六話 恋歌
幾千の夜を重ねても、幾万の歌を捧げても、貴方は今日も、知らん顔
「どうしようかしら」
ペロリ、と声の主は小さく舌なめずりした。
鬱陶しげに着物の裾を払い、長く白い足を組むと、気だるそうな声を上げて、目の前で藻掻く『獲物』に目を向ける。
その瞳孔は、人ならざるものらしく細まって、黄金の輝きは、夜空に浮かぶ半月そのものにも見えた。
「私、人間は嫌いなの。頭が悪くて、そのくせ賢いフリをする……とにかく醜いでしょう?」
藻掻く獲物は、肌けた着物に身を包み若い男で、流行りらしく髪を切っている。
そういうところも、つくづく癪に触った。
シー……と、尾の獣が舌を出しては鋭く鳴き、獲物をじりじりと締め上げていく。
その度、苦しげで蛙が潰れるような声を、男が上げた。
「分かる?お前のような阿呆は食うにも値しないのよ。でもね、私はなにせたくさんの化け物を寄せ集めて出来た化け物だから、お腹はそれだけ沢山空くの」
ぞろり、と今度は鋭い爪が、男の背中を抉っていく。
人が上げられるのか、と思うほどのおぞましい叫び声を上げて、男は助けを求めた。
その姿に、化け物は僅かに口角を上げる。
「莫迦ね、助けなんか来やしないわよ。……ねえ、お前は聞いたことが無かったのかしら、此処の噂。それとも知らなかったから女を買った?」
まあ、どちらでもいいわね、と化け物は付け足した。
そうして、うっそりと微笑んだまま、冷えきった声で告げる。
「お前のような醜い獣は、ここで死ぬのがお似合いよ」
瞬間、尾の獣がその長い身体を伸ばして男をすっぽり覆い、グッと強く力を込めた。
小さな悲鳴を最期に、男は全身を締め砕かれて絶命する。
ゴシャッと叩きつけるような音と、飛沫を上げる血液が、小さな部屋に飛び散り、濃密な死の匂いが充満した。
化け物は冴えた半月の眼を瞬きもせずにそれを見届け、自身に振り返った男の血を見ると、苛立たしげに短く呟いた。
「穢い」
────その手には、三枚の人型の札が握られていた。
東京は、人工の灯火をかき消す、深い闇夜の頃。
獣をしまった化け物は、僅かに嘆息して、目を伏せる。
刹那、グシャッと、札が、一気に握り潰された。
◇ ◆ ◇
どうしたものか、と菖蒲は考え込んだ。
場数を踏んだ蓮の意見を聞こう、と顔を上げた時─────菖蒲は常ならざる蓮の様子に、片眉を吊り上げる。
「……お前、何だその顔」
ひどく億劫げな顔をした蓮は「いえ」とだけ小さく答えた。
実のところは、仕掛けた残りの式神まで一気に潰されたことが、何となく意外だったのと、純粋に面倒だと思ったのが蓮の本心だが、そんな事を言ったところでどうにもならないので、特に言おうとは思わなかった。
菖蒲も菖蒲で『多くを語らない』蓮の様子には慣れたらしく、追求はしない。
「名前が分かった、と仰いますと」
蓮の問いに、菖蒲は頷いた。
「あくまで仮説だが、今回の『幽現』は、恐らく遊女だろう。被害があったという店ではなく、被害にあった遊女の性質に一貫性があったということは、内部の事情をよく理解していることが絶対条件だ」
その言葉に、蓮はぴくり、と反応する。
確かに、目に見える被害が出ている『雪野屋』『来栖屋』『穂室屋』は、意外にもそれぞれ離れた場所にある上、内部の遊女を熟知しているとなると、かなりの時間をかけて外側から探るよりも内側から臨機応変に対応出来る方が、都合がいい。
「ある程度信頼が置かれている存在ほど盲点だ。恐らくは、お前が式神を配置した店全てに、そういう『無害に見える存在』が居る」
「……つまり、違う場所に同時に存在できる、と?」
ああ、と菖蒲は頷いた。
蓮はその言葉に、思い当たったような顔をする。
そうして、口角を上げた。
「であれば、案外探索は直ぐに済むかと思いますよ」
菖蒲は理解できずに小首を傾げる。
すると蓮は懐から、赤い結い紐らしい何かを取り出した。
赤いそれは、蓮が小さく振ると、自ら輪を作って丸くなっては器用に組み、花のようにも紋様を組んだ。
『鴻上』が得意とする追跡用の式神の一種だと思い当たり、菖蒲は辟易したような顔をする。
「……お前、店に入ったのか?」
まさか、と蓮は小さく笑った。
「少し、往来で縁に恵まれただけですよ」
そう言うと、蓮はその組み紐を菖蒲の帯と着物の僅かな隙間に挟む。
