死しても咲く花実などなし
視線が痛い。大広間に一歩足を踏み入れた時からずっと、着飾った者達がざわめきながらグレーテルとヴィルフリートを見ている。
ヴィルフリートが自分の塔から持ち出してきたという盛装は、少し時代がかっているが仕立てがよく、ドレスコードとも外れていない。なにより彼によく似合っていた。
グレーテルのドレスは、十五歳の誕生日にヴィルフリートから贈られた中の一着だ。周囲の令嬢達に見劣りしない上質なドレスで、こんな機会でもなければもう一生着ることもなさそうなほど華美なものだった。
だが、何か間違っていただろうか。自分で気づいていなかっただけで、どこかがおかしかったのかもしれない。そんな風に縮こまるグレーテルとは対照的に、ヴィルフリートは得意げな顔で周囲を見渡していた。
「盛大だな。俺がいたどの宮廷とも比べものにもならん。これが時代の流れというものか」
「フロリアス以外にも仕えていた宮廷があったの?」
「まあな。眠る直前はフロリアスの宮廷魔術師をしていたというだけだ。通算すれば塔に籠っていた時期のほうが長かったが、戯れに各国を放浪しては謎の天才魔術師として様々な宮廷に引っ張りだこだったのだぞ。不老不死であると知られるのはさすがにまずかったからな、名や姿を変えて各地を転々としていたわけだ。塔にいる間も、代替わりをしているふりをしていた」
「……ふぅん」
なら、彼の今の姿は魔術で作り上げた偽物で、名前もまったくのでたらめなのかもしれない。実体化したヴィルフリートの姿をしげしげと眺めるグレーテルの疑念に気づいたのか、ヴィルフリートはにやりと笑った。
「今の名と姿こそ、俺の真実だ。今の世では、俺の真の名と姿を知る者などお前以外におるまい」
「そっか。それならいいわ。あなたの全部が嘘だったら、なんだか不公平だし」
なんだそれは、と首をひねる自称悪魔を無視して歩き出す。日頃から自分は天才だと豪語しているのだから、意味ぐらい自分で考えればいい。
「お、いたぞ。あれが勇者役の小僧とその恋人だと言われる小娘だ」
「へぇ。……驚いたわ。ラインハルト様も、笑うときは笑うのね。幸せそうで何よりだわ」
慌てて後を追ってきたヴィルフリートが彼方を指さした。つられてそちらを見ると、見知らぬ少女と語らうラインハルトがいる。
グレーテルは彼の仏頂面しか見たことがなかったが、完全な鉄仮面というわけではなかったらしい。とろけそうなはちみつ色の瞳の可愛らしい少女を前に、ラインハルトは穏やかな微笑を浮かべていた。
「まったくだ。さあ、俺達も負けずに恋人のふりをせねばな」
「ちょっ……!」
組まれた腕も、しっかり絡められた指も外せない。思わず真っ赤になるグレーテルを、遠くから老婦人達が微笑ましいものを見るような目で見ていたが、今のグレーテルにはそれに気づく余裕すらもなかった。
「何を拒む。俺に恋人役を任じたのはお前だろう。そもそもこれは、あのくだらん噂を払しょくするために必要なことではなかったか?」
「それはそうだけど!」
ごねるグレーテルだが、次の瞬間には言葉を失って固まってしまった。唇がふさがれたからだ。初めて触れ合ったのが、まさかヴィルフリートの唇だなんて。
「しかしまあ、甘く幸せなだけの恋では許されないのが王侯貴族というものよ。奴らは常にしがらみに囚われている。娘、お前は平民でよかったな」
「……」
「あの小僧、王子達のいとこらしい。勇者役は王家の人間がやるものだと決まっているそうだが、神託があったのは傍系の小僧なのだ。箔というのは大事だぞ。神にまつわるいわれがあるならなおさらな。それだけで玉座への距離も変わる。もともと継承権はあったのだ、奴を担ぎ出そうとする者は多いだろう。同時に、奴を政敵とみなす者もな」
「……」
「おまけに奴の恋人は巫女姫……神殿の次代を担う者だという。神によって与えられた王の冠だ、神の忠実なしもべに認められた男にこそ戴かれるのがふさわしいではないか。奴らの意思がどうであれ、必然的に権力争いに巻き込まれるだろう」
「……」
「お前も余計な厄介事に巻き込まれたくなかったら、極力かかわらないように……おい娘、聞いているのか?」
「ッ!」
覗きこまれて意識が戻る。半分も聞いていなかったが、正直に言えば何を言い返されるかわかったものではないのでがくがくと頷いておいた。ヴィルフリートは怪訝そうな顔をしている。グレーテルがどうして放心していたのか、まるでわかっていないのだろう。
(それもそうね。彼は五百年以上も生きてる“悪魔”なんだから。小娘の心なんて、わかるわけがないわ)
