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菖蒲夜叉  作者: 天宮 翡翠/花龍院 飴
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五話 残影

鬼さんこちら、手の鳴る方へ

「ちょっと、いいかい」

ひらり、と暖簾を上げて現れた長身の男に、番頭の男はギョッとした顔をする。

しどろもどろする番頭の気配を察してか、奥から年嵩の女が現れた。

「まあまあ、いらっしゃいまし」

稀に見る色白の男前に、女は僅かに頬を赤らめる。

黄土色の奇抜な髪は目立つが、流行りを熟知しているらしい身なりや、独り身の女なら放っておかない見目の良さは勿論、気性も荒い様子は無い。将来上客にしておいて、これほど損のない男も少ないだろう。

ここぞとばかりに女は媚びを売った。

「うちは可愛い子が沢山居ますよ、どうぞじっくり吟味なさってくださいまし」

金髪の男は僅かに考えたのち、女に微笑んだ。

「話の上手いやつは居るかい?」

「ええ、居りますよ。中々の美人で、唐花(からはな)と言うのですけど」

「じゃあ、その子で頼むよ」

かしこまりました、と女はにこやかに告げる。

このご時世、しかもあの妙な噂のために、遊女たちは気落ちしている。

売れることを嫌がる者も出始めた。

遊女が積極的でないのなら、積極的にさせればいい。

(頼んだよ唐花、お前が売れっ子になれば、うちの売り上げもあがる)

女は内心ほくそ笑みつつ、階段の方を示した。

「ご案内致します」


「ようこそ、おいでくんなましんした、唐花(からはな)でございんす。以後、ご贔屓に」

唐花、と名乗った遊女は、何処と無く他の遊女とは異なる、生まれついての気品、とも言うべき何かがあった。

「こな男前の相手が出来るなんて、わっちは幸せもんでありんすわね」

にこ、と儚げに笑んでみせる彼女に、幸酔は気だるげな顔で頭をガシガシと乱雑に掻く。

「あー……悪いが、そういうんじゃないんだ」

唐花は、キョトンとした顔をした。

「じゃあ、何をしに?」

幸酔は僅かに考えたのち、唐花を見透かして夜の花街を見る。

そうして、苦笑を零した。

「お話」

唐花は僅かに双眸を瞬き、次いでゲラゲラと大きな声で笑い出した。

「あはははは!いいね、貴方!これまでのクソッタレ共よりずっと面白いよ!!花魁は指名できないから、そこそこの美人とお話!あははは!」

気品はあるが我慢は無い、いっそ清々しいほど垢抜けた様子に、幸酔は何となく、数年前のことを思い出す。

そうして、唐花の前に腰を下ろした。

「ちょいとな、気になることがあるんだよ」

「何でありんしょ、貴方になら何でも話してあげんすわ」

笑いすぎて涙の浮かんだ目元を拭いつつ、唐花は幸酔を見る。

「遊女が消えている、って話さ」

唐花は小さく口を開け、次いでにやり、と笑んでみせた。

「任せてくんなまし」

そうして、遊女らしく荒れた手で、朱塗りの膳から徳利を持ち上げた。

◇ ◆ ◇

キン、と視界を掠めた、閃光の様なそれに、蓮は僅かに立ち止まった。

どうやら幸酔が式神を仕掛けたらしい、と分かると、僅かに考えた後、再び歩み出す。

盗聴器程度、とは言ったが、何も同時に全てを聞き分けられる訳では無い。

あの式神は観測器に近く、仕掛けた場所の大まかかな瘴気の気配の濃さを進行形で測定し、それを術の主である蓮が『鳳仙の玉眼』で捉える、というものだ。

配置された際には一度、先ほどのように閃光に似た気配が目に映る。

最も瘴気の濃い場所が、つまるところは『幽現』の居場所だ。

幸酔の居る『雪野屋(ゆきのや)』に配置した式神の気配を見るに、あまり気配は濃くない。

何処に配置したかにもよるが、確実に瘴気はある。何か居る事に違いはなかった。

蓮は辺りを見回し、先刻の幸酔の言葉を思い出す。

『被害がデカイのは、来栖屋(くるすや)穂室屋(ほむろや)ってとこだ。どっちも有名な店だ、すぐ分かるだろう』

何となく往来の男たちの声に耳を澄ませると、どうやら来栖屋と穂室屋にも花魁が居るらしい。有名な店だ、というのも頷けた。

売れ始めた遊女が相次いで失踪、そして吉原に古くから纏わり付く、『夜な夜な囀る鳥の声』。そして吉原に巣食うという正体不明の『幽現』。一連のことが無関係とは、蓮には思えない。