おい、と菖蒲は不機嫌そうな声を上げた。
「何で僕に付けるんだよ」
「若様の方が小回りが利くでしょう?私より適任です」
「そういう問題じゃない!じゃあお前は何処に行くんだよ」
その言葉に、蓮は僅かに双眸を瞬き、次いでにっこりと笑んだ。
「御二方に合図を出してきます。これは対象に近づけば色が青に変わり、黒く変わればかなり近くにいる反応です。では、ご健闘を」
要点だけ掻い摘んで言うと、蓮は霧のようにフッと菖蒲の前から姿を消した。
逃げたな、と菖蒲はまた翻弄されたことに腹が立ったが、どのみち、今夜引き上げて犠牲者でも出ようものなら夢見が悪い。
仕方なく、菖蒲は吉原の門へと向き直り、飛翔した。
とん、とん、と屋根上を足場に人がめっきり減った往来を見、ジジ……と焦げるような音に、適当なところで立ち止まる。
帯の辺りを見れば、組み紐が僅かに変色していた。
菖蒲は眉根を寄せ、幸いにも見晴らしの良いその場所から、大きな鳥籠にも見える吉原を一望した。
そもそもこういった店に『閉める』という概念があるのかは不明だが、僅かに明かりの消えた店も見える。
その中でふと、上部のみ灯りのついた店を見つけた。
周りは闇に溶け込んで見えなくなりかかっているのに、その僅かな明かりだけが、異様に目立つ。
「……あれか」
ジジ……と組み紐の色がゆっくりと変化していく様を見、菖蒲は再び飛翔した。
笑うような月が、美しい夜である。
◇ ◆ ◇
五月の夜は、曖昧な温さが人を包み込む。
茶店はとうに閉まり、往来に待ちぼうけを食らう茨は、隣に佇んで渋い顔をする幸酔に、確認するように告げた。
「変やない?」
それに、幸酔は頭を掻きつつ頷く。
「変だな」
気づけば、周りに人は誰一人居なくなっていた。
────そして、まだ藍色をしていた夜空は、真っ黒く染まり、薄く伸ばした雲に似たものが、籠のような紋様を描いている。
周りには気味が悪いほど沢山の灯篭や提灯が蔓延り、そこかしこを明るく照らしていた。
周囲の店は、いつの間にか似たりよったりの朱塗りの柱を使った『鳥籠』紛いの格子が続き、その内側ではユラユラと影が揺れている。
シャン、シャン、と鳴り続けるのは、まるで花魁道中のように華やかな、鈴の音。
だが、何か攻め立てるような響きを孕んでいる。
「結界持ちか、面倒くせえ」
茨は面白そうに周りをぐるぐると見渡し、格子の奥の『女の影』に微笑んだ。
「せやけどこれ、まだ未完成やわ。大元を倒さな、出られはしいひん思うけど」
大元、と小さく呟いて、幸酔は盛大にため息をこぼす。
刹那、提灯のひとつが、大きな音を上げて破裂した。
その光景に、幸酔と茨は目を見合わせる。
「今のって、もしかしいひんでも合図?」
「……だな」
鼻腔をくすぐる穏やかな香りは、菖蒲や蓮が纏わせている『術の気配』だ。
どこまでも続く往来の景色は、吉原にも似ている。
結界とは、それを張った妖の『固有の領域』であり、そこに閉じ込められる条件は『幽現』の意思によって異なってくるが、今回の場合は恐らく修祓師に限定しているのだろう。
固有の領域と言われるからには、結界を構築した『幽現』が、結界内において通常以上の強さを発揮し、飛躍的にその能力を向上させる働きがある。
この場合、名前を暴いたところで微細な効果しか発揮されないことの方が多い。
合図を出したのが菖蒲であれ蓮であれ、向かっている人数は二名が限度。
幸酔は、夜だというのに伸びていく己と茨の影を、じっと見つめた。
「……茨、お前吉原に行けるか」
その言葉に、僅かに茨は小首を傾げる。
「そら、『幽現』さん次第ちゃうん?」
茨は遥か彼方まで続く、恐らくは吉原を模した結界を見つつ、そう言った。
結界には幾らかの種類があるが、今回の場合は内部に入れた対象を分断するために、数段階に分けている結界だ。
幸酔と茨が居る場所が第一階層だとすれば、菖蒲や蓮がいる場所は最深層である。
一定の条件を満たせば階層を進むことも出来るだろうが、分断型の結界は術者の意思による場合の方が多い。
ンなこたァ分かってる、と幸酔は気だるげに言った。
「お前なら、この程度の結界どうにでも出来ンだろ、ッて言ッてンだよ」
茨は少しばかり驚いたように目を瞬き、次いで面白そうに不敵な笑みを浮かべる。
