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菖蒲夜叉  作者: 天宮 翡翠/花龍院 飴
4/9

四話 夜闇

花の色、命の色。欲を喰らわば、憎悪まで。

あまり眠ろうとしないのは、何も意地ではない。

神経を研ぎ澄ませず、無防備なところがなんとなく落ち着かなくて嫌だというのが、まず一つ。

それからもう一つは─────。


ああ、またこの夢だ。

僕はそう、誰にも聞こえない心の声で呟く。

何もかもを打ちつけてやまない雨の音、冷えきっていく小さな躰。

それが抱える、死体の母親。

去りゆく冷たい目の青年。

必死で引き止めるように、必死に縋るように。

兄上、と───実際のところ聞こえたかどうかさえ分からない声で、青年を呼ぶ子供。

もう、六年も前の話だ。

こんなものを六年間も見続けて、それでどうした。

もう何も、戻ってなんて来ないのに。

僕が弱くて脆かったから、心優しいだけの人間だったから、何もかも失った。

これは罰だ。

全部掬い上げて見せると傲慢にも信じていた、昔日の僕自身への。

そして、強がっているだけで何も変わっていない、今の僕自身への────。


パチリ、と菖蒲は双眸を押し上げた。

菖蒲がしばらくジッと布団の中に居ると、頭上から声が降ってくる。

「おや、ようやくお目覚めですか、若様」

笑い混じりのその声に、僕は小さく双眸を瞬いて、ゆっくりと起き上がった。

昨日の記憶が無いが、大方不眠不休の無茶がたたって寝落ちたのだろう。よくあることだ。

「朝餉が出来ておりますよ、広間でお待ちしています」

菖蒲はいつの間にやら傍に置かれていた着物を見、なんとなくぼやけた頭で頷く。

「お話したいことも出来ましたから、その寝ぼけ顔もどうにか為さってきて下さいね」

蓮はそう言うと、退室していった。

残された菖蒲はと言うと、僅かに船を漕ぎつつ、寝間着からゆっくりと着替え始めたのだった。

◇ ◆ ◇

「伍大族が、限界?」

菖蒲は茶碗を持ちつつ、小首を傾げる。

蓮はその問い返しに頷いた。

「ええ、深刻な後継者不足と、何より地方も活発化しているゆえか、担当区域から手が離せないのだそうで」

何故か蓮の後ろで楓が恐ろしい顔をしていたが、菖蒲はどうせいつもの事だと流す。

「……そうか、なら、やるべき事はやってるんだな」

「左様です」

菖蒲はホッとしたように緊張を緩めると、茶碗を置いた。

「ならいい。それならばそうと先に言え、お前、分かってて言わなかっただろう。そういう気遣いは要らない」

その言葉にピタリ、と楓の手が止まる。

先程から随分と挙動不審だが、何かあったのだろうか。

菖蒲は眦を吊り上げた。

だが、蓮は特に意に介していないのか気づいていないのか、平然とした顔をしている。

「若様のようにとにかく正直な方ならば、変に気を揉まれるかとおもいまして」

その言葉に、更に楓の動きがギクシャクした。

蓮が随分と晴れやかな笑顔をするから何事かと思うが、菖蒲は一々気にすると身体が持たないことを知っているので、さらりと流す。

「僕をなんだと思ってるんだ……そこまで繊細な神経をしていて嫡子は務まらない」

「ええ、存じておりますとも、私は」

とにかく、と菖蒲は湯呑みを傾け、言葉を継いだ。

「少しでも多く手が欲しいのも事実だ。できる限りで構わないが、『真祖』が本格的に動き出してしまう前に、伍大族とも面識を持っておきたい」

「では、楓にお願いしましょう。どうせご当主と連絡のひとつふたつ、取っているのでしょうから」

蓮はそう言うと正座したまま背後に振り返り、「ですよね」と微笑んだ。

すると、思い切り引きつってはいたが、めずらしく楓が蓮に向かって笑みを返した。

「お任せ、ください」

ありがとう、と菖蒲は頷き、立ち上がる。

「あの二人、今日は来るのか」

「ええ、そう聞いておりますよ。『幽現』の件で」

「分かった、じゃあそれまでは自室に居るから、何かあったら呼べ」

かしこまりました、と蓮は微笑みを浮かべて、菖蒲の退室を見送った。