だから遊び半分で恋人役を引き受けるし、何の気なしに近づいてくる。そうだ、彼からすればこれはすべて暇つぶしだ。眠り続ける退屈な時を慰める、いっときの気まぐれ。だからグレーテルも、それほど気負う必要などない。
ゆっくりと管弦の調べが響き始めた。ワルツでも踊る時間になったのだろう。周囲がパートナーと手を取り合って広間の中央に向かう中、視線から解放されたことにほっと息をつく。この国の二人の王子、兄王子ダミアンと弟王子ロルフが令嬢達にダンスを申し込まれているのを遠巻きに見ながら、グレーテルは色とりどりの料理が並べられたテーブルに向かおうとした。
「なんだ娘、踊らんのか?」
「花冠の乙女の舞ならともかく、ワルツなんて踊れないもの。恥をかくぐらいなら、隅で料理を食べているほうがましだわ」
「大丈夫だ、俺がエスコートしてやるからな。何も考えず、この大天才に身を任せているがいい!」
「ヴィル!?」
無理やり広間の中央に引きずり出された。手取り足取り支えられ、耳元でステップを囁かれる。されるがままのグレーテルは、心の底から楽しそうに笑うヴィルフリートを前にして何も言えなくなってしまった。
* * * * * *
「言葉通りだ。これ以上君を、この歴史あるファーベル魔術学園に在学させるわけにはいかない」
式典の時ぐらいしか見たことのない理事長は、とても険しい顔をしていた。
「君の魔術は秩序を乱す。君のような異端者を魔術師と呼んでしまえば、他の罪なき魔術師達までいわれのない迫害を受けることになるだろう」
投げつけられた言葉が胸を抉る。なんで、どうして、違うのに。
「即刻立ち去れ、グレーテル・ローゼンガルト。悪魔の誘惑に堕ちた罪人に、我が校が教えることなど何もない」
校舎を追い出される。うちひしがれながら振り返ると、ごみが、残飯が、石のつぶてが、残酷な言葉の雨が上から降ってきた。
*
「グレーテル・ローゼンガルトは恐ろしい魔女よ! 彼女は魔術を穢して神を貶めた背信者なの!」
「この女は夜な夜な悪魔と交わって、悪魔から力を授かった! すべての魔術師の面汚し、それがグレーテル・ローゼンガルトだ!」
「わたしのペットはこの女に呪い殺されました。わたしの友達の親戚の隣人である若い母親が産んだ赤ちゃんをさらって食べたのも、この女に違いありません」
「街で起こった陰惨な事件は全部、グレーテル・ローゼンガルトの仕業です。だってこの女は、堕落した悪しき魔女なのですから!」
名ばかりの裁判。異端をつまはじきにするための茶番。証人として名乗ったのは、かつてのクラスメイト達だった。
涙に濡れる否定の声は届かない。杖まで奪われてしまった今、心強い自称悪魔はここにはいない。助けてくれる人なんてどこにもいなかった。
「主文、被告グレーテル・ローゼンガルトを冒涜の罪で火刑に処す! 悪魔ごときに身をゆだねた、恥知らずで淫らな娘よ! 神の名のもとに裁きを受けろ!」
*
「おいおい、かなりの上物だぞ。ツイてるな。たまにこういう役得があるからやめられねぇ」
「魔女といえど小娘だ、魔術が使えなきゃ何も怖くねぇ。それともあれか、呪いでもかけてくれんのか?」
「背徳者がどんな味をしてんのか楽しみだ。悪魔を満足させたんだ、さぞ具合がいいんだろうな」
薄暗い地下牢で、下卑た目をした男達が迫る。魔力を封じる枷は、自由すらも封じていた。
いやだ。こわい。おねがいだから。だれでもいいから、はやくたすけて。
「娘っ!」
こないで。みないで。どうしてきたの。なんでいまさら、ここがわかったの。
「貴様ら……! 俺の弟子に何をしている!?」
その青年は、いつもの半透明の姿ではなかった。きっと、杖を持つために自力で実体化したのだろう。
誰何の声は悲鳴に変わる。かかったそれはやっぱり生温かい。けれどこれまでさんざん浴びせられたものとは違って鉄のにおいがした。
「……すまなかった。何もかも俺のせいだ。俺がもっと早くここを突き止めていれば……」
しおらしいその悲痛な声も、かぶせられた彼の上着も、今はただ煩わしかった。
*
ぱちぱちぱち。火刑台にくくりつけられた人形が燃えている。魔術で作った、燃やされるためだけの可哀想な人形だ。
民衆はそれを嬉しそうに眺めていた。邪悪な魔女め、当然の報いだ。心地よさげに飛ばされる野次も、もうこの心には刺さらない。
「奴らを残らず血祭りに上げずによかったのか?」
「……もういいの。それより早く逃げましょう」
目指すは故郷。両親の暮らす、穏やかで平和な村。そこにはきっと悪い噂なんて届いていない。悪い魔女はみんなの前で灰になった。だから、もう一度人生をやり直せる。