「ええよ。せやけど試しとったやろ、まだ。助けたってええの?」
幸酔はその言葉に、苦笑を零す。
姫鶴の人間が東京で何事か調べているのは、はじめから分かっていた。
逃げ帰った時も、ざまあ無いと思ったのは事実だ。
だが、こそこそと地道に調査ばかりし続けた末、虎の尾を踏んだとも知らずに戦おうとする彼らを助けようとは思わなかったし、全滅したところで、どうというわけでもない。
懲りずに寄越してきたことには欠伸が出たが、あの二人が異質であることは、すぐに理解出来た。
ただ何となく、死んだ化け物に花を手向けるような、おかしくて傲慢な修祓師が、気にかかっただけ。本当は迎えだとか適当な理由をつけて、討伐するものまで誘導しているのも、真実あの『化け物たち』に対抗出来る力を持っているのか、見定めたかっただけなのだ。
今回、彼らが使えると分かれば、本格的に協力するつもりだった。
使えなければそれまで、適当に想定外の『幽現』と鉢合わせさせて追い払おうと思っていた。
「ま、死にそうになったら考えとけ」
「ほいほい。……んで、酒呑はどないするん」
幸酔は暫く考えた後、笑う。
「此処を、どうにかするさ」
伸びきった二人の影から、ユラユラと何かが現れる。
格子の奥に居た何かも、柱の隙間を通って道にでてきた。
結界を構築する利点は、もう一つ────結界そのものの強度にもよるが、結界内でのみ眷属を使える。
これは倒さなければ結界が崩壊した後も、瘴気として漂う。ここで倒しておくべきは、眷属も主も同じだ。
茨は「ほな」とだけ呟くと、一歩前に出た。
「化け物退治といこか」
きらり、と一瞬、茨の耳飾りが鋭く輝く。
そうして、幸酔と茨は背中合わせに立った。
温い風が静かに吹く暗夜。修祓師たちは、動き出す。
◇ ◆ ◇
さて、と蓮は呟いた。
今回の『幽現』や、今後遭遇し討伐するであろう強力な彼らが、何故強力になったのかは、大方察しがついている。
入り交じった濃い瘴気の漂う、冥界にも似た、『幽現』の亡霊たちの宴に、蓮は足を踏み入れた。
もしも、この吉原の『幽現』が、仲間をも食らって力をつけていたとすれば、あの変化自在の擬態能力も、掴ませないおかしな瘴気にも、説明がつく。
『誰のものかも分からない瘴気』を漂わせている『幽現』など、前代未聞の話だが。
「まあ、若様は本体で手一杯でしょうし、致し方ありません」
苦笑混じりにそう呟くと、蓮は右手をスっと上げた。
「仙弔花」
瞬間、帯に巻いていた飾り紐の一つが、するり、とひとりでに解け、クルクルと蓮の手のひらで回り出す。
次第に大きく伸び、刀ほどの長さになれば、その後は内側から花を散らして変化していった。
淡い紅色と薄墨色の刀身は、どこか蓮の花を思い出させる。
その耽美な姿に、蓮は微笑んだ。
最深層に侵入しようと漏れ出した瘴気は、やがて形をつくり、人の形をした泥のように、濃い闇をぼたり、ぼたり、と落としていた。
百鬼夜行でも作るつもりか、と言いたくなるほど多くの瘴気とその亡霊に、だが蓮は不敵な笑みを崩さない。
そうして、式神に告げた。
「尽く、打ち倒しましょう」
◇ ◆ ◇
トンッ、と身軽でとても小さな音だけが、『幽現』を振り向かせる、人の気配だった。
薄暗闇が室内を支配している様には、見覚えがある。
だが、今回の結界最深層は、何処か歪で、おまけに小さい。やはり、まだ未完成の代物だ。
ふっ、と、芳しい花の香りにも似た瘴気が、漂ってくる。
吐き気さえ覚えるほど甘美なその様に、菖蒲は身構えた。
ずるり、ずるり、と、闇と着物を引き摺って現れたのは、簪も何もかもを取り去った、美しく艶やかで、残酷な程に冷淡な顔をした、女である。
彼女は僅かに感情の薄れた眼で菖蒲を見つめると、気付いたように小さく身動ぎ、こてん、と首を傾けた。
「───お前など呼んだ覚えはない。死んで私の糧になれ」
そう言うと、女はスっと右手を上げ、呟いた。
「繋れ」
その声に応じるようにして、女の背後の薄暗闇から、人とは呼べぬ数多の代物が、菖蒲に向けて攻撃する。
室内の向こう側の戸を突き破り、呆気なく畳を破壊するほどの衝撃を持った攻撃。
鱗に身を包んだ、蛇のようなそれらが向かった先には、だが、本来傷を負っているはずの人間が居ない。
消えた?
