三話 作戦
たとえ誰も、味方になってはくれずとも
短い人生とはいえ、菖蒲とて沢山の女性を見てきた。
修祓師という特異な世界に身を置いている以上、それ相応に常人とは異なる女性も、だ。
だが、しかし。
少なくとも廃寺の柱や瓦をぶん投げたり、巨木を薙ぎ倒したり、男顔負けの怪力さを見せつける女になど一度も出会ったことはないし、あまつさえ、『ボンボンだから』などという訳も分からない理由で甘味処の代金を払わされた十六歳の少年の気持ちを、誰が理解してくれるだろうか。
食事前の運動とでも言うのか、菖蒲のトラウマ上位に食いこんだ怪力騒動の後、当の女は人の金で呑気に甘味を食していた。
「あげへんよ?」などと的はずれなことを言うものだから、菖蒲は諦め混じりに「要らない」と答えた。つい数分前の話である。
「……ところで、此処はどの辺りだ?」
菖蒲がそう尋ねると、金髪の男───つい先程知った話だが、この男は名を、威吹鬼幸酔というらしい────が答えた。
「だいたい蕨宿付近だな。東京の一歩手前さ」
まだ東京では無いのか、と菖蒲は小首を傾げた。
あの廃寺から此処まで文字通り夜が開けるまで駆けたはずだが、存外遠いらしい。
菖蒲は湯呑みを僅かに傾けて、焙じ茶を飲み込んだ。
「……で、そろそろ話すべきかと思うが、流石にアンタらなら勘づいてるか?」
ええ、とこれには蓮が答えた。
「凄まじい瘴気の量です。あの寺のものとは格が違いますね」
「ここいらじャこれが普通さ。……全く、『魔都』とでも呼びたくなる気の触れ方だぜ」
ガシガシと乱雑に頭をかく幸酔に、今度は菖蒲が尋ねる。
「全てを始末できてるわけでは、無いのか」
「ンなことすりゃ、こッちがぶっ倒れるのが先だ。言ったろ、お前らがようやっと腰を上げた老害だってな」
うんざりしたようにそう言う幸酔に、菖蒲は渋い顔をした。伍大族は『老害』、か。
菖蒲はこの幸酔と茨のように、修祓師のうちで「野良」と呼ばれる人間について初めて見た。
そもそも「野良」とは、文字通り何処にも属さず、殺し屋稼業のように、己の気の向くままに妖を狩り、時には見逃すという人間のことを指す。軍でいう傭兵に近い立ち位置だ。
通常、修祓師は伍大族のいずれかに属しているものであり、姫鶴ならば、菖蒲や蓮のように宗家に近しい者は勿論、様々な事情を抱えて、個人的に一門に加わりたいとする者や、千年続くうちに加わった家そのものまで、とにかくどんな素性であっても一門に属すのが暗黙の掟。
妖に家族を奪われ、復讐に燃えるもの。あるいは、一門の修祓師に命を助けられ、自然と加わるものなど、姫鶴に限らず伍大族は多くの修祓師を抱えている。もはや独立勢力といっても通る規模だ。
そんな門閥意識の強い修祓師の世界において、野良になるというのは余程のことだ。
大抵の理由は、いわゆる『破門』をされるだけの何かをしたか、或いは伍大族が憎いためか。『いずれの門もくぐれない』というだけで痛い目を見るのだから、野良になるという覚悟は並大抵ではない。
とはいえ、古い体質と深刻な人手不足に苛まれる伍大族よりも野良の方が案外頼りになると言うのは、菖蒲としても耳の痛い話だ。
「でも、関東なら確か……吾妻がいただろう」
東眞───呼んで字のごとく、あずま。
伍大族が一つである関東の実力者である彼らは、武士の登場とそれに伴う勢力の変動などから、最近では姫鶴と互角の力を有していると聞いていた。
縄張り意識の強い修祓師が、こともあろうに姫鶴の主戦力が来てなお微動だにしていないというのも気がかりだった。
が、それを幸酔は皮肉るような笑みと共にはねのける。
「足の引っ張り合いで大わらわの連中が、か?莫迦言うな。奴らにとっちゃお祓い家業より賽銭さ」
東眞は、鎌倉時代以降、関東全域に流行した禅宗や八百万神の信仰などから、時代に溶け込むために住職や神主を信頼のおける一門の修祓師にすり替え、情報戦を制してその権勢を保っていたという。
近くに居るにも関わらず手を貸さないとあっては、確かに毒づきたくもなるだろう。
現状が理解出来ていない、と彼らが感じるのも無理はなかった。
「お前が来た時も、外れかと思ったがな」
ニッ、と快活に笑ってみせる幸酔に、菖蒲は拗ねたように視線を逸らした。
「姫鶴はそんな事しない」
「分かッた分かッた、冗談だよ。実際、俺の顔面に拳をバカスカ入れられたのは、お前が久々さ」
椅子の背に肘を置いてくつろぐ幸酔に、菖蒲はため息をこぼす。
蓮と居る時も大概調子を狂わされるが、この幸酔という男の、おかしな真っ直ぐさもまた、どうしたものか困るところがあった。
「で、だ」
それまで、少しばかり気の抜けていた幸酔の声が引き締まる。
菖蒲は僅かに固まった。
「ここいらでさえこの有様なんだ。東京がどうなッてるかは、言わなくても分かるな」
「……ここまでとは思わなかったけどな」
苦々しく菖蒲がそう言えば、幸酔は小さく笑んでみせる。
「まァ、無理もない。……だが、『姫鶴』は何も、俺たちの手伝いをしにきた、なんてお粗末な話はしたくねェはずだろ」
ド直球に訊くぞ、と幸酔は菖蒲を見据えた。
「お前らの本命は、何だ」
菖蒲はその問いを受け取ったように目を細め、視線を湯呑みの水面へと落とした。
─────今の世を続けるためには、どうしても都合の悪い存在がいる。
『真祖』だ。
姫鶴という修祓師が姿を現してから、数百年間。
追い求め続けた諸悪の根源。それを討伐できる機会が、ようやく巡って来たのだ。
だが『真祖』が簡単に尻尾を掴ませるはずなど到底なく、本邸へ当主が舞い戻ってきたのも、つまるところ霞を追うようないたちごっこから一度切り替えるためだ。
無益にも見えた当主の尽力で見えてきた『真祖』の影は、二つ。
第一に、多すぎる瘴気。
妖の気配、或いは妖の残滓。修祓師の気分さえ害すようなその恐ろしい瘴気の量は、明らかに『真祖』のそれだ。