内側だけに配慮しても仕方がない、外側────つまり、客を装っている可能性も考え、蓮は来栖屋と穂室屋の入口に式神を配置することに決めた。

もしも花魁が瘴気の主であった場合、僅かでも最上階の気配まで拾えるよう、雪野屋のものより性能の良いものを懐から取り出す。

風向きと人気のない瞬間を判断し、蓮は人差し指と中指に挟んだ一枚の式神を、すれ違いざま、店の中へと飛ばした。

暖簾に大きく『来栖屋(くるすや)』と書かれたその店は、雪野屋よりも幾分か遠慮のない、ゴテゴテとした装飾の目立つ店だ。

大振りな花や可憐な蝶をふんだんにあしらった布飾りや、僅かに見える黄金の花瓶が、何となく成金趣味(なりきんしゅみ)を彷彿とさせた。

基本的に蓮の式神は、簡単な動きだけならば、術者が自ら行わなくとも動ける。

幸酔に渡したものは、彼自らが情報収集に出たため、逆に不自然だろうと判断し、手動のものにしておいたのだが。

式神は賢く、目に付かない場所へと、風に揺られたように張り付いた。

蓮は横目でそれを確認し、ここから僅かに離れているらしい穂室屋(ほむろや)へと足を向ける。

刹那────蓮はどん、と小さな衝撃を受けた。

そして、目の前で倒れかかった背の低い影を、咄嗟に支える。

「わっ」

短く驚いたような声を上げ、何が起こったか分からないように、その背の低い障害物は、丸い双眸を大きく見開いた。

抱えた大きな風呂敷を抱え、安物らしい着物に身を包んだそれは、まだ十にも満たないらしい見た目をした少女だ。

菫の花を象ったらしい簪一つで髪を器用に結い上げており、年相応に愛らしい見た目をしている。

蓮は少女────恐らくは禿(かむろ)を立たせてやると、にこり、と愛想良く笑んでみせた。

「お怪我はありませんか」

禿は穏やかな物腰に安堵したような顔をすると、頷く。

「は、はい。ありがとうございました……」

小さく会釈すると、禿は慌てたように蓮の横を通り過ぎて行った。

その瞬間、背筋を凍らせるような何かが、蓮の肌を撫でる。

勢いよく振り返った蓮の視界には、もう禿の姿は映らない。

人が多いわけではないと思うのだが、あの小柄さでは見つけにくいだけかもしれない。

「……まさか、ね」

蓮は小さく呟いて、白い(かんばせ)の半月を見上げた。

◇ ◆ ◇

徳利から注がれる酒に赤らみもせず、幸酔は平然と酒を呑み続けた。

そして、話し上手と噂の遊女、唐花から情報を聞き出していた。

「ずっと昔にね、同じようなことがあったんでありんす」

幸酔は片方の眉を上げ、訝しげな顔をする。

「売れ始めた遊女が消える、って話でありんすよ」

「……昔、ってのは?」

「幕府がまだ在った頃の話でありんす。といっても、わっちも又聞きの話なんでありんすがね」

江戸の中期から後期頃の話だ、と唐花は付け加えた。

「今の本日この時までぱったり無くなっていんしたから、すっかり忘れていんしたわ」

ケラケラ笑ってそういうと、唐花は横の髪を指にくるくると巻き付けて弄ぶ。

「でも、変でありんすねえ。何で、同じようなことを今更するんでありんしょう」

「……確かに、偶然、って方が自然だな」

でしょう、と唐花は興奮気味に言った。

幸酔は僅かに盃を傾けて、酒の水面を揺らす。

「……売れ始めた、とかいうことって、他の店の遊女でも分かるもんなのか」

「そりゃあ、此処(とりかご)ではお喋り以外に遊女が出来る娯楽(たのしみ)なんて、ありんせんからねぇ」

あっけらかんと言ってみせるが、幸酔には何となく、虚しげな風にもとれた。

僅かに黙った後、「そういえば」と、盃を傾ける。

「夜な夜な聞こえてくる鳥みたいな声、ってのは?」

ああ、と唐花は思い出したように両手を合わせ、ふと夜空の方を見た。

「でも今日はきっと、聞こえてきんせんね」

「……何故わかる?」

幸酔の問いに、唐花は荒れた指で、夜空に大きく浮かぶ半月を示す。