そう思った刹那、女は小さく、目を見開いた。
(─────疾い)
既に女の懐近くまで急接近していた菖蒲は、鋭い眼を女のそれとかち合わせ、短く息を吸う。
「五月雨」
今度は菖蒲の声に呼応するように、冷涼で独特な音を立てて、腰元の飾りが輝き出した。
修祓師に遭遇したことのない女は、ぎょっと目を丸くする。
菖蒲は、その瞬間に出た隙を見逃さず、女を窓から蹴落とした。
存外に高い最深層の一室から落下していく女は、一瞬、忌々しげな顔をしたのみで、その後すぐさま体勢を立て直す。
菖蒲も、その手の中に、朝焼けにも見える輝きを刀身に宿らせた、美しい刃を作り上げた。
変化の様を横目で確認し、菖蒲も身軽に着地する。
「……お前、修祓師か。ああ、全く忌々しい、また人間に騙された」
その言葉に、菖蒲はハッとしつつも眉根をよせた。
この結界は、てっきり修祓師のみを選択して始末するための代物かと思っていたが、主であるはずの女が知らないということは、彼女自身、そもそも結界について理解していないのではないか。
あくまで結界は、何らかの条件のもとに発動する偽装か、防衛機能なのだ。
菖蒲は逡巡の後、しゃがみ込んでいた体勢を整え、ゆっくり立ち上がった。
「貴方こそ、人間を騙してきたんだろう。一体、幾つ顔を持っている?」
その言葉に、女は不快そうな顔をする。
「……何だ、そこまで露見していたのか。やはり、あの女の言うことは事実のようね」
何を言っているのか分からず、菖蒲が鋭い視線を送れば、突如、女の周りを黒雲に似た何かが漂い出す。
そうして、女を包み込んだ。
「坊や、お前はまだ穢くないから見逃してあげたかったけど、どうせここに落としたのも、土俵をお前のものに変えるためでしょ?」
菖蒲は刀を僅かに構え直す。
そこまでの理性と知性を持っていながら、何故今回下手を打ち、何故この状況で結界など発動させたんだろう。
「いいわ、お望み通り、人のやり方に応えてあげる」
黒雲は時に電光を発し、軽やかに一閃させる。
それの奥で、女は愉快そうな声を上げた。
菖蒲は僅かに左足を引くと、僅かに揺れた瘴気に、飛び退る。
案の定、再び飛び道具だ。
シーッ……と舌をちろちろと動かすのは、翡翠にも見えるほど深く鮮やかな鱗を身に纏う、蛇だ。
先程の攻撃は、これを多数使っていたに違いない。
逃さないとばかりに、続けて両脇から何か気配が生じる。
小さく飛び上がって避ければ、四本の細い軌道が、左右から建物ごと壊して、本来菖蒲が居た場所に襲いかかった。
その跡は、鋭い爪で引っ掻いたそれのようにも見える。
空中で思案していた刹那、菖蒲はグッと足を掴まれる。
そのまま空中で二、三回ほど回された後、遠くへと勢いよく投げ捨てられた。
その後も攻撃は留まるところを知らず、何か細く鋭いものが、苦無のように沢山飛んでくる。
その攻撃一つ一つが恐ろしく速いのも、何となく焦りを覚えるようだった。
菖蒲は刀を体の前で縦に構えると、突き刺さるような勢いで飛んでくる、羽に見えたそれを受け止め、次いで薙ぎ払うと、投げ飛ばされた先で足場を見つけ、衝撃を緩和させつつ、足場に身体を打ち付けられる。
「……五月雨、悪いが今日は酷使するからな」
その呼び掛けに呼応するように、刀身が上から下へと駆けるように煌めいた。
その様子に小さく笑むと、定位置より遠いはずの菖蒲の元へと、再びあの蛇たちが恐ろしい速さで飛んでくる。
「一ノ儀」
すうっ、と、菖蒲の周りだけ温度がみるみる下がっていく。
突撃してきた蛇たちは、その鋭い眼を更に鋭く細めた。
「瞬星 三条」
その合図で、全部で六頭ほどは居た蛇が、三つに分断され斬り捨てられる。
襲いかかってきた爪の攻撃も、僅かに緩んだ。
その隙を逃さず、菖蒲は刀を手の内で持ち直す。
「弐ノ儀 繊月」
二手に分かれた爪の斬撃を、菖蒲は高速で刀を何度も一閃させて弧を描くように動かした。
斬撃を斬撃で緩和し、最後に避けてしまえば、早かった爪の斬撃も、建物に傷をつける程度のものになっている。
次いできたのは、けたたましい音と、爆発。