『幽現』のものにしては凶悪で、何より邪気が深すぎる、と。
第二に、帝都の狂乱。
最近、農村における女子供の失踪や、時に惨殺死体などで発見されるそれらを警察が追っているというが、事件数はこれまでのものとは比較にならないほど多い。
農村であればひと家族は失踪者が居るのが当然。ひと月に一度は惨たらしい死体が帝都の目につく場所にあるのはもはや日常。
それを人々が当たり前として甘受しているのは、つい最近までやたらと血気盛んな連中が刀を振り回していたためだ。結局人斬りが作り上げた形なのだから、人の所業と取るのが自然である。
実際、帝都に駐在していた修祓師が追っていった瘴気の根源が人斬り浪士だった、ということもあったほどだ。
だが、それらの死体に刀傷ではなく噛みちぎられた跡があったり、刀よりも持っと大きなもので同時に風穴を開けられたりしている有り様を人の暴動と片付けるのは、力技が過ぎるだろう。
そこで、姫鶴の帝都駐在者に調べさせたというのが────「『明星』」と政府内で呼ばれる存在。
菖蒲の言葉に、幸酔と茨が眦を釣り上げた。
「表向きには『特殊情報収集機関 金星』と名乗り、軍関係者を頭に置いて、最近多発する失踪者事件や惨殺死体について追っているらしい」
「警棒はんのお手伝い、いうことやね」
茨の声に、菖蒲は軽く頷いた。
「だが調べてみると、その構成員はてんで異なる身の上に出自、軍人が嫌いな平民上がりまでさまざまだったという」
「平民上がり?軍人見習いでも、警察見習いでもなく、か?」
これには蓮が頷く。
「我々も軽く話を訊いた程度ですが、政府高官の子女や舞台役者まで揃えているようで、総括の軍人以外、その身元はあやふやであったり目を疑うようなものばかりでした」
幸酔は訝りも顕に渋い顔をした。
「そんなもんが政府公認、か?」
「表向きには格好まで擬態しているのかもしれない。いずれにせよ……何かあると見て間違いないだろう」
菖蒲はそう言うと、湯呑みを傾けた。
「そして、この『明星』が、帝都の狂乱の糸を引いているということも」
幸酔と茨はその言葉に目線を見合わせ、得心したような表情を各々浮かべる。
「つまりは、隠れ蓑か。……随分な擬態力だ」
呆れたような声に、菖蒲は目を伏せた。
「姫鶴は、彼らが幽現以上の存在だと睨んでいるからな」
その言葉に、幸酔は目を見開く。
「幽現以上?新種ってことじゃねぇかよ」
「人間社会への溶け込み方が異常だ。恐らく人間の血肉を糧としている点は大差ないだろうが、尻尾さえ掴ませない。真祖に近しい配下と言い換えてもいい」
菖蒲の淡々とした調子に、幸酔は辟易したような声を上げた。
「確かに……ここ数年帝都を縄張りにしてた俺らが存在一つ認知できなかッたわけだしな。……というか今更で悪いが、お前ら本家の人間だろ?もっと下のやつでも良かッたンじャねェのか?」
その言葉に、蓮は小さく笑った後に幸酔と茨を見据える。
「お見捨てになられた一門下層部の実力を見てなお、そう仰せですか?」
ありゃ、と茨は驚いたような困ったような声を上げた。
「バレとったのね、言い逃れはできなそう」
「お礼参りだのは勘弁してくれよ、見捨てはするが内輪揉めなんぞするつもりはねェ」
「むしろ感謝している。それで宗家が本腰を入れたんだからな」
実のところを言えば、御簾を挟んで対面した当主からも何となく疲労と苛立ちを感じ取っていた。
帝都に駐在させていた分家や一門の中堅一族が泣きついてきた有り様に、彼自身も辟易していたのだろう。何も一大勢力だからといって一枚岩ではない。東眞然り、姫鶴然り。
「お前らの真の実力とやらがどこまでのモンかは知らねェが、そこまでヤバい相手ッてんならそれこそ伍大族に頼めば…………は、無理か。そうだッたな、お前ら嫌われ者だッたな」
悪い、と幸酔が思考を追い払うように手を左右へ動かした。
幸酔の言う通り、姫鶴は伍大族の中でもかなりの実力者である。が、その役割故に、第一の嫌われ者でもあった。
そもそも姫鶴は、伍大族のうち、東北を縄張りにする『衛条』から離脱――正直に言えば謀叛――した一族であり、衛条は現在衰退の一途を辿っているということもあって、その時点からすでに良い目で見られていない。
その上、時には妖に転じてしまったり気の狂ったりする修祓師を、所属門閥に限らず始末していたことから『修祓師殺し』の渾名を与えられ、野良の修祓師と背比べするほどの嫌われようであった。
結局のところ、伍大族の中でも今なお隆盛を誇っているのが姫鶴であるところも、その嫌われように拍車をかけている。
「野良と嫌われ者の陣営ッてなァ、ちョいとばかし辛いとこだ」
幸酔は苦笑混じりにそう言った。が、すぐさま表情を引き締める。
「確かにそいつらは放っといて良い連中じャねェな。……とはいえ、帝都で今一番危険なのは他ならぬ幽現だ。ひとまず泳がせてやるほかねェな」
菖蒲は目を瞬いた。
たしかに、あの寺の一件からも察せられたが、東京及びその近郊の幽現は、他とは比べ物にならないほど強かった。
しかし、所詮は人から妖に転じ、しかも幽現は死んでいる人間の怨念、後悔の結晶に過ぎない。
勿論、彼らを妖にする真祖によって与えられた力は凄まじいが、その名前さえ暴いてしまえば、修祓師にとっては敵ではない。
名を知っているということはつまり、呪詛も出来れば弱点も理解しているのだ。
少しだけとはいえ相対した幸酔と茨が苦戦するような相手ではないはずだと、菖蒲は思っていた。
「この辺りの幽現はあの坊主の比較にならねェ。まあ、瘴気の親玉……つまりは幽現の中でも同族を従えられるほどの力を持ッているやつさえ叩けば、殆どは自然消滅する代物だが」
「目星はついてるのか」
菖蒲が尋ねると、幸酔はちらり、と茨の方へ視線をやった。
「だいたい、五つってとこやね。帝都はそこまで広いわけちゃうさかい、倒せるかどうかはさておき、近いうちに接触できるで」
