見ぬは平穏知らぬは救い
「ヴィルってば、やっぱり準備してくれてたんだ」
部屋のドアを開けると、中の様子はすっかり様変わりしていた。香しいバラはどこから摘んできたのだろう。やはり彼の居城からだろうか。黒い茨の中にはひっそりと紅いバラが咲き乱れているのかもしれない。
握りしめた杖に魔力を流す。小さな声で呪文を唱えると、面白くなさそうな顔をした悪魔が現れた。
「……ふん。俺の完璧な計画が台無しだ」
そう言いながら、悪魔はぼすんと椅子に座る。ロウソクをケーキに突き刺しながら、さっさとしろと言いたげにグレーテルへ視線を向ける。
「とにかく飯を食うぞ。お前も腹が減っているだろう。話はそれからだ」
「……ええ、そうしましょう」
悪魔が指を鳴らすと、温かい料理から湯気が立ち上がった。大きなカモのローストにマッシュポテト、それからグラタンと冷製コーンポタージュ。他にも名前のわからない料理がたくさんあって、凝った飾りの白いケーキもある。どれも見るからにおいしそうなごちそうだ。
「すごいわね。これ、全部あなたが?」
「当然だ。俺は料理の腕も天才的だぞ。師に仕込まれたからな。一か月もあれば食材の調達も下ごしらえも、盛り付けまで含めて完璧だ。なに、食べきれなかったらまた保存の魔術をかければいい。気の向くままに貪れ!」
かかと笑うヴィルフリートだが、いつもより勢いがない。自分でもその自覚があったのか、ヴィルフリートは気まずげにグレーテルから目をそらした。
「で、例の……なんと言ったか、花冠の乙女とはなんだ」
「簡単に言うと、お祭りの主役よ。破壊神フォイアを鎮めるために、創造神ディースが選んだ花嫁のこと。乙女に選ばれた人は、竜鎮祭で勇者と一緒に演舞をするの。竜鎮祭はルーグランツの伝統的なお祭りだから、知らないのも無理はないわ」
竜鎮祭は、一年に一度訪れる建国を祝う祭りのなかでも特に特別なものだとされている。建国の祝典の中でも、竜鎮祭と銘打たれるのは百年周期の年だけだ。次の竜鎮祭は二年後だった。
竜鎮祭では、神託によって選ばれた花嫁役の娘と英雄役の男が建国の伝承を再現する。まだこの国が国ではなく、破壊神フォイアの化身である双頭のドラゴンの住まう荒野だったころの物語だ。
ある時、とある恋人が破壊神フォイアと創造神ディースの託宣を同時に受けた。フォイアからは、死と破滅を振りまく恐ろしいドラゴンを鎮めろ。一方のディースからは、その邪悪なドラゴンを討ち取れと。
フォイアの託宣に従い、乙女は自ら供物として身を投げた。そして男はディースの託宣に従って剣を手にしてドラゴンを貫いた。すると、ドラゴンは真の姿である破壊神フォイアになった。彼は二人の勇敢さを讃え、己の領地であったそこを譲り渡すのだ。
すべては二柱の神が与えた試練だった。そして、このドラゴンを打ち倒した勇者こそがルーグランツ王国の初代国王だ。彼は無謀な神の命に従い、そして人の身でありながら神に挑んだ忠誠と勇気の報酬としてこの二柱の神より国土を賜ったとされている。
「ん……? そういえば昔……いや、俺もそこまで熱心に聞いていたわけではないしな。まあ、何か別の話と混ぜて覚えていたのだろう。そんなこともある」
竜鎮祭と花冠の乙女についての説明を終えると、ヴィルフリートは怪訝そうな顔で何かをぶつぶつと呟いた。
グレーテルに任命されたのは、この乙女の役だ。勇者の役は王家の血を引く人間がやると決まっている。そんな高貴な相手と芝居をするのは荷が重かったが、それが神託だというなら仕方ない。
百年に一度の竜鎮祭は、人はいつでもあの日の試練を忘れないと神に示すための儀式であり、人にこの地を与えたもうた神に感謝を捧げるための祈りだ。それの主催でもある花冠の乙女と勇者がいなければ、竜は怒り狂って国を荒らすとされている。だからこそ、竜鎮祭と舞はないがしろにはできなかった。
「俺は確かに賑やかなのは好きだが、いるかもわからん神のための祭りなどくだらなくてあくびが出る。そんなものより俺を讃える祭りでもすればいいのだ」