そうして気配が無くなったところで、その清々しい笑みを楓に向ける。

「鳥頭」

「やかましいわ!!貴様こそ腐り過ぎた性根を見直せ、戯け者!!」

楓は怒る歩調で奥へと姿を消した。

後に残った蓮は、相変わらずからかい甲斐のある女だと、小さく笑った。

◇ ◆ ◇

「物の見事に、縄張り意識が働いてやがる」

姫鶴邸にやってきて早々、幸酔はそうぼやいた。

下駄を脱ぎつつしかめっ面をする彼に、菖蒲は目を瞬く。

「……『幽現(ゆうげん)』のことか」

「それ以外に何があんだよ」

幸酔は肩を畳んだ紙らしきもので叩き、獅子のような金髪を揺らした。

彼の後に姫鶴邸に入ってきた茨は、相変わらず緊張感の無い声で付け足す。

「それも、坊には目新しいとこばっかやで、期待しとってや」

その言葉に、菖蒲は余計に小首を傾げた。


四人だけの会議の中心に、彼らは幸酔が持参した東京全体の地図を広げた。

ふざけた花形の目印で、五つの『幽現』の場所を示したそれに、蓮は「成程」と呟く。

「確かに、見事な別れ方ですね」

おおよそ東西南北それぞれと、中心部に開いた小さな花を、蓮は指でなぞる。

開口一番不平を募った幸酔も、頷いた。

「強力な『幽現』つっても、序列はある。それに、わざわざ全員で出向く必要性の無い妖、ってのも中には居てな。まあ難しいところだが……被害が多い、あるいは確実に直近で姿を現す『幽現』から順に狩る、ってことにしたいんだが、どうだ?」

菖蒲はその言葉に、僅かに小首を傾げる。

「分かるものなのか、そういう情報って」

その問いは、幸酔が視線を向けた茨が答えた。

「ひとつだけ、動きがえらい活発なやつがおるのよ」

茨は小さく身を乗り出すと、北東方面のひとつを指さした。

白い指の指すところの文字を見、耳慣れない言葉を菖蒲は呼んだ。

「千束郷……?」

北寄りのその場所は、周囲に『浅草寺』や『日本堤』の文字もある。

蓮は僅かに眉を吊り上げたが、次の瞬間には皮肉るような微笑みを浮かべた。

「随分遠そうだな……何故ここに……」

菖蒲のその言葉に、茨は双眸を瞬いたが、にっこりと満面の笑みを向ける。

「そらあ、瘴気の溜まりやすいところやさかいね。あんさんらのとこにもあったやろ?」

は、と菖蒲は困惑気味に小首を傾げた。

すると横から、蓮が補足する。

「東京でいう島原ですよ」

島原、と鸚鵡返しに呟いた菖蒲は、驚いたような顔の後にうんざりした表情を浮かべ、額を押さえた。

「遊郭か……ということは、これがあの吉原……」

ご名答、と幸酔は指を鳴らす。

「分かりやすいだろ、こんなところに瘴気とは。……おい、なんだよその顔」

菖蒲の疑うような顔が、『何で知ってるんだ』とでも言いたげな様子に、茨は小さく笑いつつ助け舟を出した。

「なんも、酒呑が『お得意はん』ってわけちゃうさかい、安心してや。むしろ、これの存在を知っとったんはうちの方」

その言葉に、幸酔と蓮の空気が硬くなった。

さすがに察しがいい、と茨は内心苦笑する。

特に追求しようと菖蒲がしてこないため、茨も語りはしなかった。

「じゃあひとまず、此処に……って、お前はそもそも入れるのか?」

「そら坊もやろ」

茨は遊郭に入れず、菖蒲はまだ少年だ。

すると、幸酔が声を上げた。

「なら、俺とそこの兄ちゃん……蓮、だっけか?適当に俺たちで調査するさ」

蓮は虚をつかれたような顔をしたが、すぐに頷いた。

「その方が効率がいいですしね」

案外さらりと承諾した蓮に、菖蒲は感情の入り交じった視線を向ける。

面白そうに笑いつつ、蓮は「なんですか」と尋ねた。

「いや、その……不満があるなら、羽目を外さない程度に許可するけど……」

「何の話ですか」

この会話には、さすがの茨と幸酔も噴き出した。

成程、少年というのはなまじ純粋なだけに、邪推が過ぎることもあるのか、と。

噛み合っているような、いないような、おかしな調子の御曹司たちに、幸酔は咳払いをした。

「東京のことについては任せてもらっていい。『幽現』の情報についても共有したい。兎にも角にも手が足りないんだ。あんまり余韻に浸ってる暇はねぇからな。特にそっちのボンボン」