にこ、と微笑む茨に、菖蒲は頷く。
「なら『明星』は、うちの連中に張り込ませよう。僕たちは、お前たちと一緒にその五つの『幽現』を残らず倒す」
その言葉に、幸酔は眦を釣り上げた。
「倒す、って……お前らのとこの、残らず返り討ちにされたんじゃねぇのかよ?」
「末端は、な」
菖蒲はそう言うと、椅子から立ち上がる。
そうして、控えめに笑ってみせた。
「言っただろ、僕たちが本腰を入れた、って」
伍大族が誇りのために仲間割れをするというのなら、結構なこと。何と言われようが、姫鶴とて曲がりなりにも一門と呼ばれるまでの巨大勢力だ。
真に今するべきことを心得ている自分たちで、この局面を乗り切ってみせる。
───誇り高い少年は、そう固く心に誓った。
◇◆◇
甘味屋での話し合いの後、ひとまず菖蒲と蓮は、野良の修祓師である幸酔と茨の尽力を得、帝都に巣食う幽現の討伐を最初の目標とした。
「そうと決まりャ早いとこぶッ倒しにいくか……と言いたいところだが、お前ら宿はどうするんだ?」
幸酔が気だるげに歩きつつそう尋ねると、菖蒲は蓮の方にちらり、と目線をやり、答える。
「帝都に別邸があるらしいから、そこに。……場所は知らないけど」
蓮に『私が知ってますから、ご心配なく』などといつも通りの調子ではぐらかされ、菖蒲は少しばかり不満げだった。
「さすがに金持ちは違うな……連絡を寄越すにも居所が分からねェとどうしようもない。ひとまず俺らもついていくが、いいか?」
ちら、と様子を伺うような幸酔に、蓮がいたって穏やかに頷き返す。
「ええ、私たちも修祓師と表向きにする訳にはいきませんから、知人がいた方が自然でしょう」
東京の一歩手前、蕨宿付近から歩き出した四名は、だがその高い身体能力ゆえに本来ならば一日かかる距離も、数時間ほどで呆気なくたどり着く。
事実、菖蒲と蓮は京都からここまで、ほとんど不眠不休の工程の末、2週間ほどでたどり着いた。
その話を聞いた幸酔は、おかしなものでも見るような目で軽く舌を出した。
「お前ら……人間やめたいのか?」
馬鹿言うな、と菖蒲は眉根を寄せて返す。
そして、人も殆ど見かけないような山道に入るとすぐに跳び上がって、あの鳥のような駆け方を始めた。
蓮もすぐさまそれに倣い、幸酔と茨も肩を竦めて彼らを追っていった。
そろそろ東京か、というところで、ふと、蓮が地上に着地する。
菖蒲は僅かに目を瞬きつつ、蓮の隣に飛び降りた。
「この辺りですね」
そう言うと周りを見渡し、ふと菖蒲の方に視線をやる。
「ほら、あれがそうです」
これまでとは少し異なる風景が広がり始め、菖蒲は少なからず面食らった。
そして、本邸よりは小さいが、十分に立派な煉瓦造りの屋敷を遠目に見、三人に声をかける。
「早く行こう」
遠目とはいえ歩いてみれば非常に近く、山道から表に出、暫く歩けば程なく着くような場所に姫鶴別邸が聳えていた。
初夏を感じさせる濃紫の花菖蒲が奥からのぞき、どこか異国風の金属製の門や玄関扉が落ち着かなかったが、別邸周辺の家屋も似たようなものがちらほらあったため、最近の流行なのかもしれない。
菖蒲は施錠されていない門から入り、玄関扉の取っ手に手をかけると左に引いた。
「あら、若様!ようこそいらっしゃいました」
声が聞こえたかどうか、という瞬間。
菖蒲は勢いよく、音速まがいの速さで扉を閉めた。
その様子に幸酔と茨は小首を傾げた。
「おい、どうした?間違えたのか?」
蓮がちらり、と扉の方に目をやり微笑む。
「何となく耳障りな声はしましたけどね」
やめろ、と菖蒲は額を押さえた。
「父上が何をお考えなのか、さっぱり理解出来ない……」
「今更そのようなこと仰らずに、覚悟を決めてください」
「こんな覚悟は決めたくない!」
全てを小声で話す菖蒲と蓮に、幸酔と茨は目線を見合せた。
押し問答を繰り返している二名などそっちのけで、菖蒲が勢いよく閉めた扉が、内側から勝手に開く。菖蒲はギョッとして小さく後ずさった。
「もう、若様ったら。何なんです?急に扉を閉めたりして」
ひょっこりと玄関から現れたのは、鴉のように艶やかな黒髪と切れ長の眼を持った美女である。目元の黒子が印象的で、赤い唇も彼女の美貌を鮮烈に仕立てあげている。
幸酔は感嘆の口笛を短く上げた。
「いいねェ、京美人か。坊ちャンも中々隅に置けねェな」
「そないな感じ、しぃひんけどなぁ」
間の抜けた会話を後ろでする幸酔と茨はひとまず置いておき、菖蒲は疲れたような声を上げた。
「やっぱりお前か……」
その言葉に、美女は嬉しげに微笑む。
「はい、お久しぶりでございます。ご当主様の命により、若様をお支えするべく参上申し上げました」
その言葉に、菖蒲は頬をひきつらせた。
そして、ちらりと蓮に視線をやる。
つられるようにして美女も視線を蓮に向けると、次の瞬間、彼女は思いきり片眉を吊り上げ、双眸を見開いて空恐ろしい顔をした。
「どうも、ご無沙汰しております」
蓮が僅かに平坦になった調子でそう言うと、美女はこめかみに青筋を浮かべる。
美女がしていい顔では到底ない、と菖蒲は逆に冷静になった頭で思った。
「……若様、失礼ながらこの者は物の怪でございます。ただいま排除致しますゆえ、暫しお待ちを」
「待て待て待て待て!!あぁもう!こうなるから嫌だったんだ!」
菖蒲は美女が握る拳を抑え込み、蓮の方に懇願の眼差しを向ける。
だがその訴えも、今の従者には届かない。
彼は平時通りの穏やかな微笑みを浮かべて、美女と言い争いを始めた。
「そちらこそ、群れるしか脳が無いくせに良くもまあ顔を出せたものですね。屋敷がその穢らわしい羽で汚れる前につまみ出したいところです」
「愚かな、貴様こそ御三家に席を置きながらそれに値しない低能さゆえに生き残った弱者であろうが。若様の伴には不相応だ。即刻本邸に戻れ戯け者」