「でも、結構壮大で見ごたえがあるらしいわよ。あたしも見たことはないんだけどね」
「みじんもそそられんな。……まあいいだろう。お前が主役を張るというなら、見てやらんこともないぞ。だが、たかが祭りというのに大げさだな。そんなもののためにわざわざ託宣を下すとは、神とやらもだいぶ暇らしい」
「竜鎮祭はルーグランツにとっては大切なお祭りだし、花冠の乙女だって大事な役職だもの。しょせんお祭りの間までの地位とは言っても、伝承通り神託によって選ばれるのよ? 練習したり、衣装を合わせたり、それから万が一にも乙女役の人の身に何かあったりしないように、何年か前から準備をはじめるらしいわ」
きっと、大勢の人の前で踊ったり喋ったりするのだろう。今からもう気がめいる。二年の猶予のうちに、少しでも“花冠の乙女”が板についてくれるといいのだが。
「明日から、ハインツさんと一緒に王都に行くみたい。中央神殿で暮らすことになるらしいけど……ついてこられるわよね?」
そっと彼の様子をうかがう。わかりきったことを、と言わんばかりにヴィルフリートはにやりと笑った。
* * *
「よしっ、グレーテルが来た!」
階下を見下ろし、クリステルは小さくガッツポーズをする。“勇者”の役をラインハルトが担うことは変えられなかったとはいえ、それ以外はすべて順調だった。ラインハルトに殺人の咎を負わせるのは心苦しいが、どうせ相手は悪い魔女。彼が良心を痛める必要はない。そもそも彼女は“生贄”なのだから、ラインハルトが罪に問われることもないだろう。
ラインハルトとは無事恋仲になれた。攻略対象の中には高貴な身分の者も多い。ラインハルトは公爵家の嫡男で、おまけに王子達の従弟にあたる。花冠の乙女にならないクリステルが彼と出逢うためには、ゲームとは違うアプローチが必要だった。しかしそれは難しいことではない。クリステルは十四歳という若さにして、神殿で二番目の権力者なのだから。
前世の知識を最大限に活用して、様々なものの発展に尽力した結果得た地位だ。知識チートの恩恵で、クリステルは覚醒した六歳のときからずっと奇跡の子としてもてはやされていた。
最近のもっぱらの仕事は聖職者達の頂点に立つおばあちゃんの話し相手だったが、それはつまり彼女の後継者と目されているということでもある。気づけば周りから巫女姫と呼ばれるようになったが、花冠の乙女さえ回避できるならなんでもよかった。
この国の第一王子ダミアンと第二王子ロルフ、公爵家の長男にして勇者ラインハルト、護衛の騎士ニコラウス、そして高位神官ハインツ。悪魔ヴィルフリート以外の攻略対象はすでにクリステルと知り合っている。ラインハルトが新ヒロインのほうに惹かれるかもしれないという一抹の不安はあった。だが、杞憂に過ぎなかったらしく、すでに彼はクリステルの虜だ。本来のゲーム開始より早く知り合ったおかげか、進展も早かった。
階下の広間では、花冠の乙女の任命式が執り行われていた。初めて目にするグレーテルは、記憶にあるものよりも若干子供っぽく見える。本来のゲーム開始は来年だからだろうか。
『いさおと』の紅薔薇の魔女グレーテルを一言で表すなら、妖艶な悪女だ。クール系の顔立ちやメリハリの効いた体型など、クリステルとは何もかもが反対だった。きっと、クリステルの可憐さがより引き立つようデザインされているのだろう。
前下がりのショートボブは血のように紅く、黒曜石の瞳はキッと前を睨むように見つめている。ゲーム通りのキツめの美少女だが、トレードマークだったあの邪悪な魔女っぽい服でないだけでだいぶ印象が変わるらしい。勝気そうな雰囲気はそのままだが、純白のドレスをまとって佇むグレーテルは、ゲームの立ち絵と同じ顔をしているがまったくの別人のようだった。
「ヒロイン役は押しつけ完了っ、と。これでわたしは名実ともにただのモブになったわけで。……ま、ちょっとモブにしては目立ちすぎた気がしないでもないけどね」
死亡フラグばかりの乙女ゲー世界に転生するのも大変だ。けれどここは『いさおと』であって『いさおと』ではない。自ら主役を降りて舞台袖に下がった少女は、浮かべる笑みを深くした。