「これも又聞きのことなんでありんすが、半月と、それに近い形の月が浮かんでいる夜は、歌声が聞こえてこないのでありんす」

へえ、と幸酔は僅かに双眸を細めた。

今宵の月は、僅かに半月より細い。とすると、近日中にはその鳥の声とやらは聞こえないわけだ。

幸酔は暫し考えたのち、天井を指さす。

「なァ、ここの花魁ってどんな奴だ?」

「まあ!わっちを目の前にして違う女の話でありんすか!……いいでありんすが」

こほん、と唐花は小さく咳払いした。

そうして、慈愛の籠った笑みを浮かべて話し始める。

端月(はづき)の姐様はでありんすね、とっても優しくて、出来たお人でありんす。わっちらにも良くしてくれていんす」

「珍しいな、花魁ってなあ威張り散らしてるもんかと」

「来栖屋の桐雲(きりくも)なんて、その典型でありんす。あまりいい噂も聞きんせん」

噂、と幸酔は聞き返した。

唐花は誰が聞いているわけでもないだろうに、きょろきょろと周りを見回して、小さく潜めた声で告げる。

「桐雲は散茶(さんちゃ)から上がってきたんでありんすがね、とにかく客を沢山とって名を売って、桐雲の上客から店への打診で花魁になりんしたんでありんすよ」

ここでいう散茶、とは『散茶女郎(さんちゃじょろう)』のことを指し、吉原でも中ほどの位に位置する遊女を指す。

散茶は、通常飲む茶と違って、茶葉を袋に入れ、それを湯に入れて振る、という手順を踏まず、そのまま湯を足すだけで出来るため、『袋を振らずに済む』から『振らない』と転じた掛け言葉で、つまりは『客を断らない』

遊女なのである。

「とにかくわがままで、禿や新造にも当たりが強いって聞きんすから、吉原の嫌われ者と言いますれば来栖屋と桐雲でありんす」

幸酔はぴくり、と眉根を小さく寄せ、成程と頷いた。

禿(かむろ)新造(しんぞう)───つまりは付き人に当たりが強いということは、確かに嫌われやすいことだろう。つまりは、『孤立しやすい』。

「……なァ、お前が知ッてる奴で、消えた遊女が居たか?」

へ、と唐花は大きな双眸を瞬いたが、僅かに考え込むと、すぐに短く「あっ」と声を上げた。

「そう言いますれば、穂室屋の玉梅(たまうめ)花魁の新造で、初音(はつね)って子が居たんでありんすけど、この子もキツい性格で、ここのとこでは『もうすぐ花魁だ』ってはしゃいでいんしたねえ」

言った傍から消えちゃいましたけど、と唐花は面白そうに付け足す。

だが幸酔はやはりか、と冷や汗を描いた。

───今回の『幽現』、やはり馬鹿では無かった。

攫う人間を熟知していて、基本的に居なくなったところで誰か心配するような人間がいない遊女を狙っている。

もちろんその消えた遊女の客にとっては嘆かわしいことだが、所詮は遊びだ。

本気で買い取ろうとしていた人間ならまだしも、大抵は違う女を探すような、薄っぺらい関係の持ち主だろう。

やはりこの『幽現』は、花魁の居る雪野屋、来栖屋、穂室屋の遊女について知っている人間、ということになるのか。

「……最後にひとつ、聞いていいか」

横目に時間測りの蝋燭の短さを見つつ、幸酔は唐花に問う。

彼女は名残惜しげに儚く笑んで、「なんなりと」と言った。

「この店で、被害はあったか」

唐花は再びキョトン、とした顔をしたが、次いで首を横に降った。「ありんせん」と。

幸酔は頷くと、盃を朱塗りの膳に置いて立ち上がる。

「色々と聞いて悪かったな、まァ……何だ。お前が幸せになるのを願ってるよ」

ガシガシと乱雑に頭を掻くと、幸酔は彼女に背を向けた。

唐花は驚いたような顔をし、次いで微笑んだ。

「また、いらしてくんなましえ。こなに楽しかったのは、久々でありんすから」

振り返りもせず、幸酔は籠の中の鳥の言葉を、受け取る。

麗しい顏を持った彼女が、もし平民の家に生まれていたら。ほんの少し、貧しさが軽ければ。きっと今頃、良い男と縁が結ばれていただろうに。

(───何を哀れんでるんだ。此処は、そんな女しか居ねェじャねェか)