「やめないかお前たち!そもそも此処表だからな!見られてるんだよ、頼むから初っ端から躓かせないでくれ!」
菖蒲がそう言うと、美女はなおのこと食い下がった。
「いいえ若様、なりません。ここでこの男を屋敷に上げたが最後、必ず若様に災禍がふりかかるに違いございません。今決着をつけるべきです!」
「災禍なら今まさにお前たちから被っている!いいから全員上げろ、楓!」
楓、と呼ばれた黒髪の美女は、しっかりと蓮を睨めつけると、ため息をおろし、扉を静かに開け放った。
「……若様のご命令とあらば」
幸酔と茨は、その光景に再び目を合わせ、小さく吹き出した。
「お前はつくづく、哀れな奴だな……」
皮肉にも取れる言葉を向けられた菖蒲は、深い皺を、眉間に浮かべた。
◇◆◇
放たれ続ける殺気に挟まれ、菖蒲は酷い気まずさを覚えつつも、黙りこくって茶をすすることに専念しだした。
その菖蒲を、たまりかねたらしい幸酔が後ろから小突く。
「穏やかじャねェな。彼奴とあの京美人、仲悪いのか」
小声でそう尋ねる幸酔に、菖蒲は渋い顔をしつつ、頷いた。
「色々、あるらしい」
「らしい、ってお前……」
「御三家の内事情なんて宗家も口出しできないから、良くは知らない。けど……心当たりは、ある」
それきり黙ってしまった菖蒲に、幸酔は片眉を吊り上げたが、深くは聞かず瓢箪の中身を揺らして遊び始める。
黒髪の美女────もとい、小烏楓は、姫鶴御三家、と呼ばれる、修祓師の中でもそれ単体で大きな力を持つ特殊な三つの分家筋の一柱、『小烏』の長子であり、代々小烏一族の人間で構成される、隠密集団『鶴翼』の棟梁でもある。つまり、彼女は忍びだった。
対して蓮は、御三家の中でも特に宗家と関わりの深い『鴻上』の跡継ぎであり、生涯にわたって姫鶴当主を補佐するべく教育されてきた。
両者ともに宗家に絶対の忠誠を誓っているが、理由抜きに、そもそも人間性の時点でも両者は反りが合わない。何故かは菖蒲もよく分からないが、楓は超のつく忠義者で堅物、蓮も忠義者ではあるが、基本的に己のしたいこと以外はしない。水と油と言って差し支えない相反し方から察するに、無理もない話だとは思っていた。
(とはいえ、さすがにこれを連日されるのも、こっちの身が持たないな……)
菖蒲は僅かにため息を零すと、咳払いをする。
「あー……その、この緊急事態だし、演じろとは言わないが、わざわざ衝突しには、お互い行かないでくれ」
その言葉に、楓は「若様」と改まった。
「この緊急事態だからこそ、理解出来かねます。何故このような薄っぺらくていつ裏切るかも分からないような男をご当主は使うのです。しかも、若様の身近に!」
「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ」
声は柔らかいのに目が全く笑っていない蓮に、菖蒲はやめろ、と制す。
「こいつにはこいつの、楓には楓の役割があるんだ、父上の采配も、何か考えあってのことだろう。……多分」
最近分かったことだが、実のところ当主は意外に面倒がりなのだ。表に出す表情が乏しいのと口足らずなだけであって、実際のところは人並みに苛ついたり憤っていたりしている。
だから、もしかしなくても楓の扱いに困った結果こちらに丸投げした可能性も有り得なくはなかったが、それだけは考えたくない、と菖蒲はその考えを追い払った。
「とにかく、楓には今からでもやってほしいことがあるんだ。ひとまず喧嘩するのはやめろ。これ以上するんなら、まとめて本邸に送り返すからな」
一体どこの商人の言い回しだ、と幸酔は内心笑ったが、お偉方の事情に首を突っ込むことだけはしたくなかったので、飽き始めたらしく髪を弄んでいる茨に声をかけた。
「なァ、お前。アイツらの不仲の理由、なんだと思う?」
茨は大きな双眸を二、三度瞬き、意地悪げに笑ってみせる。
「女の勘が言うてるわ、あら恋愛沙汰やで」
へェ、と幸酔は目線を蓮と楓にやり、小さく口角を上げた。
「恋愛沙汰、ね」
送り返す、という言葉がきいたさらしく、いつの間にか両者の殺気が弱まる。
こほん、と楓が咳払いした。
「して、若様。今からでもやってほしいこと、と仰いましたが……」
その問いに、菖蒲は小さく頷き返す。
「例の『明星』についてだ。ひとまずは構成員の詳細と、出来るならば基本的な能力、出没場所を洗い出して欲しい。僕らはまだそっちまで手が回らない状況だ」
「かしこまりました、我が『鶴翼』を総動員して調べさせます。……しかしあの、手が回らない、というのは?」
蓮が僅かに視線を幸酔と茨の方へと向けた為、楓も彼らに視線をやった。
ようやく人間として認識した、とでも言いたげに目を瞬く楓に、幸酔はため息を零す。
「あー……つまりだな────」
「───なるほど、強力な幽現ですか。それは確かに看過できませんね。あの『明星』とやらがどこまでのものかも分からない以上、確実に害を出す幽現から始末するのは、確かに得策かと存じます」
大方の事情を理解した楓の言葉に、菖蒲も胸を撫で下ろした。ここでも蓮に食ってかかられないか、些か案じていたところだ。
「承知しました、若様はどうか幽現の討伐にご専念ください。『明星』については、我らが必ず成果を持ってご報告しましょう」
「ああ、助かる。ありがとう、楓」
いえ、と楓は美しい微笑みを浮かべた。
「忍びの我らを信じて託してくださるのです、これほど名誉な仕事をいただけて、楓は嬉しゅうございます」
菖蒲は失念していたように、幸酔と茨の方を見る。
「彼らは野良だそうだ。これまで東京の幽現を倒してきたのは彼らだと言うから、何かとこの辺りのことには詳しいと思う。困ったことがあれば相談して……って、楓?」
幸酔と茨は、目線を見合せた。
楓の周囲だけ温度が下がったように冷えきっていく。……野良にとっては、慣れた態度だった。