そう言われた菖蒲は、ムッと頬を膨らませる。

「余韻に浸った覚えはないぞ」

「どの口がいいやがるんだか……ま、留守番共は期待して待ってな」

ほな、と茨は両手を合わせた。

「二人はお洒落していかなね」

何となく妙な気配を感じ取った幸酔と蓮は、僅かに視線を見合せる。

一方、菖蒲は東京で最初の任務が遊郭で、その上女性と留守番にされるという事実に、僅かな不安を覚えた。

◇ ◆ ◇

幸酔と蓮、茨と菖蒲に別れて捜査を行うこととなった、『幽現』が一柱。

東京府北東方面に根城を築き、数多の犠牲者を出している、という情報に違わず、近頃この千束郷や浅草寺一帯では、不吉な噂と空気が漂っていた。


「あなた、ご存知かしら。最近、遊女が随分と消えているんですって」

そう切り出したのは、浅草寺を歩く女性だった。西洋風の着物が、彼女がそれなりに高い地位の女性であると物語っている。

「病か何かじゃありませんの?ほら、あるいは足抜けとか」

赤い唇の女が、濃い化粧の施された顔を横に振る。

話し相手の幾分か若い女は、興味津々の顔であった。

「なんでもそうじゃないらしいのよ。というのもね、その消えているって遊女たちは、近頃お客の増えた子ばかりで、噂では『祟りだ』なんて言われてるのよ」

まあ、と若い女は悲鳴とも感嘆の声ともつかないおかしな声を上げる。

「でも、一体誰の祟りだっていうんです?」

赤い唇の女は、わずかに片方の口角を吊り上げて、随分面白そうに言った。

「そりゃあ貴方、きっと何処ぞの花魁か同僚のそれに決まってるわ。だってそうでしょ?自分の客を取られたか、あるいは大きな口をきかれて、我慢ならなかった、って方がそれらしいじゃない」