あの爪の斬撃が爆破材らしくなっていたようで、芸当の細さには菖蒲も驚いた。
だが、難なく爆破を読んでいた菖蒲は、その衝撃を利用して建物の側面を足場にすると、そのまま、以前森の中を、木の幹を使って素早く移動した要領で、途中迫り来る斬撃なども器用に躱し、再び女の佇む場所まで舞い戻った。
女は忌々しげに唸ると、空中から振りかぶって攻撃してきた菖蒲の刀を受けるように、いつの間にか背中から生えてきている翼を、身体の前で交差させた。
菖蒲はそれを見、受け止められつつ振り上げた足で蹴ると、怯んだ隙に着地し、すぐさま低い体勢を取る。
そして、下から上へと薙ぎ払うように、交差させる力の緩んだ両翼を退けた。
「参ノ儀」
顕になった女の身体を見、菖蒲は呟く。
ハッとした時には、もう遅かった。
「嶽靱」
上へと薙ぎ払った体勢から再び小さく回転して下に構えた状態に戻り、一歩踏み出して、刀を斜め上へと振り上げる。
女の胴体を大きく斬ったその斬撃は、威力そのものも凄まじく、反動で女は、刀の払われた方向に吹っ飛ばされ、そのまま建物の中に勢いよく突っ込んだ。
大きな破壊音と共に建物の中へと飛ばされた女は、痛む背中など気にせず、呼吸が荒くなったことを、面白そうに笑う。
その様子に、この辺りが潮時か、と菖蒲は判断した。
「妖縁起、第百三十七番『婁蓋』、その妖名を『鵺』!!」
凛とした声で告げられた己の真の名前に、女は────鵺は、ギョッとした顔をする。
どうやら、間違っていなかったようだ。
菖蒲は刀についた血を軽く払って、刀を構え直した。
「御頸、頂戴す」
その声を引き金に、女の身体はみるみる変化しだした。
両手両足には鋭い爪と鱗が浮かび、三頭の蛇が尾の獣として再生する。
その美しかった顏は、獅子を彷彿とさせる頬面に似た何かに覆われて、赤い眼と覗いた牙によって失われた。
傷ついたはずの両翼も元通りに再生し、格段に大きく、強化されているふうにも見受けられる。
刹那、けたたましい声で、鵺は鳴いた。
そうして、翼で建物を破って飛び、空中でその獣や妖たちを集合させたようにおぞましい体躯を顕にした。
その人ならざる様相は、鳥肌を立てさせるには十分だ。
鵺が合図するように鳴くと、翼から鋭い羽が、雨のように降り注いでくる。
菖蒲はそれをできる限り薙ぎ払うと、迫り来る強化された斬撃に対応した。
────恐らく、今回の『幽現』は、戦闘面における経験が浅いために、攻撃そのものは単調なことしか出来ない。
一周回って冷静になった頭で、菖蒲は考えた。
であれば、こちらも小難しいことは考えずに、鵺という妖にとって疎ましいことだけ考えればいい。
たとえ結界内に居ようとも、名の縛りから逃れられるわけでも、ましてやそれが己自身の意思で張ったものでないのなら、何も恐れることなどなかった。
菖蒲は斬撃を躱しつつ、三段構えの丁度良い建物を見定めると、一気に窓の格子などを伝って身軽に屋根上まで行き、走り出す。
数の多くなってきた斬撃とて、なまじ力が強くなったばかりに、先程の攻撃より数段遅い。
目の前の道を破壊されても、菖蒲ならば器用に回転や飛び上がりを駆使して駆け抜けることが出来た。
鵺との距離が僅かのところまで縮まった場所で、グッ、と菖蒲は足に力を込める。
そうして、勢いよく飛び上がった。
何か仕掛けてくる、と、鵺は忌々しげに甲高く鳴く。
だが、飛び上がって、鵺よりも上空で刀を構えた菖蒲の姿が、今宵の美しい半月と重なり、刀が白く、煌々と輝いた。
─────ああ、つくづく忌々しい。
私は、『鵺』は、この光景を覚えている。
ずっと昔の、弓使いの。
「伍ノ儀」
清廉な声が、鮮明に言う。
瞬間、刀身に鋭く光が雷のようにバチリ、と宿った。
「白雷」
ドッ……という大きな衝撃が、空から鵺を、撃ち落とした。
◇ ◆ ◇
私は、夜にひっそり歌うのが、好きだった。
歌ったら、好きな人に会えたから。
七日に一度の約束だったけれど、私は何度も歌いそうになった。
懸命にこらえた後に、小さく、拙い歌声に乗せた、貴方への愛が届くのが、嬉しかった。
