽しないし?今回は酒呑の口車に乗ったるわぁ」
闇と血の匂いの濃い夏の終わり、華奢な下駄の音だけが響く。
その背を見送った幸酔は、気分屋ながら以外にも他人思いの相棒に笑みを向け、新月の夜空を見上げた。
コーンと一つ、愛らしい獣の声が響いた気がした。
◇ ◆ ◇
女郎屋は本来、夜にこそ強い明かりを灯す。
しかし、菖蒲が様子を伺うように見た其処には、明かりのひとつさえついてはいなかった。
不審な思いもあらわに菖蒲は眉を顰めると、腰飾りに触れた。
(五月雨が騒いでいる……此処にも居るか)
『これは憶測ですが、此度の幽現は依代を分散させることで、眷属を同時に召喚できるのでしょう』
楓の穏やかな声が、菖蒲の頭をよぎる。
『我ら鶴翼衆の調べでは、少なくとも本体は、麹町全域を手中に収めるべく、擬似的な結界を作り上げています』
『つまり眷属の配置場所が結界の柱、つーわけだな』
女郎屋、武家屋敷跡、更には別の廃墟がそれに相当すると目星がついた。
蓮と茨の話によれば、その本体は街に紛れた絵師の工房と見てほぼ間違いない。
本体を叩けば、自ずと眷属も力を失い自然消滅する。よって、最も状況適応力が高く、手札の多い蓮が本体の討伐に当たった。
菖蒲の仕事は、恐らく最も力が強いとされる女郎屋の眷属を討伐することだ。
辺りからは、人の気配ひとつしない。
足早になることもなく、菖蒲は女郎屋に音もなく足を踏み入れた。
暗闇に浸かりきったように、静まり冴え冴えとした空気が肌にまとわりつく。
菖蒲は僅かに目を細め、以前細かく覚えた部屋の間取りを頼りに、あのおどろおどろしい絵の方を見た。
刹那、鬼火のように冷たい炎が、部屋を暗く照らす。
ぼた、と何かが滴る音がした。
鼻をつく鉄錆のような匂いと、滴り落ちて広がっていく音。
振り返らずとも、それが何なのか菖蒲は理解していた。
「お客さん、お客さん……お客さん……?ほら、ホら、ホラ……」
ぼた、ぼた、ぼた。
ケタケタ笑う女の声。まるで遊ぶ小狐のように、菖蒲の影がぐらりと揺れた。
刹那、何かが第六感を掠める心地を覚え、菖蒲は反射的に背を反らす。
予見通り影から鋭い爪のような斬撃が飛び出、空気を俊敏に切り裂いた。
菖蒲は瞬時に懐から紙を一枚取り出すと、それを己の影に向けて放つ。
紙だったそれは細い短剣のような形状へ変化すると、影に深く突き刺さる。
ギァアアッ、と醜い悲鳴が上がったかと思うや、ボコボコと泡が次々に影に浮かび上がる。
腰飾りがシャンと揺れ、一声短く上げた。
「五月雨!!」
応えるようにもう一度冷涼な音が鳴ると、みるみるうちに髪飾りが水の刃へと代わる。
一際大きな泡のはじける音の後、影から炎が菖蒲に遅い来る。
鞭のようにしなる三本の火元が、その形状に反して俊敏に菖蒲を追ってきた。
(あの速さ、術というより本体か)
菖蒲は僅かに目を見開くと、式神・五月雨を素早くひと振りし、柱を足場にぐっと力を込める。
「一ノ儀・瞬星!」
ヒュンッ、と鋭い音と共に、菖蒲は三本の火元を一刀のもとに切り捨てた。
再びけたたましい声を上げて縫い止められた影が鳴く。
身軽に着地すると、菖蒲はすぐさま振り返って刀を構えた。
グルルル……とまるで獣が鳴くような音を上げ、すぐさま狭い廊下を覆うほどの影の海が広がる。
菖蒲の足元にまで及んだ海から這い上がってきたのは───影から拵えたような三本尾の四足の獣だった。
こちらを睨みつける眼は烈火のごとく猛り、威嚇する鋭い牙の隙間からは、吐息と共に火炎がほとばしる。
菖蒲は目を細め、パシャンと影に足を踏み直した。