確かに、と若い女は口元を押さえた。

「恨みつらみが祟っているけれど、当人はもう死んでいる、なんて、如何にもですわね」

小さな高笑いを上げながら、面白半分にそう噂話に花を咲かせる女性の横を、柔らかな黒髪をハイカラに結い上げた女が通り過ぎる。

扇子を口元に当て、美しい着物に身を包む様は、上流階級の中でも一等目立つであろう耽美さを彼女に与えたが、不思議と誰も、彼女に見向きもしなかった。

まるで、見えていないように。

女は上機嫌に鼻歌を鳴らしながら歩を進め、ふと、空を見上げた。

初夏の清々しい晴れ方をする空には、穢れた地上を隅々まで照らす太陽が浮かび、この上なく人の営みを支える。

女は皮肉るような微笑みを浮かべると、すぐさま興味を無くしたように、また歩き出した。

そうして、雑踏の中に紛れ、消えていった。


遊女失踪の一件で騒ぎようは、むしろ吉原全体の方が大きかった。

店は、ようやく売れ始めて収入が増えそうだ、とほくそ笑んでいた隙に売れっ子の遊女に姿を消され、遊女たちも自分がどんな目にあうかも分からないと、怯えきっている。

だが、ひとまずのところ収まって見えているのは、この明治に艶やかな彩りを加えた、新吉原の花魁たちであった。

今のところ三人の花魁が、三者三様にその美しい容姿と知性とを使って、西洋色に染まりつつある日本の面影を新吉原に浮かべている。

中でも最も人気が高いのは、少々他の二人よりは年かさだが、それを物ともしない、夜の良く似合う花魁────端月、と号す女であった。

ぱっちりと開いた大きな双眸は、微笑んでいるゆえにいつもふんわりと細まり、桜色をした唇と控えめな化粧だけでも、十分すぎるほどに彼女は美しかった。

───吉原を見渡せるような一室で、傍付きの禿が、牡丹の咲いた着物を引っ張る。

着物を引っ張られた端月花魁は、にこり、と笑んでみせた。

「どうしたのかしら、もみじ」

目元が僅かに赤いのは、化粧のためだけではないだろう。小さな簪一つだけをさした禿が、控えめな声で尋ねる。

「花魁は、怖くないの?」

「……それは、あの噂のことかしら。お前は恐ろしいの、もみじ」

「わっちは、怖いよ」

そう、と端月花魁はもみじの頬を撫でた。

ふんわりとした声で、禿を慰める。

「なら、もみじのところへやって来たら私が追い払ってあげましょうね。この端月花魁に任せなさい」

本当、ともみじは優しい花魁を見上げた。

微笑みつつ頷く花魁に、彼女は小さく抱きついた。

「ありがとう、花魁。わっち、花魁が居れば怖くない」

あら、と端月花魁は微笑んだ。

そうしてもみじの小さな頭を、そっと撫でる。

「嬉しいことを言ってくれるわね。……そう、大丈夫ですよ。だって祟りなんて、あるはずもないのだから」

端月花魁は小さくその双眸を細めると、儚げに笑んでみせた。

太陽が未だ空の上で、我が物顔に地上を照らす頃、逃げるどころか出られもしない檻の中で、妖は舌なめずりをしている。

誰も、誰も、女は逃げない。

何を急ぐことがあろうか、と。

じっくりじっくり、全て喰ろうてしまえばいい。


妖殺し共なぞに、殺されはしない。

妖の花のような気配が、吉原に流れる風に乗って、ひとり外へと駆け出した。

◇ ◆ ◇

短い会議を終えた後、幸酔と蓮が茨によって何処かへ連れていかれ────『おめかし』だかなんだかと言っていたか───、室内にひとり残って地図と睨み合いをしていた菖蒲に声をかけたのは、楓だった。

「若様、お茶が入りました。暫しお休みになっては?」

菖蒲は小さく双眸を瞬き、西洋製の時計の針を見、既に申刻(午後三時頃)を回っている様子に、小さくため息をこぼす。

「ああ、そうか……すっかり忘れてたな……うん、ありがとう楓」

いえいえ、と楓は艶やかに微笑むと、優美な仕草で茶と菓子を菖蒲の傍に置いた。

そしてふと、菖蒲がそれまで見ていた東京の地図に、じっと視線を注ぐ。

「楓は、東京に来てどれくらい経つ?」

その問いに、楓は小さく考え込んだ。

「御当主様にお供して参りましたので、凡そ一年、といったところでございましょうか」

楓はそう言うと、地図に開いた五つの花を指さした。

「これは瘴気の濃い場所を、示しているのでしょうか?」

「ああ、あの二人が調べてきてくれた、『幽現』の大まかな位置だ。よく分かったな」

菖蒲が感嘆の声を上げると、楓は照れくさそうに頬を人差し指で掻く。

「有り難きお言葉でございます。……御当主様のご命令で、東京一帯の瘴気の分布図を作成していたのですが……変動があまりに多く、断念せざるを得ませんでしたので」

その言葉に、菖蒲は得心したように双眸を見開いた。

そして、湯呑みを人差し指でなぞる。

「東京府に近づくごとに、なんだか空気そのものが殺気立っているような、そんなおぞましさを感じた。……狭く限られた場所に、これだけの妖がひしめいていれば、無理もない」