だが、彼女が実際に口にした言葉は、大した棘の見当たらないものだった。
「左様ですか。では、有難くそうさせて頂きましょう。よろしくお願いします、お二方」
両者は面食らったように双眸を瞬き、困ったように顔を見合せた。
楓は特に気にした様子もなく、菖蒲と蓮に向き直る。
「長旅でお疲れでしょう?食事も用意しますから、ゆっくりお休みください」
にこ、と優しげに笑う楓に、菖蒲は頷いた。
「じゃあ一旦、屋敷を一周してくるよ。お前はどうする?」
そう尋ねられた蓮は楓をちら、と見、立ち上がった。
「お供しましょうとも」
「じゃあ、悪いが二人のもてなしを頼んだぞ、楓」
「承知致しました」
菖蒲と蓮はそう言って縁側の方へと歩いていく。
姿が見えなくなったところで、おもむろに幸酔が切り出した。
「……珍しいな。てっきりお前みたいな奴は野良がお気に召さないと思ったが」
口角を上げて皮肉るようにそう告げた幸酔に、楓は微笑む。
「個人的には、否めません。ですが、この事態を前にして使えるものを使わないほど愚かではありませんし、若様の顔に泥を塗ってまで売る喧嘩などありませんよ」
「一門のお偉いさンてのは、そこまでしがらみのあるもンかね。テメェの意思で喧嘩売りャいいじャねェか。俺はあの小僧が使えなくて、ウッカリ殺しちまうかも知れねェし」
呆れたように幸酔が言えば、楓は菖蒲と蓮の湯呑みを盆に乗せ、笑い混じりの冷えきった声で返した。
「これが私の生き方で、私の喧嘩の売り方です。そこまでの口が叩けるなら結構、背後にでも気をお配りなさいませ」
それに、と楓は幸酔が傾けていた瓢箪に手を伸ばし、その下半分を固く握る。
幸酔が捉えた楓の顔には、うっすらと微笑みにさえならない、空恐ろしい暗闇が広がっていた。
「貴様に殺されるような軟弱者ならば、そこまでであろうが」
幸酔は、楓の顔を見据えた。
対して楓は面白そうに笑みを深めると、瓢箪から手を離して、幸酔と茨の湯呑みも盆に乗せた。
「すっかりお茶が冷めてしまいましたね、入れ直して参ります」
にこ、と楓は愛想良く微笑んで立ち上がり、退室していく。
幸酔はその、一部の隙さえない後ろ背を暫し見つめ、瓢箪の中身を呑んだ。
「食えへん女」
傍らから茨がそう声を上げると、幸酔は愉快そうに低い笑い声を返した。
「全くだ。……やッぱ、老害は好かねェな」
幸酔は僅かに赤みがかった黒目を、僅かに細めた。
◇◆◇
特に着替えもせぬまま、菖蒲はなんとなく、本邸よりも小さいのに色鮮やかな庭を眺めていた。
蓮は特に茶々を入れたりせず、菖蒲の何とも言えない横顔を見下ろす。
ふと、菖蒲が唇を動かした。
「……正直なところ、意外だった」
「何が、ですか」
「ていのいい厄介払いかと、思っていたから」
蓮は表情を変えず、「左様ですか」とだけ言った。
当主とその唯一の息子である菖蒲の間に、親子にもかかわらず妙な距離感があるのは、何も最近のことではなかった。
多くを語らず、静寂が人になって現れたような不思議な人間である当主は、彼を幼い頃から見てきた御三家各々の当主たちからしても、簡単には近寄り難い存在だ。
それに、とある一件から宗家親子は折り合いが悪くなり、京都の本邸といっても任務にわざわざ行く必要のない菖蒲と使用人が暮らしているのみの、跡取り用の別邸へと変わっていた。
当主が本邸を空けるというのは本来稀なことだが、事態が事態だ。
一切それを知らされていなかったがゆえの、「厄介払い」という認識だったのだろう。
蓮は僅かに、濃紫の花菖蒲へと視線をやった。
「ご当主は試されているのかもしれませんよ」
何を、と菖蒲は蓮を見上げた。
するとそこには、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた歳上の従者が居る。
「若様が修祓師として使えるのか、どうか」
その言葉に、菖蒲は小さく眉をひそめ、頷いた。
「皆勘違いしているが、姫鶴だって強くなければ生き残れないのは同じだ。……宗家に僕以外の跡取りが居ないのも、な」
宗家の人間として数えられているのは、現在のところたった四人。
現当主とその弟、そして菖蒲、特例で蓮が加わっている。
御三家の出である蓮のみが、と言われかねないが、菖蒲の唯一の従者である以上、その時点で序列は高い。
姫鶴は強さを重んじ、それに従う序列も重んじる。
例え宗家に生まれても、強くないならば切り捨てられる。そうして栄華を切り開いた。
菖蒲は蓮の前を横切って、幸酔と茨を置いてきた広間へと踵を返した。
「お前がどうかは知らないが、僕は何もまともに食べてない。さっさと行くぞ」
急に戻ったらしい小生意気な調子に、蓮は僅かに苦笑を零し、後につづいた。
◇ ◆ ◇
「そもそもなァんで嫌われ者しか動かねェンだよ」
京風に楓が仕立ててくれた夕餉をとりはじめて間もなく、幸酔がそう悪態をついた。
菖蒲と蓮は僅かに視線を見合せる。
「……そんな事言われても」
「伍大族、つッてッからにャ五つもあンだぞ?五つ!そのうち四つが動かねェとか!お前ら虐められてンじャねェかよ!」
菖蒲が困ったように茨を見ると、彼女はその可愛らしい唇だけ動かして、『酔いが回り始めた』という旨だけ菖蒲に伝えた。
「……まあ確かに、少しばかり頼りないとは思うが」
「だろォ?どいつもこいつも掃いて捨てる以外に使い道の無ェ誇りだ矜恃だ、煩く吠えやがッて」
人の家の夕餉をしっかり食った上に酒盛りまでし始めている男がよく言う、とは思ったが、彼には彼の事情があるのだろう、と菖蒲はグッと堪える。
(楓が何かやったかな……)
菖蒲はこの先も己に降り掛かってくるであろう災難に、控えめなため息を零した。
「……ところで、本当に誰も動いていないのか」
幸酔はその言葉に僅かに顔を顰め、酔いが覚めたように悪態をつくのを止めた。