幸酔は無益な考えを振り払い、襖を開けた。

一刻を経て、ますます闇は濃くなっている。

そうして一度も振り返らずに、幸酔は唐花という遊女と、永遠に別れた。

この店からしてきた瘴気とは全く異なる女の残り香は、重苦しいそれでは無く、まるで花の様なそれだった。

気だるげに階段を降り、釣りも要求せずに幸酔は店を出る。

────数年前、同じ場所で拾った弟子であり、今の相棒である女の顔を思い出し、幸酔は僅かに、眉根を寄せた。

「あの野郎、どこに居るんだか……」

雑念を振り払い、少しばかり遊び人が増えた吉原の往来を、幸酔は同行者を探して歩み出した。

◇ ◆ ◇

「なぁなぁ、うちらもう帰ってええんと違う?」

明るい声で、最早茶をすするばかりの待ち時間に飽きたらしい茨は、そう言った。

菖蒲は僅かに考え、「さあな」と答える。

「まあ、合図は無かったし、今夜は何も無いだろうけど」

「せやろぉ?お留守番ほどつまらんこともないわぁ」

頬杖をついて口を尖らせる茨だったが、菖蒲

なんとなく、この辺りに来てから終始感じる『視線』に気がいって、落ち着かなかった。

茨が分かっているのかは不明だが、いずれにせよ、今夜の調査で修祓師が来たと、『幽現』が理解した可能性は高い。

「……まだ夜は明けない。何か仕掛けてくることがあるかも─────」

「いや、下手すると直近では動きもしないな」

突然現れた幸酔に、菖蒲はぎょっとした。

茨は、といえば慣れているのか、あまり驚いた様子はない。

「蓮さん、どないしたん?」

「見張りさ、見張り。俺はお前らに報告」

幸酔はつまらなそうにそう言うと、窓を透かして空を指さした。

「古今吉原に伝わる一連の噂の主犯は、恐らく同じだろう。……ただ、そいつはどうも自身に『縛り』を課しているらしい」

あれま、と茨は小さく返す。

その声には、少なからず感嘆の響きも籠っていた。

『縛り』とは、文字通り行動を制限するものだが、『幽現』が自らに課すものであるため、高度な技と強い理性を得ている証左でもある。逆に言えば、『縛り』があるからこそ、上手く逃れられてきたとも言える。