そのはずだった。全部捨てて、全部忘れて、大好きな両親のところに帰ってきた。だから、もう悲しいことなんてないはずだった。
「どうして……!」
村はとっくになくなっていた。焼けた大地には塩が撒かれていた。
家があった場所に両親の笑顔はなかった。がれきの中に、乾いた骨のかけらがいくつか散らばっていた。
ここは神に叛いた魔女の故郷。魔女が育まれたはじまりの土地。だからここも、村ごと裁きを受けてしまったのだ。
「あの日、俺がお前に声をかけなければ、こんなことには……」
「……違う。違うの。あたしはあのとき、確かにあなたに救われた」
その救済の代償がこれだ。自称悪魔は対価らしい対価も求めなかった。けれど人は、神は、運命は、確かにそのつけを払わせた。
わかっていた。自称とはいえ悪魔の囁きに乗せられればどうなるか。けれど、後悔はしていない。
「悪いのは……あたしを陥れた、この国の奴ら……」
あたしを認めず、あたしを罠に嵌めて、あたしのすべてを奪った奴ら。
覚えておけ。お前達が魔女と呼ぶなら、この身は本物の魔女に成ろう。そして知ればいい。自分達が、どんなに愚かだったのか。
「気が変わったわ。戻るわよ。……今まで受けた扱いのお礼は、国を滅ぼしても足りないぐらいね」
許さない。絶対に許さない――――全部全部、めちゃくちゃにしてやる。
* * * * * *
「――ッ!?」
跳ね起きた。嫌な汗で全身がぐっしょりと濡れている。
「け、顕現せよ、彷徨える亡霊……!」
「ん……なんだ、娘。こんな時間に喚び出すとは。俺だって本当の眠りにつくこともあるのだぞ」
ベッドの傍に立てかけた黒茨の杖をぎゅっと握りしめ、震える声で呪文を紡ぐ。現れたヴィルフリートは眠たげにあくびをしていた。動揺のあまり魔力の制御ができなかったせいで、その姿は実体を伴っている。
「ヴィル……! ここはどこ!? あたし、学園を追放されて……それから……」
「寝惚けているのか? ここはルーグランツが王都に座す中央神殿。お前は花冠の乙女としてしばらくここで暮らしているだろう。学び舎のほうは休学扱いになっていたはずだが」
思い出す。そうだ。今日は王宮でパーティーがあった。ヴィルフリートについて様々な者達から質問攻めにあって、くたくたで神殿に戻って、自室についてベッドに横たわるなり泥のように眠り込んでしまったんだった。
「悪い夢でも見たのか?」
「……ええ。悪魔と交わった堕落した悪い魔女って言われて……それで……あなた以外の大切なものを全部、失ってしまう夢よ」
「……そうか。だが、夢はしょせん夢だ。そうおびえてくれるな」
よほどひどい顔をしていたのだろう。ヴィルフリートはぽんぽんと頭を撫でてくれた。実体の伴った手のひらは大きくて温かくて、何より優しい。
「確かにお前は頭角を現し過ぎた。悪魔の存在をお前の瑕疵にしようとする者も出始めるだろう。だが、今のお前は神託によって選ばれた花冠の乙女だぞ。お前を断罪できる者などいるはずがないだろうが」
「じゃあ……じゃあ、竜鎮祭が終わったら……?」
グレーテルは神の名において守られている。グレーテルが“花冠の乙女”である限り、どんな悪意もよせつけない。けれど、グレーテルが“花冠の乙女”でなくなったら。そのときこそ、あの夢が現実になってしまうのではないだろうか。
「罪をでっち上げられる前に、俺の塔に来るか? 黒茨の塔といえば多少は有名だろう。迷わず辿り着けるはずだ。なに、茨もお前のことまでは拒まんさ」
「え……」
「公に断罪される前に姿を消してしまえば、お前を襲う数々の不幸も訪れないだろう。魔術で塔を管理していくのも面倒になってきたころだ。俺専属の小間使いになれば、俺のこれまでの研究成果やこの俺のえりすぐりの蔵書も間近で堪能することができるぞ。悪い話ではないと思うが?」
ベッドの縁に腰掛けて、ヴィルフリートは微笑んだ。いつもの自信に満ちた不遜な笑みではない。慈愛に満ちた、庇護者の笑みだ。
「この俺の小間使いなど、世界中の魔術師達がよだれを垂らして飛びつくほどの栄誉だぞ。なにせ、およそ魔術師としては最高の環境に加え、衣食住のすべてがついてくるのだからな。俗物に囲まれて摩耗していく宮廷魔術師なんぞよりよほど素晴らしいだろう。だから、そんなに泣くな」
言っていることは普段と大して変わらない。傲慢で自己評価の高い、いつものヴィルフリートだ。けれどだからこそ安心した。
その胸に飛び込んで泣きじゃくる。強く彼を抱きしめたまま涙声で告げた返事を聞いて、ヴィルフリートは満足げにグレーテルの涙をぬぐった。