「西の姫鶴、東の東眞、東北の衛条、九州の八剱、最後の賀茂に至っては所在不明……お前らのとこのヤツは、それこそ何回か見かけた覚えはあるが。他は影も形もねェな」
「うちも少し酒呑から聞いた程度やし、ようは知らんけど、あんさんら、そないに仲悪いん?」
菖蒲は僅かに視線を泳がせ、頷いた。
「仲の悪さは折り紙付きだよ。九百年ほど前から足の引っ張り合いさ」
まあ、と茨は目を丸くした。
「手柄を立てて、それでどないすんっていうの?もうなんか貰えるわけでもあらへんのやろ?」
それは違う、と幸酔が低い声を上げる。
「所詮は私怨だ……こんな修祓師をやッてる以上、犠牲が出て当たり前なんだ。それを馬鹿みてェに嘆いて、恨んで、それを強さと宣うのが奴らだ」
菖蒲は小さく目を瞬き、内心でなんとなく、頷いた。
それはそうだ、としか言いようがないように彼には思える。
伍大族は、それぞれが平安以来から続く超名門であり、表向きには没落した、とされる家もある。
家の名そのものが渾名に近いそれである東眞や、現在は後裔のみが残るとされている賀茂、東北の衛条に至っては存在しないはずの一族だ。
修祓師は、その役割と人格故に、一度も歴史の表舞台に登ったことはない。
現在でいうところの陰陽師に近いそれだが、修祓師から見た陰陽師は、どちらかと言うと天体観測者や学者に近い。
かつては帝から十分な褒美を得ていたという話だが、朝廷そのものが力を失い、政権が武士に渡った時点でその機能の大部分は果たせず仕舞い。朝廷側も無用な恩賞を与える羽目にならず、胸を撫でおろしていたかもしれない。
それが余計に、数百年と続かせてきた家業に対する伍大族各々の意地を固めたのだろう。
だが、伍大族が儲かりもしない家業を脈々と受け継ぎ続けてきた本当の理由は────。
「なぁなぁ、真祖って結局何なん?」
茨の花のような声に、幸酔が片眉を釣りあげた。
「言ッたろうが、超強ェバケモンだよ」
「それじゃ分かれへんって。うちかてそないにアホやないもん」
頬を膨らませる茨に、蓮が穏やかな声で説明した。
「簡単に言えば、幽現ではない、本物、あるいは大元の妖のことですね。大昔、この地にまだ人が多くは住んでいなかった頃、本来この地に根付いていた妖そのものであり、幸酔殿の仰る通り、妖力は桁違いです」
「そないなもんが、まぁだ居るんやねぇ」
いっそ呆れたようにそう言う茨に、「むしろ」と今度は菖蒲が返答した。
「真祖が居るから、未だに修祓師が残っているんだ」
小首を傾げる茨に、菖蒲は続ける。
「そもそも修祓師は、真祖───昔は真祖しか居なかったわけだが、つまりは妖───の被害を最小限に抑え、かつそれらを討伐することを目的として結成された、今でいう対人外の警察みたいなものだよ」
へえ、と茨は短く言うと、思い付いたように疑問を呈した。
「せや、真祖いうんも残りは十体しかおらへんのやろ?よくもまあそないに殺せたもんやね」
刀で切るような仕草をしてみせる茨に、幸酔が笑った。
「妖だからッてどいつもこいつも強いわけじャねェだろ。そもそもそこの連中の先祖ッてこたァ、あの技作った奴らだぞ、今より修祓師だッて強く見えるだろうさ」
「初見やもんねえ」
でも、と菖蒲は小さく瞳を伏せる。
「今も残っている十体だけは、格が違った」
だから、倒せていない。
それが修祓師にとって、また伍大族にとって諦めきれない後悔であり、何としても数百年の時を生きながらえた化け物を、自分たちの手で倒そうと躍起になっているのだ。
(───そう言い聞かされてきたからこそ、不思議だ。何故、伍大族が動かない?)
きっと事情があるに違いないが、目の前で尻尾を振る真祖を前にしてなお、優先すべきことがあるというのだろうか。
菖蒲がそう考えていると、何となく伏せた目がどんどん重く降りてきて、まるで見えない力で目を瞑らされたようになり、そのまま横に倒れた。
「おや」
と、さして驚いていないらしい蓮の声を、倒れる間際に聞いた。
「……寝落ちた」
幸酔がそう言うと、茨が面白そうにケラケラ笑う。
「そら、あないにぴょんぴょん飛び回っとるのに不眠不休やったら、寝落ちもするわぁ」
そのあどけない寝顔にちら、と目をやり、蓮は微笑んだ。
「良い薬です。寝ろと言っても寝やしませんから」
確信犯か、と幸酔は小さく呆れたが、あの楓とやらの様子といい、菖蒲の気丈な振る舞いといい、なんとなく名門のしがらみと苦悩が透けて見えて、あまり心地よくはなかった。
「そいつ、歳いくつだ?」
なんとはなしに幸酔が蓮に尋ねると、逡巡の後に答えが返ってくる。
「確か、十六かと」
すると九つも違うのか、と幸酔はため息をこぼした。
いつだって、無情な世界の犠牲者は子供だ。
大人は自分が犠牲にされた理由を探しているだけ。そして知らないうちにその過ちの渦に足を取られる。
そして、何となく思っていたことを、蓮に尋ねた。
「てめぇらの事情にまで首突っ込みたかないが……お前ら、どうせ他にも何か用があるんだろう。真祖でも明星とやらでもなく、な」
それこそが、姫鶴がいの一番に帝都で動き出した理由だと、幸酔は睨んでいた。
余程のことに違いないが、実のところ伍大族ほどになればありふれた話だ。
身内の尻拭いか、禁忌か。
大抵はそのどちらかで、幸酔もその手合いだった。それゆえに、野良にまで落ちた。
蓮は珍しく眉をひそめて不機嫌そうにしたが、「そうですね」とため息をこぼし、観念する。
「お察しのことかと思いますが、姫鶴の穀潰しを見つけ、処刑しに来た、というのも事実です」
やはりか、と幸酔は視線を菖蒲に向けた。
わざわざ大事な宗家跡取りを帝都に送ったということは、宗家の人間か、それに近しいものだろう。おそらく、この主従が共に面識のある人間だ。この悪趣味な退治劇も、伍大族の常套手段である。
茨が菖蒲に自身の上着を引っ掛けると、小さく笑う。
「そやけど案外、もっとちゃっちい理由もあるんとちゃいます?」