ええ、と楓は頷いた。

「此度の妖、これまでとは何やら違う気配が致します。……私も『幽現』を何体か祓いましたが、やはり都のそれとは格が違います」

恐らく、と楓が言いかけたところで、菖蒲が右手を上げて制す。

「“真祖と接触している”だろう?これまで殆どその存在が確認されてこなかった、『幽現』の青位、紫位か……厄介だな」

現在の修祓師の“祓う”対象は、その殆どが『幽現』だ。

基本的に、『伍大族』は地方に散らばって勢力図を変動させないよう尽力している。

その際、祓うにしても修祓師と『幽現』との実力が釣り合う、あるいは修祓師側が勝っていなければ、単なる特攻に過ぎない。

ゆえに発見した『幽現』の能力を段階で評価し、その段階評価に釣り合った実力を持つ修祓師を派遣することが、基本中の基本だ。

位は『紫位(しい)』『青位(せいい)』『赤位(せきい)』『黄位(きい)』『白位(はくい)』『黒位(こくい)』の順に高く、殆どは赤位止まりだが、稀に青位の『幽現』が出現し、そういう状況にかぎって、巡回などを基本的な業務とした、そこまで実力の無い修祓師が発見してしまう。結局、人員不足と能力そのものの衰退が止まらないのは、これが理由だった。「痛い皮肉だな……たとえ青位や紫位の『幽現』が出てきても、それに対応出来る人間そのものが圧倒的に少ない。だから、妖もどんどん強くなる……『真祖』も、だてに憎悪を募らせてはいないか」

疲れたようにそういう菖蒲に、楓は小さく苦笑を向けた。

「ああ、そうそう……その『幽現』を今夜から探すのでしたね」

菖蒲は菓子の豆大福を切り分けつつ、頷く。

「なんでも噂になっているらしい。随分派手に動くものだな、正直驚いたよ」

器用に四つほどに切り分けた豆大福を、菖蒲は一つずつ頬張り始めた。

なめらかなこし餡と塩気のある豆、両者を包み込む皮の絶妙な厚さが、なんとも言えない美味しさだ。東京にもこんな菓子を作れる店があったとは、菖蒲はこちらにも小さく驚いた。

「御用の際は何時でもお申し付けくださいね、若様あるところ『鶴翼(かくよく)』あり、でございます。して、初手は如何に……」

はた、と楓は北東方面に目印らしく、花の中央に針が刺されたところを見る。

その目印の周辺の文字を素早く目で追い、次の瞬間には、まるで期待していたものと見当違いのものを渡され、それが随分酷い代物だったような、なんとも言えない苦々しい顔を浮かべた。