「眷属に構っている暇は無い────五月雨、手加減はするなよ」
主にそう呼びかけられた式神は、笑うようにシャン、と一つ音を立てた。
◇◆◇
降りかかった血を舐め取り、威嚇するように歯を剥き出しにした影の毛並みの狐たちが、蓮を取り囲む。
暗闇の中でなお、眩い光を放って精確な状況を更新し続ける双眸は、その両眼に二十体以上の眷属を確認していた。
個体それぞれの能力は、大元が同じである以上共通している。
芸のない尾の動きを交わしつつ、蓮は抜け目なく本体の瘴気を捜した。
(攻撃ではなく、足止めが目的ですか)
考えを巡らせていると、ドポンッと水に沈んだような音が影の中で鳴り、ずるずると影だけで蠢き出す。
グッ……と後ろ足に力を込めた眷属の狐たちが、勢いよく蓮との距離を詰める。
蓮は僅かに姿勢を傾けると、飛びかかってきた眷属の爪を仙弔花で受け止め、眷属たちが力を加えた一瞬────体勢を低くくして眷属たちの横をすり抜けた。
勢いを殺さず右足で軽く飛び上がり、逆さの向きまで状態を変えると、鋭く玉眼で獲物を射抜いた。
「一ノ儀」
飛沫のような音を上げて影から飛び上がった眷属が、僅かに目を見開く。
仙弔花を小さく持ち直し、刀身を目にも止まらぬ速さで振り払った。
「千切葉」
身を翻しつつ繰り出された剣撃は、一寸の狂いなく眷属たちの四肢を千切り、時に剣撃の余波で首まで見事にねじ切れる。
突風のような斬撃は、彼らの爪痕同様に結果内にまでその威力を残した。
蓮は身軽に着地すると、クルッと一つ仙弔花を回す。
そして己の背後へと勢いよく突き刺した。
「陽動は失敗のご様子で」
鳳仙の玉眼は技を繰り出す刹那、蓮の攻撃の構えに乗ってこなかった一体を確認していた。
仲間を囮に使ってまで背後を狙ったようだが、噛み付くそぶりを見るまでもなく、刀身は眷属の喉を貫いていた。
蓮はそれをなんの躊躇いもなく眷属ごと薙ぎ払うと、仙弔花の浴びた血を払う。
眷属らは残らず、灰と消えていった。
「……さて」
鞘に刀身を収めつつ、蓮は周囲を見回した。
瘴気の気配は確かにあるのに、その居所は判然としない。
「これは少し、厄介かもしれませんね」
今回の幽現は自分の力量を、十二分に理解している。
個としての力は中級程度といったところだろう。しかし、それを補う狡猾さと周到さ。
何がこの幽現にここまでの執着心を与えるのかは分からないが、蓮は逡巡の後に玉眼を閉じた。
『見るべきものを特定し過ぎたがゆえに、見たいものさえ見れなくなった』────いつか、そう指摘された代物だ。
蓮は僅かに目を瞬き、納得して歩き出した。
瘴気は幽現そのもののものではなく、幽現が執着するもの。
ベッタリと伸ばし塗られた、赤い花の狂宴。
火炎を吐いて鋭い牙も剥き出しに威嚇する、恐ろしい形相の狐。
かの狐は、今まさに歌舞伎役者のような顔をした武士たちに追い立てられていた。
辺りにはただ、水飛沫のような細かな赤が飛び散るばかり。
同族の姿など、どこにもありはしなかった。
僅かな間を置いて、蓮は一際大胆に紅蓮の描かれた襖へと、足音を立てず近づく。
そして静かにそれに手をかけ、開け放った刹那──────ごうごう、じりじりと何かが身を焼く音がした。
所詮は幻、共鳴りしているに過ぎない。
まずい、と思っても時すでに遅い。
確かに闇に呑まれるような心地が、気づいた時には蓮の体躯をすっぽり覆ってしまった。
トプン、と部屋の影がさざ波を立てる。
残された闇は、燭台の灯りに焦がされるばかりだった。
◇◆◇
「体は怨嗟。実は暗影。名は無形……か」
トプン、と瓢箪の中で酒が揺れる。
唄うようにそう言った幸酔は、ふと足元を見た。