* * *
頭が真っ白のまま顔合わせを終える。自由に使っていいと案内された部屋に入るなり、グレーテルはドアにずるずるともたれかかった。
中央神殿に着くと同時に通された広間で何をしていたか、正直なところよく覚えていない。偉い人達が長い話をして、勇者役を任じられた少年の顔をちらりと見た。それだけだ。
先に荷物をこの部屋に運びこまれていたため黒茨の杖は手元になかったが、ヴィルフリートはわざわざ顕現して広間についてきてくれた。もし彼が傍にいてくれなかったら、心細さと緊張のあまり倒れていたかもしれない。
「……嫌な気配がする」
「ヴィル、どうしたの?」
顔を上げる。ヴィルフリートは片目を押さえていた。眼帯で封じられた右目だ。彼は片目を悪魔に捧げたというが、その傷跡がうずきでもしているのだろうか。
「む……。いいか娘、ここはやはり神の聖域だ。他のどことも比べ物にもならんぐらいに聖なる気が強い。どうやら悪魔と契約した俺は、あまり歓迎されていないらしい。まあ、出ていけと言われても居座ってやるがな! むしろ、神にここまで手厚く迎え入れられると心地がよいわ! しかしそれも当然か、俺は神すら恐れる大天才なのだから!!」
そう言ったヴィルフリートは、居心地悪げに視線を彷徨わせることもなく堂々と胸を張って高笑いをしていた。傲岸不遜な彼らしい様子に笑みがこぼれる。
「娘、少しの時間でいい。俺に実体を与えろ」
「わ、わかったわ」
積みあげられた荷物から黒茨の杖を引っ張り出す。溢れそうなほどに魔力を流して呪文を唱えた。
たちまち半透明だったヴィルフリートの身体が実体を得る。ヴィルフリートは数度手を握ったり開いたりしていたが、ややあって真剣な目でグレーテルを見つめた。
「俺の杖は、とっくにお前の魔力に染まっている。それを塗りつぶせるのは俺ぐらいのものだ。そして俺自身も、お前の魔力に引き寄せられた。……まだ皆伝だとは言わんが、お前の実力は認めてやろう」
杖を持つグレーテルの手に、ヴィルフリートの大きな手が重なる。温かかった。
「俺は奴隷を王にした賢者だ。きっとお前も、そういう魔術師になるだろう。誰かに何かを望まれ、そしてそれを叶えてやるだけの力がお前にはある。……だが、王は結局俺を裏切った。佞臣の口車に乗せられたあの男は、俺を排斥することを選んだのだ。お前を頼り、お前をもてはやす者も、いずれはお前を見捨てるだろう。天才とは常に孤独なものよ。凡人とは相いれない定めにあるからな」
ゆえに他者など顧みるな。お前はお前のためだけに、その力を使えばいい。誰より傲慢に、誰より不遜に、バラのように気高く美しく在れ――――声音は厳しく、けれど深紅の瞳は優しい。
「孤高の果てに目指すは頂点のみだ。それこそがお前にふさわしき栄華だと知れ。お前は俺の一番弟子なのだから、当代一の魔術師になってもらわねば困る。……しかし案ずるな。俺は常に、ここにいる」
わざわざ触れさせた肌の感触と温度はその証明だろう。グレーテルが他の何を切り捨てても、ヴィルフリートだけは変わらず在るという。
グレーテルは頷き、強気な笑みを見せる――――彼の期待は、自分の夢でもあるのだから。
「わかってる。いつかあたしはあなたより強い魔術師になって、あたしを馬鹿にした世界のすべてを見返すの。絶対、魔術師のてっぺんに立ってみせるんだから」
「ははっ、俺を越えるだと? 言うではないか! 百年経ってから出直して来い!」
大笑するヴィルフリートを前に、グレーテルもつられてふっと微笑んだ。
*
「……平民が調子に乗るなよ」
今日の練習がすべて終わると同時に、冷めた瞳の少年がそう吐き捨てる。花冠の乙女の相手役、勇者ラインハルトだ。王家に連なる由緒正しい公爵家の嫡男らしく、外見だけで言ったらまさしく物語の王子様といった風貌だが、その実氷のように冷たかった。
「多少は踊れるようになったが、まだまだだ。神に捧げる舞踏だぞ。死ぬ気で舞えよ」
「はぁ」
しかしそれは、どこか悔しさのにじむ声だ。傍らに控える講師ヨハンナとトマスも、驚きに満ちた目でこちらを見ている。