ちゃち、と蓮が尋ね返すと、茨は意地悪げに口角を上げた。
「お里に置けへん理由が、あったんとちゃうかなぁ、って思うてな」
蓮と幸酔は互いに小首を傾げたが、茨は、弱肉強食の名門で十六年を過ごした少年を見、羽織に刻まれた小さな家紋を見た。
男は察しが悪いのと、手際が悪くて参ったものだ。
伍大族が来ない本当の理由と、彼がここへ来たこととが、無関係なはずはないのに。
茨は控えめに微笑むと、幸酔の方へ振り返った。
「ほな、今宵はお開きにしよか」
◇ ◆ ◇
幸酔と茨が姫鶴別邸を去り、寝こけたら最後しっかり寝るまで起きない菖蒲を布団まで持って行った蓮は、僅かにため息をこぼした。
─────『お前ら、どうせ他にも用があるんだろう』。
野良はしがらみがない分、妙なところまで察しが良く、その上直球だ。
嫌いではないが好きにもなれない、それが蓮にとっての野良だった。特に、ああいうところが。
「おい」
鋭い女の声が、背後からした。
菖蒲が起きないように控えめなのが、少し面白い。
蓮は小さく振り返って、あまり仲の良くない同僚を見た。
「貴様に、話しておきたいことがある」
切れ長の黒い双眸を向けて、楓はそう語った。
廃寺の三日月から少し太った月が照らす夜、酒も肴も無しに、楓と蓮はひっそりと月見をした。
何も月見が目的だったわけではないし、月に趣を感じ取ろうとするような人間では無かったが、ただ静かに話をするには、両者はあまりにも確執が深い。
蓮は何時もの微笑みさえ浮かべず、無感動に月を眺めた。
「……このようなこと、若様にはお話できない。あの方の重責が増えるだけだ。しかし、お前には言っておく」
いつにも増して回りくどい、と蓮は片眉を吊り上げた。
「ご当主が本邸にお戻りになる前の話だ」
楓の凛とした声が、そう始めた────。
それは、去年の年暮の頃だった。
美しい白雪が降り積もる中、姫鶴家が伍大族に向けて、一度改まった会議の場を設けたい、と申し出た。
すると、存外早く、全ての家が応じたのである。
所在不明であったはずの賀茂家も、耳ざとく参上した。
「────汝自ら会議の場を設けるとは、如何した。姫鶴」
そう白々しく言ってみせるのは、布面に『東眞』と書かれている男。即ち、東眞家の当主であった。
姫鶴当主の傍に控えていた楓は、小さく眉を顰める。
当主は意に介していないのか、特に何も返さず場を見渡した。
そして、辛辣な言葉を浴びせる。
「一々何事か言わねば分からぬほど、考え無しに落ちぶれたか、御一同」
ぴり、と場の空気の鋭さが変わった。
当主の殆どは老齢かつ老獪で、既に修祓師を引退した身とはいえ、ひとまずは名門の頂点。つまるところ最強の称号を手にしたと言っても過言ではない大物ばかりだ。
当主の中では最も若輩な姫鶴にこのようなことを言われれば、空気が底冷えもするだろう。
姫鶴当主は、布面の奥から平坦な声で続けた。
「既にお聞き及びのことと存じてお話申し上げる。……我ら姫鶴は、此度の帝都騒乱の一件を受け、既に討伐の準備を進めている。これは数百年の間望んだ、人と妖との戦を終わらせる、最後の機会だと私は思っている。ついては各々方に是非ともご尽力頂きたく、お呼びした次第」
楓は当主のあまりの気配の無さに、背筋が凍った。
人のそれとは思えぬほどに静かだが、溢れ出ようとしている溶岩のような何か。それを当主の皮を被って押し殺す。実子である菖蒲の雰囲気とは、まるで違った。
一方他の当主らは、騒がしく気配を波立たせ、内心では烈火のごとく怒っていたり、面倒がっていたりとそれぞれだが、一概に『姫鶴に与するのだけは御免だ』とでも言いたげな消極性は透けて見える。
「出来るならば直ぐにでも返答が欲しいところだが────時間を要するであろうことはこちらもよく理解している」
皮肉もいいところだ、と楓は内心で苦笑を零した。
そして姫鶴当主は、用が済んだとばかりに立ち上がる。
「良い返事を、期待しております。後は、各々方でご自由にご歓談なさいませ。もてなしをご所望ならば、何なりと」
青みがかった黒髪を揺らし、当主は広間から去って行く足を進めた。
楓は礼儀を尽くして当主に叩頭すると、当主の後に続いた。
「宜しかったのですか、あのような」
御簾越しにしか対面したことの無かった当主にそう尋ねると、楓よりずっと背の高い彼が立ち止まり、僅かにたじろいだ。
「───どうせ、奴らも限界なのだ。姫鶴に急かされようが急かされまいが、最後の最後まで動かん」
楓は双眸を瞬き、小首を傾げた。
「……どういうことですか?」
「生き残るだけでも必死な弱小種族が、生き残るための術を片端から潰しているのだ。奴らが愚行を繰り返す限り、修祓師の衰退は続く」
当主は器用に布面で顔を見せずに振り向いた。
だが、空恐ろしい気配とともに、である。
「〝最後の機会〟とは、そういう意味だ」
───これ以上長く、修祓師は持たない。
だから、この代で終わらせることが出来なければ、つまりは人は妖に敗北し、じわじわと侵食されて終末を迎える。
ハッキリと言わなかったのは、それも分からないほどの阿呆になったのかどうか試した、ということだろうか。楓は冷や汗を浮かべた。
「……では、我ら姫鶴も、でございますか」
「無論だ。姫鶴が存続出来ていたのは、他にも勢力がある、という点のみ。姫鶴だけ生き残ったところで、どうにもならん」
当主はそう言うと、再び歩き出した。
その後に続きつつ、楓は手短に当主に質問する。
「一つ、気になることが」
何だ、と当主が平坦な声で言う。
「……準備、というのは、どういう意味でしょうか」
当主は今度は振り返りもせず、無愛想に返した。
「菖蒲を帝都に来させる」
は、と楓は双眸を見開いた。
弱冠十六歳で当主にとっては一人息子。
予想される、真祖や他の強力な幽現との戦いを。姫鶴を背負ってさせるには、あまりにも若い。