相変わらず楓はおかしな顔をするのが上手いな、と思いつつ、菖蒲も疲れたような顔をする。

「吉原だよ。売れ始めた遊女が次々と失踪しているらしい。三週間に一度は消えるらしいから、随分な頻度だ。確かに、ただの足抜けではないだろうな」

そう言って、菖蒲は小さく大福をつついた。

楓は随分低く小さな声で、問うた。

「若様は……」

「女子供が入るようなところじゃないから、僕は吉原まで行かずに近くの茶屋で待機、ってことに決まったけど……」

困惑気味にそう言って、菖蒲は二口目を頬張る。

「すると、幸酔殿が調査をなさるのですね……」

ホッと楓が胸を撫で下ろしたのもつかの間、正直で純粋な菖蒲の返しで、彼女の形相は再び鬼のそれへと転じた。

「いや、あいつもだぞ?一人は効率が悪い、とかで。今は……『おめかし』?とやらをしてる」

ピシッ、と硬直し、器用に動きを止めた楓は、菖蒲が三口目を頬張って呑み込んだ後、その濡羽色の瞳を、恐ろしいまでに据わらせていた。

「若様」

急に改まったように呼びかけられ、菖蒲も思わずかしこまる。

楓にはどこか、有無を言わせない雰囲気があった。

「やはりあの男は絞めましょう」

菖蒲はその言葉に小さく沈黙し、小首を傾げた。

「…………今度は何の喧嘩だ?」

的外れなことを言った気はしたが、菖蒲は気にしたら負けだと自分に言い聞かせ、従者たちの龍虎相対ぶりに、何故か安堵した。

◇ ◆ ◇

蓮と幸酔が吉原に向かう頃、菖蒲と茨は、見晴らしの良い茶屋の二階で待機していた。

吉原から少し離れているとはいえ、菖蒲や茨のように、常人以上の身体能力を有した人間ならば、吉原まで行くのに十秒とかからない。

有事の際、蓮か幸酔が出す合図で『幽現』の位置さえ分かれば、どうということはなかった。

危惧しているのはむしろ、『幽現』の実力だ。

楓から聞いた限りの話では、東京のそれと地方では格が違うという。

確かに東京付近の『幽現』と接触した際も、随分力をつけたものだと思ったが、あれ以上のものばかりが居るとなると、少し厄介だった。

「なあにややこしい顔してるん?」

気の抜けた茨の声に、菖蒲は呆れたような視線を向ける。

「どれだけ食べるつもりなんだよ……少しは緊張感とか無いのか」

「これでもえらい怯えとるんやで?お腹すいてまうくらいには」

にこ、と微笑むと、茨は餡蜜の白玉を掬った。

「それに強いかどないかなんて、そこまで問題ちゃうやん?」

え、と菖蒲は双眸を瞬く。

美味そうに白玉を頬張った茨は、ふっ、と夜の浅草を見つめた。

「うちはただ、うちがしたいようにするだけ。坊に協力するんも、連中を祓うんも」

茨はそう言うと、なんでもないように再び餡蜜を食い進める。

菖蒲はなんとも言えずに「そうか」とだけ返し、夜の東京を見下ろした。

最も目に見えたのは、明るい、ということ。

夏にさしかかって日が長くなりつつある、というのはあるが、それでも辺りは何となく薄暗い。

にも関わらず、女性が道を歩いていることは珍しくないし、歌舞伎座などに入っていく姿も見える。出店も撤収する気配はなかった。

文明開化が与えたのは、闇の時間を無くす、人工的な『光』。

瓦斯灯、なるそれは、夜でも昼のように明るくなるという代物で、確かに往来を照らす光は、提灯のそれよりずっと強かった。

故郷とは少しばかり異なる風情が、菖蒲には新鮮に映る。

ふと、菖蒲は甘味の堪能に勤しむ茨に尋ねた。

「なあ、吉原って、行って何をするんだ?」

その言葉に、ピタリ、と茨の手が止まる。

次いで『何を言っているんだ』と言わんばかりに双眸を大きく見開いて菖蒲の方を見た。

「……何だよ、その顔」

「いや、だって。島原も吉原も、知っとったさかい。てっきり分かっとるのかと……」

「名前は、まあ知ってる。けど行く用事がそもそも無いし、蓮から聞いた話では『美女がお茶を客に淹れたり話をしたりするところ』って言うから、なんでわざわざ行くのかと……」

間違ってはいないが、と茨は噴き出しかけたのをこらえた。

ではあの、『我慢しなくてもいい』というのは、美女に会いに行ってお茶を淹れてもらうこと、に変換されていたというのか。

蓮も蓮で、健全な仕事になる前の段階をすっ飛ばすとは、教える気などハナからないようだ。

確かにそれだけ聞けば、一門の人間である楓とやらを見慣れた菖蒲からすれば、理解し難いに違いない。

色々と察した上で、茨は小さく咳払いをし、得意の満面の笑みで嘘をついた。

「あんな、坊。美女を侮ったらあかんえ。ほんまに東京を守っとんのは、あの人たちなんよ」

主に、欲求方面で。

茨は内心でそう付け足した。

「そう、なのか……?それは凄いな……」

その言葉に、茨は噴き出すどころか深くため息をつき、額を押えた。

「うち、わりと本気で坊のことが心配になってきたわ……」

姫鶴の情操教育が完璧に放任であることだけが、本日の収穫である。

小首を傾げる御曹司に、茨は益々どうしたものかと、一周回って面白くなってきた。

(こら、うちが吉原(あそこ)から来た、ってことも言わへん方がええわ……)

言ってもどうせ分からないだろうが。

違う意味で侮っていたり、馬鹿にしていようものならどうしてくれようかと思っていたが、ここまで分かっていないとなると、最早どうしようもない。

改めて、面白い人間が来てしまったものだと、茨は餡蜜をほおばった。

「あ、坊も食べる?今回はあげるで?」

「人の金で食っておいてよく言うな……」

菖蒲は半ば強引に食わされた寒天と餡を食べつつ、吉原の方を見る。

(……二人は、上手くやれているだろうか)

初夏の夜風は、温かった。


ふ、と蓮が月の方を見上げる。

幸酔は気の抜けた声で、何事かと問うた。

「んだァ?もう飽きたってか?」

強制的とはいえ、茨に服装を見立てられた両者は、少なからず派手な柄の、如何にも遊び人が着そうな洒落物を身にまとい、蓮にはよく分からない『東京の流行』とやらで吉原を歩いていた。