自身の影に潜み、牙を突き立てようと立ち向かってきた数多の眷属たちは、幸酔の技ですっかり串刺し状態だ。
数百、数千という細長い針山にその身を落とされた彼らは、ぐったりとしてぴくりとも動かない。
それが足元にバラバラ転がっているのだから、流石の彼も少々不格好な始末の仕方だったか、とは一度思った。が、所詮最後は消滅あるのみ。倒し方など、それこそ残虐でさえ無ければ文句はなかろうと決着をつけ、今に至る。
「やッぱ、茨を向かわせたのは正解だッたな。こういう手合いに関しちゃ、アイツの右に出るものはねェ」
血を浴びた前髪を鬱陶しげに掻き上げつつも、幸酔は不敵に笑んだ。
「まァ、俺の知る限りだがな」
幸酔と茨は、実に六年ほどの付き合いになる。
彼女の闘志と決意と覚悟とを買い、気まぐれの手助けはいつしか右腕となった。
そして、幻覚と撹乱を得意とする狡猾なこの幽現が最も手こずる、もといやりにくいであろう相手が、他ならぬ彼女だ。
姫鶴が『刀神』と呼ばれる式神を用いてより実践的な戦法に特化した修祓師だとすれば、幸酔と茨はその真逆だ。
特に彼女についてはそれが顕著で、そもそも心や脳の働きを利用した『幻惑』で相手を乱し、一瞬の弛みを突いて片をつけるあのやり方は、暗殺者にすれば一級品の代物だ。
「さて……お前らに使いこなせるかね」
どろり、と影に戻っていく眷属の様を見ながら、幸酔は殊更笑みを深めた。
ぼた、ぼた、ぼた、と滴る影の海。
巨大な襖絵を背に、蓮は柄に手をかける。
刹那、けたたましく甲高い鳴き声が、闇の静寂を切り裂いた。
引きずり込まれた暗闇の先は、まさしく幽現本体の寝床だった。
暗がりでは痛いほど目につく白い毛並みに、つり上がった眼は四つもある。
さらには刺青のように毛並みに刻まれた印や、柔らかに動く二本の尾。
何より鋭く伸び上がった朱の角が、背中にかけて生え並ぶ様はまさしく猛獣らしさを引き立てた。
グルルル……と眠りから覚めた妖狐が唸り、血みどろの前足を踏みしめる。
巨大な体躯を覆っていた着物は、赤い絵の具の飛び散る作業着─────かの絵師のものと、そっくりだった。
蓮は素早く灰桜色の刀身を引き抜き、構える。
滴る影と赤の香り。ごう、と熱気が押し寄せ、妖狐は吐息に炎を走らせた。
クルッと身軽に刀を回し、蓮は右足を僅かに引いた。
「妖縁起六十八番『轟頼』、その妖名を野干!」
清廉で芯のある声が、闇中に響き渡る。
瘴気が噎せ返るほど濃くなり、同時に幽現───野干の形相が、一段と険しく恐ろしくなった。
「お覚悟召されよ」
蓮がそういうや否や、狼も震えがるような地響きに似た遠吠えを野干は発した。
すると、僅かな明かりに照らされていただけの空間に、ボコボコと音を立てて影の泥が姿を現す。
流れるように頭部から尾までザッと毛並みを揺らし、野干本体を守るように、数えるのが億劫なほどの眷属たちが姿を表した。
野干の背後には人骨の山、衣服の残骸。
狐共は皆一様に口の辺りを赤く染め、血走る眼と唸り声とで、蓮を威嚇した。
(……これは、少し厄介だな)
野干という妖は、さして力のあるそれではない。
というのも、所詮は化け狐か歳を経た狐の成れの果てであって、人肉を喰らったり悪さを働く程度の弱小だ。
ところが、この幽現の厄介なところは、その弱小であるということを十分に理解している点だ。
恐らくは眷属の中でも精鋭である手先を掌握の手札とし、化け狐という点を最大限生かし、本体が動かずとも効率的に獲物を手に出来る。
無尽蔵ではないにせよ、消耗戦に持ち込もうとしているのは明らかだった。