「つまり、遊女失踪の件も、無差別では無かったわけか」

菖蒲の言葉に、幸酔は頷いた。

「消えたやつは、いずれも遊女としても人間としても『孤立した』女ばかりだった。仲間内でもよく思われていないんだ、天罰だ何だといって流される」

「でも、噂ではひと月に一度は消えてまうんやろ?そないにほいほいやっとったら、さすがに商売上がったりやわ」

そこだ、と幸酔は指を鳴らす。

「店側が黙認しているのか、或いは『何が起こっているのか分かっていない』のか……いずれにせよ、吉原に巣食っている奴は、意外と頭が回るようだぞ」

菖蒲は、唇に折り曲げた人差し指を押し当て、考えた。

「……そういや言い忘れてたが、半月の夜とその前後を除いて、吉原に夜な夜な響く鳥の声、って噂があってな。何時から、ってのは分からねぇが、無関係なわけはねぇな」

「もしかしいひんでも、それが『縛り』?」

ああ、と幸酔が頷く。

茨は納得したように微笑むと、顎に人差し指を当て、小首を傾げた。

「なんで半月は鳴かへんのかしら、その鳥はん」

菖蒲は僅かに顔を上げた。

「……話を変えて悪いんだが、攫われた遊女は同じ店の所属だったのか?」

幸酔は菖蒲の問いを即座に否定し、指を三本立てる。

「大抵は花魁の居る三つの店が被害にあっていたが……意外とまばらで一貫性は無いな。結局のところ、消えた遊女が嫌われ者だった、程度の共通点だ」

「つまり、何処の店にでも立ち入れる立場、ってことか」

とすると、と菖蒲は内心で呟いた。

犯人は遊女ではない。というより、女である可能性が低い。

もちろん正面から堂々と入っていくわけではないだろうが、客の相手をしなければならない以上、遊女であっては身動きが取れない。

男に化けられるのであれば話は別だが、そもそも『幽現』は人間だった頃の姿に殉じたものにしか擬態できない。

先の『青坊主』という妖名だった僧侶が良い例だ。

であれば、客を装った男ということになるのだろうが、資金源はどこから来るというのだろう。

菖蒲は盛大に眉をひそめた。

「一応花魁の居る店にはお前の連れが……盗聴器?だかなんだかを仕込んでたが」

盗聴器、と小さく呟き返して、菖蒲はすぐに合点がいった。

恐らくは蓮が本来属している鴻上家が持つ瘴気の探知機だろう、と。

鴻上家はその特異な目を利用した、自我のない式神を多く使役している。

逆に、蓮や菖蒲の使う刀の形をした式神は、姫鶴伝来の特殊技能だ。姫鶴一門が使用する式神として自我があるものは、『刀神(かたながみ)』と呼び習わされるそれのみだった。

「それから一応、端女郎の店にも入れるように言っといた。彼処は特に酷いからな、消えたところで気づかれないこともある」

菖蒲は双眸を二、三度瞬き、次いで窓を透かして夜空へと視線を移す。

「半月の夜には鳴かない怪鳥に、消える遊女か……」

『幽現』が左右されるのは、人間だった頃の記憶。そして自らに課せた縛り。

本来の姿を隠すための嘘もまた、夜を憎む寸前の姿─────つまりは人間の姿だ。

だが、もう一つ彼らを揺さぶるのは、与えられた妖名。

接触した『真祖』によって与えられ、たいをあらわすその名前さえ分かれば、『幽現』は恐れるようなものでは無い。

妖名を知られた『幽現』は、手の内と弱点を修祓師に握られる。つまりは手の上で踊らされ、死ぬ命運しか待っていないのだ。

今回の『幽現』で菖蒲が引っかかりを覚えたのは、その擬態能力の高さ。

わざわざ蓮が回りくどいやり方をしているところを聞くと、そうでもしなければ尻尾を掴めない、と言われている気になった。

「そういえば、誰に聞いたん?その情報」

茨が幸酔にそう尋ねると、彼は視線を泳がせる。

その様に、茨は何があったのか察知したらしく、頬を膨らませた。

「んもう、うちが居いひんさかいって浮気やろか?」

「ンだそりャ……」

そう言うと、幸酔はガシガシと乱雑に頭を掻いた。

「あー、とにかく!今夜は一旦引き上げようぜ、相手を見くびッてた」

菖蒲は逡巡の後、頷いて立ち上がる。

「アイツ、呼んでくる」

「場所分かんのかよ?」

大体、と返して、菖蒲は人気の無くなった茶屋から出ていった。

幸酔はその背中を見届けた後、茨に問いかける。

「で、実際どうなンだよ、鳥の声ッてやつは。化けモンのことを知ッてた、つーことは、聞いてんじャねェのか?」

茨は両手でついていた頬杖を解き、「どうやろね」とため息をこぼした。

「んー、やけど、あら鳥の声っちゅうより……」


「人の歌声、って感じに聞こえたんやけどねぇ」


端女郎(はしじょろう)の方も当たッてくれ、最底辺の店だから、ボロッちさで一目瞭然さ』

幸酔の言葉を反芻し、蓮は吉原も外れに設けられた、それまでとは明らかに異なる粗末な店にも一つ、式神を滑り込ませた。

それを済ませた後は吉原の中ほどまで戻り、どの店かも分からないものの屋根上に居座って、瘴気の変動を見続けた。

結論から言えば、全ての式神が同程度の瘴気を観測し続けている。

つまり『手掛かりは無し』であった。

菖蒲にどやされるか、と内心で小さく笑ったが、ふと、奇妙な霞が視界を過ぎる。

(これは確か……来栖屋に仕掛けた式神の反応か)