別に行った覚えはないが、吉原の遊女たちの囲いから手を出して誘惑する様が、何となく妖のそれのように見えて、自分は恐らく職業病だな、と内心苦笑を零している。

幸酔は何やら馴れているらしく、特に気にしていないらしい。蓮は笑みを浮かべた。

「いえ、何でも。ところで、一体どう探すおつもりですか?」

「ン、あァ……奴さんは存外瘴気を隠すのが上手いからなァ、一先ず花魁の居る店をあたるつもりだが、構わねぇか?」

蓮は小さく頷いた。

確かに、幸酔から道中聞かされた話では、今回討伐を目標とする『幽現』は、少しばかりこれまでの『幽現』とは異なっていて、そもそもその活動期間そのものが長く、遊女は入れ替わりが激しいためにその存在を認知されにくい。茨がはじめてこの辺りの妙な空気を瘴気だと理解したが故に、ここに『幽現』がいると判明したほどだ。その凄まじい擬態能力は、敵ながら賞賛に値する。

そして、幾ら擬態能力が高くとも、隠れ蓑が優秀でなければ意味は無い。

遊女の最高位である『花魁』ほどになれば、確かに疑われる可能性は低いだろう。

「お前、あの刀のやつ以外に式神持ってるか?」

幸酔の問いに、蓮は僅かに考えて、答える。

「盗聴器程度の役割を果たせるものなら、多少は」

「重畳、重畳。滑り込ませたり出来るか?俺が時間を稼ぐ」

「承知しました」

慣れない着物の派手な柄を横目に見つつ、蓮はふと、幸酔に尋ねた。

「時に幸酔殿は、何故野良に?」

「……それは、興味か?それとも尋問か?」

蓮は小さく笑んだ。

「どちらかと言えば、前者ですね」

その返しに、幸酔は暫く黙りこくった後、簡潔に返した。

「……掟を破った。面白くもねェ、それだけだよ」

それだけを返すためには些か時間がかかったように思えたが、実際蓮も、姫鶴一門の野良というのは見てきた。

彼らには、彼ら自身にしか理解できない理由がある。彼もその手合いだということは確認できたのだ、蓮は少しだけ安堵した。

彼があくまでも善人に見える限り、協力体制を崩す必要は無い。

これは菖蒲が一番理解していることであろうが、わざわざ姫鶴が一介の野良と共に行動しているのは、なんと言っても『姫鶴だから』の一点に尽きる。

姫鶴の嫌われようは、妖の次と言ってもいい。

そうなるまでの理由は勿論理解しているが、屁理屈と八つ当たりが多いことも事実。

とはいえ、そんなことを真正面から言えば、どうなるか分かったものでは無いし、理解してもらえるはずもない。

ゆえに、余計な波風を立てず、東京という魔都に不慣れな、京都の修祓師が動くことで目覚める妖を少しでも減らすため、地の利を得ている彼らを頼るのが、最も合理的なのだ。

それは、幸酔と茨も十分理解している。

『利害の一致』。ただそれだけの仲間だ。

菖蒲がそれをどう思うかは、さておいて。

「そういやァ、奇妙な噂があったな」

傍らから聞こえてきた幸酔の声に、蓮は虚をつかれたように双眸を瞬いた。

「噂、ですか」

「あァ。遊女失踪のそれとは別に、『鳥の鳴く声が夜な夜な聞こえる』とかなんとか……」

鳥、と蓮は呟き、唇に折り曲げた人差し指を押し当てた。

「もしかすると、関係があるかもしれませんね」

「……遊女の件と、か?」

蓮が頷いてみせると、幸酔も僅かに格子遊女の方を見る。

目が合った厚化粧の美人は、にこり、と笑んでみせた。

その、疲れきった様子を隠しきれていない笑みが少しだけ、奇妙に思える。

「……此処に居ると、参るな。誰も彼もが化け物に見えてくる」

ガシガシと乱雑に黄土色の頭を掻く幸酔に、蓮は苦笑を返した。

「それには、同意します」

この吉原には、この地に巣食う『幽現』のそれよりも濃く、別の瘴気たちが入り交じって漂っている。一体どれだけの『なり損ない』が居たのかは考えたくもないが、無念や憎悪の溜まり場としては、最も分かりやすい。