まだこの辺りが、江戸と呼ばれていた頃。
私は、富豪の娘だった。
好きな人は、商売相手の旗本の息子。
歳の頃が近くて、父親と共に商談に来た時、びっくりするぐらい、心臓の音が早くなった。頬が火照った。また会いたいと思ったのは、彼が初めてだった。
私がこっそり覗いていたら、控えめに手を振って応えてくれたのが、一番舞い上がった思い出。
それからは何となく、酒癖の悪い父親の元から、彼が抜け出す口実に、逢瀬を始めた。
逢瀬、なんて言うほどのことはしていない。
ただ会って、少しだけ話をして、お互いに恋をした。
優しくて、暖かい心の持ち主だった。
また逢えるって聞いたら、逢いに行く、って言ってくれるような、そんな人。
だけど、私の家は、幕府の衰退とともに、傾いていった。
父は商売に大負けし、運の神様はうちから出ていってしまった様だった。
いつの間にか、歌っても彼は来なくなった。
だけど、私は歌った。きっと今が苦しいだけで、また逢いに来てくれると思ったから。
世間が『終わりだ』と浮かれ騒いでいる時、私は父親に、道の真ん中で置いていかれた。
売られた。
訳が分からなかったけど、迎えに来た男の様子で、そうだと分かった。
初めて『無体を強いられる』の意味を知ったのも、この日だった。
何にも考えられなくなって、ただ黙って着いて行った。
そして、売女として働き続ける道だけが、私に突きつけられていた。
禿としてついた女は、下品な男に買われることを誇りか何かのようにはしゃぐ馬鹿な女で、そのくせ、人を馬鹿にするような言動をするから、苛立って仕方がなかった。
私は意地でも廓言葉なんて使わなかった。そんなことをしたら、まるで私が遊女になったことを認めたみたいになってしまうから。
売れたから、なんだ。
だっておかしいじゃない。私は私の全てを否定される筋合いもなければ、男に媚びを売るほど落ちぶれてもいない。
自分から自分を貶してかかる人間に頭を下げる道理もなければ、体を売るような女の機嫌を取るのだって、私のするべきことじゃない。
でも、私は要らない人間だった。
そんなこと分かっている。ここに売られた時から、分かりきっていた。
だから、私が嫌いな人間にぶたれても、罵られても我慢した。
そうして幾夜も、幾夜も。幾千も、幾千も。
歌い続けたのは、あなたが迎えに来てくれると、夢見ていたから。
『馬鹿な女だね』
『いつまで夢なんて見ているんだい』
『お前みたいな阿婆擦れ(あばずれ)は、ここで死ぬのがお似合いさ』
────気づいたら、何もかも、失っていた。
何で殺したのかは、分からない。
ただ、どうしようもなく苛立たしくて、腹立たしくて、憎悪が煮えて、憤怒が溢れた。
私の周りの遊女はみんな、殺した。
番頭も、店主も、その妻も。
滅多刺しにして、肉を引き裂いた。
それを誰かが、『正しい』と言った。
誰が言ったかなんて、どうでも良かった。
ただ、私のした事が正しかったのなら、それで良い。
どうして化け物になったのか、だって、どうでもいい。
そう成るしか、無かったのだから。
でもずっと、この檻からは出られなかった。
姿を何にでも変えられても、誰も私のことを悪く言わなくなっても、出られなかった。
だけど、だから、歌い続けた。
歌って歌って歌って、気づいてくれる日を待った。
なんでこんな場所に居るのか分からなくなっても、なんで人間を殺すのか分からなくなっても、歌い続けた。
逢う約束をした彼が、来てくれると信じて。
ある日ふっと、ここよりずっと向こうの往来の方へ、化け物になった耳を澄ませながら歌った日、懐かしい人の声がした。
記憶よりもずっと大人びていたけれど、間違えるはずもない、私の好きな、あの人だった。
隣には、知らない媚びる女の声。
『ねえ、何の声かしら。恐ろしいわ』
『心配することは無いさ』
『きっと、鳥の鳴く声だよ』
莫迦な私。
花魁に化けてまで留まったのは、褒めてほしかったから?
新造に化けてまで売女の傍に居たのは、嘲るため?
禿に化けてまで無邪気さを取り繕ったのは、忘れないため?