来栖屋の瘴気は、最初に直で感じたおぞましい花の香りにも似た瘴気の他にも、多種多様な瘴気が入り交じっていた。

まさに、不満の溜まり場とでも言うべき劣悪な環境だ。取り込まれている人間が居てもおかしくはない。

トン、と傍らでひどく小さな音がした。

気配で分かったが、菖蒲らしかった。

視線を向けもしない蓮に慣れているのか、菖蒲は特に咎めもせず、彼に話しかける。

「動きは」

「あり過ぎて、何とも言えませんね。今一瞬、瘴気が揺れましたが」

そうか、とだけ菖蒲は返した。

逡巡の後、人の往来を眺めつつ再び蓮に問う。

「威吹鬼の話では、花魁のいる店の被害が多いらしい。失踪した遊女は嫌われ者だという共通点のみ。……出入り可能という点で、客の可能性はあるのか」

「有り得るとは思いますが、であれば余程の金持ちですね。店側にも露見しやすいでしょう」

確かに、男ならば堂々と正面から入り、番頭や女将に見られていて当然だ。

多くの遊女に会っていたとなれば、自然に特定される。

「……いずれにせよ、今のところはお手上げですね」

「威吹鬼が引き上げようと言ってる。一旦立て直そう」

承知しました、と言って、蓮は立ち上がった。

やはりあの不吉な噂もあってか、吉原を歩く男は少ない。

時刻が亥の刻(午後9時頃)間近で人もまばらになったなら、今夜は派手な動きをしないだろう。

菖蒲と蓮は、身軽に出入口の門まで駆け出した。

ふと鼓膜の傍らで、菖蒲は鳥の声にも似た何かを、聞き取った気がした。


ぺり、と札が白い手に剥がされる。

本来誰も気にもとめない、階段の裏側の木目。

白い手の主は僅かに口角を上げ、だらりと垂れる人型の札に、小さく話しかけた。

「この程度で、私は捕まえられないわよ」

瞳孔が鋭く、細まった。

客もまばらになり始めた朝方。

自然と力の弱まった妖は、だが微塵もそのおぞましい花色の瘴気を薄ませず、いっそ艶やかに微笑む。

そうして、札を手のひらの中で握り潰し、着物を引き摺って階段を上がる。

薄紅色の唇は、愉しげに歌い始めていた。

その小さな歌声はどこか、哀愁を唄う鳥の声にも、似ていた。


ぴたり、と蓮の歩む足が止まる。

一瞬濃くなったかと思えば、途端にフッと視界から消えた霞に、蓮はゆっくりと瞬きを一度して、『鳳仙の玉眼』を解いた。

立ち止まった気配を感じ、菖蒲が何事かと振り向く。

「────来栖屋の式神が、見つかりました」

菖蒲は驚いたように小さく目を見開いた。

「まさか、遊女が?」

「客が行くような場所には配置していません。恐らくは、『幽現』本体かと」

「……威吹鬼は半月の夜とその直近では動かない、という縛りを設けているようだ、と言っていたが」

菖蒲は僅かに考え込み、吉原の往来へと視線を向けた。

石畳の続く長い道。隣接する女の身売りを稼ぎとした店。終始渦巻くおぞましくも芳しい瘴気が肌を撫でる、文明の夜────吉原遊郭。

そして、微かに聞こえた何かの声。

遊女が脅え、半月の頃にだけ姿を表さない『幽現』。

「……お前、他に何処へ式神を入れた?」

蓮は花魁のいる店の名と、最後に端女郎の店を上げた。

「入れ替わりが激しく、遊女が消えても店は気にもとめないとか」

蓮は僅かに、強まってきた瘴気の気配に顔を顰める。『鳳仙の玉眼』も反応し、気を抜くと無意識に発動するほどだ。

そして、本当に微かに、鳥の声にも聞き間違うほどの、繊細で高い歌声を、受け取った。

次いで菖蒲に視線を向ければ、意志の硬さがより強くなったような、凛とした視線が吉原を射抜く。


「奴の名前が、分かった」

お待たせしました!

次回こそ戦います!!長々と推理もの以下の代物を続けてすみませんでした……。

省けるところもあるとは思いますが、そこらへんは割愛してください。

幽現の正体については、博識の方には一瞬でバレるレベルのヒントを出しまくってるんですけどね。

表現が似たり寄ったりになってきているので勉強しようと思います……。

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