火種を投げ込めば煙は上がる
舞の稽古は週に四日。残りの三日のうち二日は礼儀作法や教養の勉強で、最後の一日は休日だ。
週に一度の休日は昼過ぎまで寝て、部屋か図書室に籠って本を読む。そのうえで故郷の両親に手紙を書いたり、ヴィルフリートと話したりしていれば一日なんてすぐに終わった。たまに気分転換として庭園を散策することはあったが、行動範囲はあくまでも神殿の敷地内に過ぎない。そもそも、それ以上外に出ることはあまり歓迎されていなかった。
周囲もグレーテルのことをものぐさな平民だと思っているようだ。“花冠の乙女”の名自体はありがたがるもののグレーテル個人に対しては腫れ物に触るような対応しかしない。誰からも一定の距離を保たれていた。だが、今さらそれで寂しがるほど繊細ではなかった。遠巻きにされるのは慣れている。
そんな風に過ごしていたら、月日はあっという間に過ぎていった。いつのまにかもう冬だ。以前聞いたヴィルフリートの誕生日はもうすぐそこまで迫っていた。
「ねえヴィル、明日はあたしがいいって言うまで出てこないでね」
稽古の合間を縫うようにして、そのための準備は進めていた。プレゼントだってちゃんと用意したのだ。ヴィルフリートが何を喜ぶのかはいまだにわかっていないが、なんでも喜びそうな気もする。
料理人にはすでに話を通してある。稽古が終わり次第、すぐにこの部屋に彼の好きな料理を持ってこれるよう手筈は整えていた。部屋の飾りつけの準備もしてある。あとは明日の夜までに、ここを二人だけのパーティ会場に変えるだけだ。
「娘、お前の考えることなどお見通しだぞ。だが、どうしてもというなら仕方ないな!」
ヴィルフリートは満面の笑みを浮かべて消えていった。それを見届けて、グレーテルは小さく己を鼓舞する声を出した。
*
たくさんの料理が載ったワゴンを押しながら、グレーテルは足早に自室へ向かう。思ったより稽古に時間が取られたせいで、もうすぐ日付が変わってしまいそうだ。急がなければ。
「おや、グレーテルさん。こんばんは。そちらは……夕食でしょうか。今日はお部屋で召し上がるのですね。ずいぶんと多いようですが」
「……こんばんは、ハインツさん。魔術師は結構大食らいなんですよ。魔力を維持しなければいけませんから」
途中出くわしてしまった青年神官に向け、足を止めて笑顔で頭を下げる。嘘は言っていない。一般的な魔術師からすれば標準的だろうが、一般人からするとグレーテルもかなり食べるほうだ。その細い身体のどこに入るのだと言われれば、魔力に変換されているだけだと言うしかないが。
それでもワゴンには料理の大皿が所狭しと並べられている。二人分、それもただでさえグレーテルより食べる成人男性の分もあるのだから。本来なら食を必要としない魂だけの彼が摂取した栄養がどこに消えていくのかはさっぱりだが。文字通り消えてしまうのかもしれない。
「ああ、そういえばグレーテルさんは魔術師でしたね。お噂はかねがね。確か、紅薔薇の魔女と……」
「はい? 何のことですか? 誰かと間違えているのでは?」
「……いいえ、こちらの話です。どうかお気になさらず」
黒茨の魔王でもあるまいし。そんなたいそうな名前で呼ばれたことはない。
王都にまで名前が売れているのは喜ばしいことだが、グレーテルはただの学生だ。いくら珍しい自己流の魔術を使えるからと言っても、それはありえないだろう。グレーテルが怪訝そうにしているのに気づいたのか、ハインツははっとしてすぐにあいまいな微笑を浮かべた。
「ああ、そうそう。毎年この時期になると、王宮で大きな夜会が催されるのです。正式な招待状はまだですが、花冠の乙女役ということで貴方も招待されるでしょう。ぜひご参加ください。もちろん、エスコートはさせていただきます」