こんな化け物になってまで生きてきたのは、全部、ぜんぶ、約束のためだった。
どんな形であっても良かったから、貴方に会いたかった。
怒りと憎悪がどれだけ煮えたぎろうとも、悲しみと憂いがどこまで押し寄せようとも、貴方が『鳥の声』を信じて、鳥籠の扉を開けてくれるのを、待って、信じて、憧れていた。
私は、ただ、もう一度、貴方に逢うことが出来さえすれば、他のことなんて、どうでもよかったのに。
─────まだ消失していないらしい己の身体も、残すところは上半身の、それも半分。
何故か右手だけは、残っていたけれど。
すっかりその美しい『人の顔』を取り戻した本来の鵺は、実のところ、子供だった。
禿にも見えるその姿は、粗末な着物一枚に身を包み、すみれの簪一つで緩く髪を結わえただけの、誰から見ても哀れにも見える、ただの子供。
ああ、そうだ。売られたのも、人を殺したのも、化け物になったのも、いつだって、子供だった。
だからこれが、私の本来の姿。
鵺はそう、胸中で呟く。
ふと、頭上から少年の声が、降ってきた。
「……貴方はどうして、こんなものにまでなって、生き長らえた」
その沈痛さの滲む声が、面白い。
もしかしなくても、彼には見えたのだろうか。
本来誰にも見えないという、『幽現』の走馬灯が。
もう痛みすら感じないほど傷んだ身体と心で、鵺は言葉を紡いだ。
「わかるでしょ……?ばかな、こどもね」
その言葉に、菖蒲の眼が鵺に向かう。
あまりに真っ直ぐに見下ろされるものだから、文句を言う気も、失せた。
「あたしは、しあわせに、なりたかっただけ、よ……」
この少年は、つくづく傲慢だ。
傲慢だけれど、それが優しさにも見える。
ただ、真っ直ぐなだけなのかも、しれないけれど。
もう意識が遠のく。
結局、殺そうとして殺された修祓師にだけ、気にかけられて死んでいくとは、己の人生の貧弱さには、呆れてものも言えない。
ただ、でも。
この人間のことを、あの人だと思えば、存外─────悪くない、最期だった。
鵺はそんなことを思いながら、悲しげな微笑みを浮かべて、微睡むように、死んでいく。
霧のように消失していった彼女が居た証は、それを見届けた修祓師の手向けた、花菖蒲一つだけであった。
菖蒲は静かに、立ち上がる。
そうして、崩壊しだした結界と、消えた女から、背を向けて歩き出した。
◇ ◆ ◇
困った、と茨は内心呟く。
まさか本当に一人で倒せると思っていなかった上、しっかり看取ってまでいる。
手出しするどころか、手出ししたら逆に討伐が遅れた勢いだ。
確かに、あの妖─────鵺の性質は、『真祖』である本来の鵺同様、その鳴き声で恐怖心を煽って人の瘴気を喰うことと、その擬態能力にある。
継ぎ合わせた妖という外見から転じて、四人の異なる立場の女の正体だと見破ったことも、理解出来た。
だとしても、少なく見積って『赤位』相当の妖を一人で、しかもあの若さで倒してしまうというのは、流石に規格外だ。
能力にも寄るが、精鋭であろう東京に居た姫鶴の人間は、『赤位』相当の彼ら一つに十人で行動していたほどなのに。
秘蔵っ子などという代物ではない、鍛え上げれば『真祖』に対する切り札だ。
幸酔ならば、こう言うだろう─────『使える使えない以前に、敵にしたら厄介だ』と。
「道理で姫鶴嫌われるはずやわ……こないなの隠し持ってるなんて……」
途中見かけた従者の蓮とて、普通なら相手にしようとも思わない数の眷属を、笑い交じりに蹴散らしていた。
姫鶴のイカレ具合はあの楓とやらで、その片鱗のみ見ていたが、どうやらその実力主義は筋金入りらしい。
「二度も失敗はしいひんってわけね……」
宗家とその直近ともなれば、ここまで強いのか。他の伍大族がどうかは知らないが、顔見知りでいえば、幸酔が相手をしたくないという、二十を超えた吾妻の現最強修祓師と良い勝負ができるのは確かだ。
茨は姫鶴の負けず嫌いぶりと、誇りや矜恃を持ち続けた彼らの意地を垣間見、僅かに頬をふくらませた。
「ほんまにムカつく……ええとこどりちゃうん」
と、崩壊しだした結界に、茨は不平不満を交えつつ、立ち上がる。
「酒呑には何て言おかしら……」
涼し気な耳飾りの音を鳴らしつつ、茨もまた、結界内を後にした。
◇ ◆ ◇
祓っても祓っても湧いてくる雑魚に嫌気がさしていた頃、幸酔は結界から開放された。
辺りを見渡せば、人っ子一人姿を消し、朝焼けの空が高い建物の隙間から覗く。
ふと、後ろから人の気配がした。
振り返れば、菖蒲と蓮だ。
特に怪我をした素振りはないが、菖蒲の着物は所々破けていた。
茨の姿は、と見れば、何となく気まずげな顔をしつつ、屋根上を伝って後ろを着いてきてはいた。
(……何かあったのか?)