修祓師でも吐き気を催す醜悪さだ。東京の夜の顔を体現している、といっても差し支えないだろう。

「売れ始めた遊女ばかりを殺していたとして……これだけ長く生き長らえておいて、わざわざ下手を打つ神経が分からンな」

如何にも薄っぺらそうな男とばかりすれ違い、幸酔は自分が思っている以上にうんざりとした声を上げた。

ふ、と蓮は苦笑混じりに笑む。

「どうでしょうね、この時期に活発化したということは、何らかの理由が─────」

そう言いかけた瞬間、蓮はおぞましい瘴気の気配に、咄嗟に帯紐を掴んだ。

蓮の式神である『仙弔花』は、通常帯紐に擬態させているためだ。

幸酔も鋭く反応し、僅かに左足を引いて、臨戦可能にも見える体勢を取っていた。

僅かに周りを確認した後、幸酔は路地裏辺りを親指で示した。「場所を変えるぞ」と。

漂ってきた瘴気は、これまで蓮や幸酔が察知し、追ってきたものとは、明らかに異なる。

まるで芳しい花のようにも、特徴的な白粉のようにも取れる、つまるところ『薄い』瘴気なのだ。

背筋を凍らせる気迫や圧迫感、人間としての感が知覚する嫌悪感。それらとは一線を画す、奇妙な感覚。

皮膚を撫でられるような、目の前で嗤っているような。

敢えて言い表すとすれば────「吐き気がする」。

幸酔の声が、蓮の内心を代弁した。

「……妙だな。噛み合わねえ、本当にあんなあからさまに目につく行動をする妖が、こんなおぞましい瘴気の持ち主か?」

瘴気が漂ってきたのは、雪に見立てた繭玉と彩り豊かな初夏の花々を店の前に飾り立てる、格子遊女の顔も幾分か晴れやかな店だ。

『雪野屋』と控えめに看板を出している。

「……雪野屋といえば、確か花魁が一人居たな」

周辺の店よりも大きな造りをしていることからも、それは窺えた。

幸酔は暫く思案した後、蓮の方を向く。

「よし、こうしよう。俺がここで適当に情報を収集してくる。お前は今から俺がいう店に、その聞き込み用の式神、とやらを配置してくれ」

蓮は小さく頷き、瘴気の気配に眉を顰める。

霧のような、霞のような。消えそうで残っている、おかしな気配だ。

いずれにせよ、早くしなければまた『逃げられる』。

ふと、幸酔は蓮にだけ聞こえるよう、低くちいさな声で囁いた。

「被害がデカイのは、来栖屋と穂室屋ってとこだ。どっちも有名な店だ、すぐ分かるだろう。それからお前にあたって欲しいのは─────」

囁き声で告げられた言葉に、蓮は僅かに双眸を見開いたが、すぐに表情を引き締め、頷く。

物分りの良い同行者に、幸酔は不敵に笑んでみせた。

「おっしゃ、行くぞ」

すれ違いざま、蓮は幸酔に人型の小さな紙を渡す。

誰にも見られず、見せず。恐ろしいまでに潜入調査に馴れているらしいその一挙一動に、幸酔は苦笑を零す。


時刻は戌刻(七時頃)、夜へと空が沈みゆく頃合い。

美しい藍色の羽衣が、太陽を隠していく。

憎悪と欲望の渦巻く東京の闇、妓楼吉原に巣食う『幽現』が、その美しい顏に、ひっそりと笑みを浮かべた。

また回りくどい説明回になった気がします、申し訳ないです。

進んでいるような進んでいないような、そんな感じですが、次話はもっと進みます、期待していてください。

さて、此度の舞台は『吉原』。

分かりやすく闇の深そうな場所だと思った方には、『私もそう思いました』と返させていただきます。

美しいものには刺がある、とはよく言いますが、今回もそれです。

これまでと何が違うのか、東京の妖はどう凄いのか、この妖を指標にしたいと思っています。

今回の妖の話も、楽しんでいただけると幸いです。

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