甲高い鳴き声を上げて襲いかかってくる眷属を、蓮は慣れた手つきで薙ぎ払う。
だが──────。
(手応えがない)
先程は明確に感じた『切った感覚』が、今回の眷属らにはない。
まるで霧を相手にしているようだ。
切ればぶちまけられるような音を立てて影に還り、泥のようにあたりに散乱する。
その薄気味悪さに、蓮は眉根を寄せた。
(幻覚か、仕込みか……どちらにせよ、やりにくい)
姫鶴は超人的な力に重きを置かず、より実践的かつ臨機応変な対処を可能とする『剣術』
による祓いの技を見出した。
核を一刀のもとに切り捨て、妖最大の特徴である再生能力と術とに惑わされない戦法を確立したのだ。
が、こういった幻術系統を得意とする妖には不得手で、ゆえに御三家の一柱である鴻上は、式神や玉眼を駆使した『見破る』技を磨いてきた。
澄んだ視界で彼らを捉え、蓮は僅かに顔をしかめた。
(核が、無い)
まさしく幻術だった。
本物の手下は両手で足りる数だったとしても、幻術を利用すればここまで実態を伴わない足止めを作れるというわけだ。
本体に近付こうとしても、爪や炎の吐息でそれを阻まれ、相手せざるを得なくなる。
泥の塊を切り捨て、蓮は後ろに飛び退った。
(埒が明かないな……)
さて、どうするかと柄を握り直す。ボコボコとまた泡立つ音を立てて核のない眷属が姿を現した。
踏み出しかけた刹那───玉眼が何かに反応する。
本体の瘴気に似たそれは、間違いなく『本物』の方だった。
比べ物にならない熱気と爪の鋭さとで蓮に襲いかかってくる。
「お困りのようどすなぁ」
その声を合図にしたように、襲い来たはずの眷属は身を保てなくなったかの如く身を震わせて空間に静止し、瞬間───ブワッと花が咲いたように、花弁となって床に散った。
目を瞬いて何事かと頭を巡らした蓮の前にカンッ、と軽い音を立て、夜の帳が降りるように洒落た着物がはためく。
その様は、さながら天狗が下界に足を落ち着けたよう。
摺藍色の長い髪を後ろへ払うと、茨は口角を上げた。
「今ならお安うしときますえ?」
ニイッと艶やかに笑う茨に、蓮は二、三度目を瞬き小さく笑い返す。
「老害からの報酬は取れるだけ搾り取るのが、野良の定石と心得ていたのですが」
「やぁねえ、少しは信じとくれやっしゃ」
ケラケラ笑いつつも、茨は横の短い髪を指に巻き付けながら、低く唸る巨大な獣に一瞥をくれた。
「それに、小賢しい狐狩りぐらい、ケチケチしいひん方がええんちゃう?」
核が無いと悟られるや否や、隠し手札を切ってくるような妖だ。確かに小賢しい以外の何物でもない。
蓮は姿勢を崩さず立ち上がると、再び柄を握り直した。
「報酬については、若様と吟味なさってください。私の主ですので」
「あんさん、“わしが従者どす”なんて殊勝な心がけがあったん?」
「心外ですね、私はいつだって若様に忠誠を立てておりますよ」
「ははあ、京の男はお猫はんの皮厚いって話、ほんまみたいやねぇ」
何処吹く風の蓮にケラケラ笑うも、次の瞬間には茨も鋭い眼光を妖たちに向けた。
「ほな、ちゃんとうちの仕事ぶり、見とってよね……請求額は、見合うてへんとやろう?」
ボラれたくなければ、と副音声でも聞こえてきそうな茨の言い回しに、蓮は笑った。
ひらり、と残骸の花弁が巻き上がる。
─────灰桜の刀身に、呼応するような輝きが走った。
大変長らくお待たせ致しました。
プライベートが忙しかったこともあり、中々筆が進まず……。
そんなこんなで最新話でした。
さてこの狐どう料理してくれようか、と言わんばかりですね。味方のはずなのにちょっと意地悪そうなのはご愛嬌です。