実戦経験も乏しく、才能はあるが小柄なところは欠点だ。何より、もしも菖蒲を失えば、文字通り宗家が断絶し、姫鶴は行き場を失う。
「本気ですか」
当たり前だ、と当主は言った。
「全てを捧げる覚悟も出来ない人間が、全てを捧げて世を呪う妖に勝てると思うのか」
しかし、と楓は動揺も顕に言い募ったが、当主の意思が一度固まったら微動だにしないことなど、分かりきっている。
他の伍大族が動かないのは、感情論を抜きにして、『簡単には動けないほどに弱体化』してしまった。
結局のところ、宗家では跡継ぎが育つ前に死に、分家では宗家を支える人材が育つ前に死ぬ。
その堂々巡りを繰り返し、どんどん弱っていったからこそ、まるで挑発するように真祖が動き出した。
保身を考えていられる状況ではない。最早、人間には選択肢さえ残されていないのだ。
『後は、各々方でご自由にご歓談なさいませ』─────。
当主の言葉に含まれた皮肉に、どこまで彼らは気づいただろうか。
そして何となく、楓は当主の本当の胸の内を理解してしまった。
何か、本邸には置いておけない理由があるのだ。それが何かを明かす人ではないが、きっと、人命に関わるまでの理由が。
姫鶴の招集に応じた伍大族の腹のうちは、分からなくもない。
彼らとて、修祓師としての役目は果たしたいはずだ。
だが、それを行うためには、あまりに修祓師という存在は弱くなってしまった。
それに、真っ直ぐ目を向けられないのだ。
老齢になってまで一族のことに関わらねばならないのは、目立った跡継ぎも居なければ能力の低いものから次々に犠牲となり、誰も彼もの心が疲弊しきっている故なのだから。
楓は底冷えするように寒い渡り廊下を、当主の後に続きながら歩く。
こそ、とも音を立てずに降り積もる雪が美しかった。
─────なにも、伍大族が悪いわけではない。
楓の言葉に、蓮は視線を月から彼女へやった。
「あの野良二人には、そう言っておいてほしい。彼らに、伍大族には正義感が無いわけでも、無責任でもない事だけは、理解してもらいたい」
蓮とは対象的に、宗家の命令に忠実で、堅物で、盲目的。
その彼女が、自分の意見を言うとは。
食い下がるところが目立つが、決定を覆そうとしているわけではないことを、蓮は分かっている。だからこそ、意外だった。
「……何故、その程度のことを若様に話さないのですか」
楓は僅かに困ったような顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「あの方は、まっすぐだ。例えどんな理由があろうが、やるべき時に動けない人間を許しはしない。歩く速度の遅い人間など、平気で置いていく。……傷つけないためというわけではない」
ただ、と楓は続ける。
「あの方の鈍りは、姫鶴の鈍りだ。今はただ、人の世を脅かす妖に憤る、ただの刃でいい」
蓮は僅かに驚いたように双眸を瞬いた。
そして成程とも、思う。
菖蒲を鋭く真っ直ぐな刃で居させる為に、全ての事情を蓮のところで握り潰させようというのだ。
少なくとも小烏家は、それが最善だと判断した。
楓の言葉がそれ以上続かないと分かると、蓮は立ち上がった。
「所詮、名だけは先祖から継ぐことができますからね。伍大族然り、我々然り」
その言葉に、楓は妙な顔をした。
もっと正確に言うと、何を言い出すのかと訝しんでいるような顔付きだ。
「ご当主に報告をしているのなら、『伍大族のひとつも動かせない貴方とて、同じ役立たずだ』とでも添えておいてください」
な、と楓は動揺と怒りの綯い交ぜになった声を上げる。
蓮は平時の穏やかな微笑みを浮かべた。
「よく言うじゃありませんか。『それで終わるなら、その程度』だ、と。貴方は鳥頭なんですから、変な気を回さなくて結構です」
「誰が鳥頭だ!」
「安心してください、貴方がその変な気を回さなかったために鈍るようなか弱さは、若様には無縁ですから」
それに、と蓮は付け加えた。
「ご当主に任されたことをどう果たすかは、若様次第です」
そう言うと、蓮はさっさと自室へ踵を返していく。
その後ろ姿が妙に当主のそれと似ていて、楓は腹立たしくなった。
伍大族のうち、『吾妻』は宗家でまともに術を使えるのがたった一人。『衛条』は東北の妖の凶暴化で手が離せなない。『賀茂』もまた全国各地の『幽現』の始末に追われ、『八剱』もまた、跡継ぎはたったの一人。
『姫鶴』だって、そうだ。
そうだけれど、当主は、戦い続ける道を選んだ。選ばされたにせよ、喧嘩を受け取った。
名門宗家の一人息子であろうが、実戦経験が少なかろうが、若かろうが、『修祓師』なのだ、菖蒲は。
だから、贔屓などせずに当主は送った。
自分の息子ならばやれると、信じて。
聞くところによれば、伍大族のうち、実際に前線へ赴いている若い修祓師たちや跡取りたちは、こぞって姫鶴に協力したい、と名乗りでてくれているらしい。
ご当主、と楓は内心で呟いた。
「まことに、これが最後の機会でございましょうね……」
数は少ないが、真っ直ぐで若い人々が揃ったこの時代が。
楓は月に一瞥もくれることなく、その場をあとにした。
三話目は、本編最初の休息回でした。
この後がまたちょっと重ためな話になるので、色々と世界観を深くご説明出来れば、と思いました。
前回のものよりちょっと長く、説明が重複するところがありましたので『くどいわ!』と思う方も居たかと思います、すみません。
はよアクションせぇや、と思ってる方、もうちょっとだけご辛抱ください。
すぐに妖怪出しますんで、お付き合いの程よろしくお願いします。
言うのを忘れていましたが、後書きは最早世界観とか気にせずやりたい放題なので、後味悪くなるという方は飛ばしてくださって大丈夫です。重要なことは言わない方向性でいきます。
最近の夢は感想を貰うことです。(壁殴り)
次回も何卒よろしくお願いします。