今度はグレーテルがあいまいに頷く番だった。花冠の乙女として正式な式典に参加することもあるからと、礼儀作法は多少叩きこまれている。だが、いきなり王族のいる場にいけと言われてもまだ心の準備ができていない。
「ところで、本日はどうなさったのでしょう。聞けば、しばらく前から珍妙なものを部屋に運んでいるようですね。今日にいたっては、朝からメイドすらもお部屋に入れてくださらないそうですが」
アメジストの瞳は優しく細められている。けれどその奥には、グレーテルへの疑いがあった。
(ああ、そういうこと。この人は、探りを入れるためにわざわざ話しかけてきたのね)
つまるところ、ここでグレーテルがハインツに会ったのは偶然でもなんでもないのだろう。花冠の乙女が不審な動きをしていたから、その本性を暴くために高位神官直々にやってきたのだ。
グレーテルを中央神殿に連れてきたのはハインツだ。彼は何かと権力者や神殿との橋渡し役のように振る舞ってくるし、グレーテルのお目付け役とかそういったものなのだろう。グレーテルをここまで連れてきた責任もある。花冠の乙女が自分の庇護下にないと、色々と不都合が出てしまうのかもしれない。
「ごめんなさい。でも、あたしはもともとただの学生ですから。もちろん花冠の乙女としての勉強には手を抜きませんけど、あたしが本来やるべき魔術の勉強もおろそかにできないんです。それに今日は、あまり人に会いたい気分ではなかったので」
まさか正直にヴィルフリートの話をするわけにもいかない。だから魔術師という名を利用する。魔力のない一般人は、魔術師についての理解が浅い。だから魔術師が『そういうもの』だと言えば、『そういうこと』になってくれる。
それにグレーテルは花冠の乙女でもある。気分を害して逃げたりしたら、竜鎮祭にけちがつく。困るのはハインツ達だろう。グレーテルが『なんでもない』と言い張れば、それはハインツ達にとっても『なんでもない』ことでなければいけない。
「それはそれは。無粋な詮索をしてしまいました。申し訳ございません。そうですね、竜鎮祭が終われば、グレーテルさんはまた元の暮らしにお戻りになるのでしょう。いっとき身を置く場所が違っただけで、本来歩むべき輝かしい未来が閉ざされることはあってはいけません」
ハインツは含みのある笑みを浮かべた。うまくごまかせたとは思わない。彼は譲歩して、『そういうこと』にしてくれた。
多分これは、釘をさす意味もあるのだろう。花冠の乙女だからと調子に乗って、その座の栄誉にしがみつくことのないように。平民は平民らしく分をわきまえて、竜鎮祭が終わったらさっさと帰れということだ。
そんな忠告などされなくても、神殿に長居する気などない。グレーテルは慇懃に一礼し、ワゴンを押して立ち去った。
「可哀想に。自分に未来などないことも知らないで。……いや、それこそが僕の罪か。僕が何もしなければ、こんなことにはならなかったんだから。あの子を守るためにすべてを欺いた僕には、グレーテルさんを憐れむ資格なんて……」
大切な幼馴染を想い、ハインツは小さくため息をつく。小さな嘆きは誰にも届かず、夜の闇の中に消えていった。
*
「ねえ、ケーキには何本ロウソクを差せばいいの? そもそもあなた、今年でいくつ?」
「この身体は二十のもののはずだが、少なくとも五百は越えているぞ。数は多ければ多いほどいいな。盛大に差しておけ! 煌々と輝く炎を燃え上がらせるのだ!」
「いやよ。ケーキが燃えちゃうじゃない。そもそもそんなに差す場所がないわよ。二十本も厳しいわね、二本でいいか」
「娘!? さてはお前、俺の意見を聞く気がないな!?」
ヴィルフリートと一緒に料理をぱくつく。あげたプレゼントはどれも喜んでもらえた。開封するたびに少年のようにはしゃいだ声を上げるので、聞いているこっちも嬉しくなった。
