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囁かれた言葉に何を思ったのだろう。
向き合ったときに言われた「何故、泣く」。その指摘で、いま涙を流していたのだと認識をした。
泣いているつもりはなかった。こんなにも簡単に涙を流してしまうとは、自分の感情が制御できなくなっているのだと、自身に言い聞かせる。
あの日、母に会ったことであの人の瞳に映っているのは、厳しくも愛情に溢れていた皇女時代の私しかいなかったのだ。
成長をとめ、退化したような私を側で優しく見守ってくれていたのはベネディクト様だったのに、それに気付くのに何年掛っただろうか。
ただ、母の「きっと愛する人が他にいるのでしょ」に追い詰められてしまうとは。
離れようと考えたりしていたというのに、いざ彼が他の女性の元にいることを想像してしまうと、惜しくなる。
―――孤独
そう考えていた自身が恥ずかしい。私を支えてくれている人は数多くいたのだから。
いままで私は何を見て生きていたのだろう。
「あなたは何故、私のそばにいてくださるのですか。この数年、ベネディクト様のそばで、皇太子妃らしい振る舞いなど出来ていなかったはずです。それなのに、何故…私を気遣うのです。それに、母とも会うことが出来なかったのは、すべてあなたのせいだと言われました。どうしてですか、ベネディクト様」
「…それに答えが必要なのか」
子どもの泣き言のように、言いたいことを吐き出す。聞き終えたあの人から発せられた言葉は、突き放すような言い方ではなく、戸惑いを含めた言い方だった。
まるで私が吐き出したことが、彼を苦しめているようで胸が痛む。
腕から逃れるように離れようとすれば、一瞬彼の瞳が揺れる。向き合いたいだけで、彼から離れようとは思っていない。
そう伝えたいがうまく伝えられるはずもなく、目を逸らしてしまいそうになるが、しっかりとベネディクト様を瞳で捉える。
「お前をそばに置くのは俺の好きでやっていることだ。興味のない者はそばになど置かない。それに、愛しいと思う女はティナ、お前だけだ。お前だけが俺のそばにいてくれればいい」
紡がれる言葉は私を安心させようとしているのか。
ただ、彼もまた私の瞳から逃げることをしない。その澄んだ瞳に私自身が映っている。
嘘を吐く人は平然としているとブリアナが言っていたが、彼はずっと私に本心で語り掛けてくれていたはずだ。
先程の揺れた瞳に、弱々しく吐き出された言葉。
いつも己に厳しくも弱音を吐くことがない方が、初めてみせた姿に驚く。
いままで、私はこんなにも夫に我慢をさせていたのか。妻として、彼を支えることを放棄した私を守っていてくれたのは、紛れもない彼なのだ。
「それと、皇后陛下に会わせなかったのではない。あの方自身が、お前と会おうとはしなかっただけだ」
彼から紡がれる言葉は真実なのだろう。
だが、それを素直に受け入れられるほど私の心は清らかでもない。
「嘘よ!!!母上はこの前、私に会いに来てくれました。会えなかったのはベネディクト様が会わせてくれないからと、愛する我が子と母上は言ってくれました」
「あの女がそんなことを言ったのか」
「母上は…母上は私のことを…」
ただ、それを認めたくなかっただけなのだ。
母だけは私たち子どもたちを無条件に愛してくれていると思いたかっただけなのだ。
いまのあの人にそのような感情があるかは知らない。
ベネディクト様は、ずっと母のことを「皇后陛下」「あの女」と呼ぶ。それが答えだったのだ。
あの人は自分自身が皇后の位にあることが、その身分を愛しているだけなのだ。
「クリスティーナ、俺とお前のいた時間はそんなにも短いものだったか」
突然、視界が暗くなった。そして、暖かい温もりが全身を包む。
逃げたはずだった温もりが、また私の元に戻ってきた。母に抱きしめられた時に感じた温もりとは違う。あの人は、どう私に接すればいいのかわかっていてやっただけ。
でも、ベネディクト様は…
「私は、姫のことを煩わしいと思ったことはありません。手放そうとも思ったことも。あなた様が私を嫌いだと思っていてもいい。私が憎ければ憎いでいい。それでも、私はあなた様のそばにいたい。クリスティーナ、好きだ」
ベネディクト様から紡がれる言葉は、私が幼い頃に望んだ言葉だ。
すべてを投げ打ってでも守ってくれる人と結ばれたい。そう思っていた私が、ベネディクト様の近くで読んでいた本。
騎士と姫の物語。
その本に有った台詞。
私が憧れていた台詞。
ベネディクト様があの本を読んでくれていたとは。あの本は男の人が読むような本ではないのに。
それでも読んでくれていたことが嬉しい。
あの時、兄に「将来のお嫁さんにはこれくらいのこと言わなきゃダメよ」と言ったとき「夢の見すぎだ。ベネディクトはどう思う。このお子様に現実をみろと言ってくれ」と後ろに控えていた彼に声を掛けた。
「いいではないですか。それが、ティナ様の望みなのですから」
その回答に呆れた兄は「お前たちの頭が心配だ」と言っていた。
だけれど、いまその台詞を彼はくれた。
「…その台詞」
「ああ、お前ならわかるだろう」
「私の好きだった本の…」
その台詞を聞けただけで嬉しい。その嬉しさからか、涙が溢れ出てくる。
嗚咽交じりで言葉を吐き出すことはできない。
私の好きな本を知っているのは、いまではベネディクト様だけで、その好きな台詞まで覚えてくれていた。
この嘘に塗れた世界で、ブリアナ以外に信じることが出来るとするなら、夫であるベネディクト様。
いまはベネディクト様の胸を借りて泣くことしかできない。
髪を撫でる優しい手つきを、いつまでも堪能していたいと思うほどに私は安心している。