幸酔は内心で小さく小首を傾げつつ、菖蒲と蓮に快活な笑みを向ける。
「おう、お疲れさん。にしても急だったな」
ああ、と菖蒲は、(当たり前だが)特に訝しんだ様子もなく応じた。
「奴が望んだことでは無かったようだけど、恐らくは縛りを破った反動だろう」
破った、と幸酔は小首を傾げる。
「人を、喰ってたんだ。恐らくは客を」
その言葉で、幸酔は得心いったように笑った。
半月の頃に動かなかったのは、恐らくは食いすぎる衝動を抑えるためのものだろう。
向上心はあったようだが、恐らくは力を与えられた『親血祖』と呼ばれる『真祖』の縛りが強かったのだろう。
つまりは、あの結界も、『真祖』が下した決定というわけだ。
「ンで、どうだッた?京都のそれより強かッたか」
特に探りを入れている訳では無いが、純粋に評価が聞きたかった。
菖蒲は僅かに考えた後、しれっとこう言った。
「楓の方が強かったな」
その言葉に、蓮は小さく噴き出す。
幸酔と茨は目を瞬き、ついで顔をひきつらせた。
「……楓ッつーと、あのおッかねェ姐さんか……参ッたな、人間の方が強いと来たか……」
ガシガシと頭を掻く幸酔に、菖蒲は小首を傾げる。
「……まあいいさ、じャ、次行くぞォ。俺らもお前らも時間ねェんだからさ」
菖蒲はその言葉に頷くと、歩き出した。
蓮もそれのあとに続きつつ、その場に留まっていた幸酔とのすれ違いざま、小さく呟く。
「ご納得、いただけましたか?」
幸酔は僅かに硬直し、ひきつった笑みで返した。
「……ああ、そりャもう」
その言葉に、蓮はにこり、と小さく笑んで、何事も無かったように再び菖蒲の後に続いた。
それを見計らって降り立った茨は、幸酔の背中を二、三度叩く。
「あら諦めて付き合うたげた方がええわ。ちなみに『幽現』、坊一人で倒してもうたで」
幸酔はその言葉に、小さく「そうか」と返した。
実際、五つの大まかな勢力のうち、一番若輩で弱いだろうものを選んだのは事実だが、まさか一夜で片付けるとは、幸酔と茨も思ってもいなかった。
何かあれば見捨てる気さえあったのに、こちらが置いてけぼりを食らったらしい現状に、何やら腹が立つ。
ふと、先を歩いていた菖蒲が振り返った。
「来ないのか?」
正義を謳う声と眼差しは、いつだって突き刺さるようなものだが、何となく、菖蒲のそれは、誠実で不器用なだけのように思えて、見ていて飽きない。
幸酔は気だるげに返した。
「へー、へー、今行くよ」
朝焼けが照らすのは、四人の影。
ここから始まる修羅の道を、共に歩む者達の、影であった。
三話にわたってお届けした『鵺』の物語、如何でしたでしょうか。今回は少し、説明を入れたいと思います。Twitterにも同様のものを上げるので、そちらもよろしければ。
まず、今回の『鵺』という妖の名前を彼女のそれに選んだのは、どちらかと言えば『鵺と呼ばれた、トラツグミに似た鳴き声の鳥』という意味合いの強い鵺です。
文中にもそんな感じを散りばめました。
それから、妖縁起だの妖名だの結局どっちなんだ、という話なのですが、妖縁起はあくまでも『修祓師の専門書 修祓師の呼び名』であり、妖名は広く一般に知れたあだ名、俗名のようなものです。
本来ならば妖縁起に載っている名前のみ明かせばいいのですが、まあ分かりにくいということと、もしかすると『幽現』本体もピンと来ない可能性があるので、妖名も併せて言わせています。
それから忘れそうになるかと思いますが、全部で五つの『幽現』討伐というのはあくまでも前座です。
長ったらしい前座で誠に申し訳ございませんが、以降出てくる敵キャラが鬼畜外道の方が多いので、先に世界観を話すためにもこの前座を用意させて頂きました。
次回の『幽現』についてもご期待ください、よろしくお願いします。