「人に誕生日を祝われたのは久方ぶりよ。そんなことをしたのは師と……そうだな、あの裏切者ぐらいのものか」
裏切者とは、きっとフロリアスの賢王のことだろう。それに触れるのははばかられ、グレーテルは目を伏せた。
「ヴィルにもお師匠様がいたのね。どんな人?」
「うむ。黒茨の塔の元のあるじだ。食えない偏屈爺だったが、俺にとっては師でもあり育ての親でもある。名も杖も生まれた日も師から与えられた。そして師の死後に、俺は師のすべてを受け継いだのだ」
そう言ったヴィルフリートの目には懐かしさと愛おしさ、そして少しの寂しさがにじんでいた。
「そういえば娘、お前には好いた男はいないのか?」
「ッ!?」
そう言われたのは、テーブルの上の料理が半分以上二人の胃袋に消えていったころだった。
突然の一言が予想外すぎて、スープが変なところに入ってしまった。激しくむせるグレーテルに水を差しだしながらもヴィルフリートは何でもないことのように続ける。
「乙女役と勇者役であるせいで、どうしても接する時間が長いからだろうな。お前が勇者役の小僧に懸想しているとかいう妙な噂が立っているぞ。お前も面白くないだろう。浮いた話が一つもないからこそ下世話な噂の題材にされるというのも考え物だな。まあ、お前は常日頃からこの素晴らしすぎる俺を見ているのだから、他のつまらん男など眼中にないのかもしれんが」
口の端にホイップクリームをつけて何を言っているのだろう、この自称悪魔は。水をごくごく飲み干し、グレーテルはげんなりとぼやく。
「なにその噂……」
「なお最悪なことに、小僧のほうには恋人がいるらしい。厄介なことになる前に訂正したほうがよかろう」
そういえば、最近ラインハルトがいっそう冷たくなっていた気がする。彼も彼で噂を真に受けていたのだろう。そんな振る舞いをしていたつもりはないが、祭りの主役に抜擢された目障りな平民が気に食わない誰かの陰謀なのかもしれない。
グレーテルはため息をつく。思わず口をついて出たのは、日頃の疲れと夜の楽しさが混じって漏らしてしまった言葉だった。
「じゃあ、あなたが恋人の役をやってよ。もうすぐ王宮でパーティーがあるらしいし、ちょうどいいわ。こっちにも恋人がいるってわかったら、そんな噂もすぐ下火になるでしょう」
「うん? なんだ娘、その役を俺に頼むか! ふははは、仕方あるまい! 俺を見すぎて目の肥えたお前が、俺でしか満足できないのも当然よ!」
「……あっ」
「はーっはっはっはっはっ! いいだろう! お前のその夢、叶えてやろう!」
「ちょ、ま、」
「俺の姿を視てしまった女達はたちまち頬を染めて迫ってくるだろうが、何も心配することはない。俺はお前の気持ちをよく知っているからな。何もかも俺に任せておけ。悪いようにはしないぞ」
手を取られてぐいっと迫ってこられると、不覚にもどきりとしてしまう。普段はうるさいせいで忘れかけていたが、この男は黙っていればかなりの美形だ。凛とした声でまっとうなことを言えばさまになる。口元にクリームはついているが。
「学友だと見破られるかもしれん。故郷の幼馴染ということにするか? いや、ここはやはり異国の旅人だな。吟遊詩人、商人もいい。そしてその正体は、遠い国の王侯貴族! 俺は普段から大魔術師すぎるから、たまには違う役どころを演じてみるのも面白そうだ!」
「あ、あまり大げさにしないでよ!」
大魔術師すぎるってなんだ、とグレーテルは頭を抱える。がらにもなくときめいてしまったが、ほんの一瞬なので間違いのようなものだ。
「わかっている、わかっている。俺が有名になって遠いところに行くのが怖いのだろう? 俺を求めた権力者や女達がどうにかして俺の杖を手に入れようとしないか、とな。案ずるな。俺の杖を扱えるのはお前だけだ。そうである限り、どんなときでも俺はお前に応えよう」
「違うわよ馬鹿!」