きっと、いくら神託があったとはいえ、何の教養も身につけていないはずのグレーテルではまともに練習についてこられないと思っていたのだろう。
だが、修行としてヴィルフリートから課せられたものの中には礼儀作法や体力をつける特訓も数多くあった。集中力を養ったり魔術の行使による疲労を軽減したりするためのものだったが、思わぬ役立ち方をするものだ。
(正直、ラインハルト様や先生よりヴィルのほうが厳しかったし。この程度なら、そんなにつらくもないわね)
三年間の魔術の特訓を思い出し、グレーテルは苦笑した。こと修行において、ヴィルフリートは厳しいところは厳しく甘いところはとことん甘い。大声でけなしてくるし、それとまったく同じ声量で褒めてくる。そして何より、この講師のように鞭やら棒やらを持ち出してはこない。課してくる課題は鬼のようだが。
「まったく、弱い犬ほどよく吠えるものよな」
そう言ったのは、部屋の隅ですべてを見ていたヴィルフリートだ。やれやれとため息をついて立ち上がり、ラインハルトをじろりと睨みつけた。
「貴様がステップのタイミングを誤った回数は十三回、伸ばした腕の角度が足りんかったのは五十二回、踏み込みが甘くよろけたのは八回だぞ。娘の心配をする前に、まずは自分がしゃんとしたらどうだ!」
こう! そしてこうであろう! とヴィルフリートは完璧な振り付けを見せつけてくる。毎日はたで見ていたせいですっかり覚えてしまったらしい。さすがは自分を天才と豪語するだけのことはあるだけの完成度だ。惜しむらくは、それがグレーテル以外の目には見えないことだが。
「お前達もだぞ講師ども。手に持ったその棒で互いの頭でも叩いていろ。何も詰まっていない空っぽの頭だ、さぞいい音が響くだろうな!」
竜鎮祭で舞う舞踏の練習を初めて一週間ほど経ったが、二人が持った体罰用の道具が振るわれたことはない。それは完全にグレーテル用だと想定されていたらしかったが、彼らが思っていた以上にグレーテルが優秀だったからだ。さすがに公爵家の嫡男に対して怪我をさせるような指導はできないらしい。
「きょ、今日はこのあたりで終わりにしましょう。明日はお休みですが、きちんと復習をしておくように。明後日はこの続きからやりますよ」
ヨハンナとトマスはいそいそと出ていった。ラインハルトもグレーテルには一瞥もくれずに立ち去っていく。残されたグレーテルは半笑いでヴィルフリートを見た。
「ちょっとヴィル、あんまり笑わせないで」
「仕方ないだろう。物申せねば気が済まんのだ。奴らがあまりにも能無しなのが悪い」
ヴィルフリートは聞き分けのない子供のように口を尖らせた。そのまま彼は何かに気づいたように広間の入り口を指さす。
「ほら、終わったならば早く戻るぞ。向こうで置物が暇そうにこっちをうかがっている」
「そうね、ニコラウスさんを待たせたら悪いわ」
平民にすぎないグレーテルだが、任命された大役のためなのか護衛や使用人がつけられていた。離れたところからこちらを見ている仏頂面の青年ニコラウスもその一人だ。
まだ二十歳前後のようだが、かなりの実力を持つ騎士らしい。とはいえ、見た目だけで言えばヴィルフリートよりも若い。才能の前では年齢も些事ということだろう。
そんなすごい人にわざわざ自分の護衛なんてさせるのも申し訳ない。だが、こちらから断るというのも失礼なのでとりあえずそのままにしてある。たとえ中身が平民であっても、花冠の乙女の側に仕えるというのは名誉なことでもあるらしい。彼のほうでも納得していると思いたかった。
駆け寄って謝罪すると、ニコラウスは小さく礼をして歩き出した。その歩調は少し早いが、時折小さく振り向いてくることから一応気を配られてはいるようだ。
「花冠様、明日のご予定は?」
「え?」
部屋まで送られ、扉を閉めようとした直前にニコラウスにそう尋ねられた。護衛として、グレーテルの行動は把握していなければならないのだろう。
「特にはありませんよ。せいぜい、図書室で本を読もうかなと考えているくらいです」
「かしこまりました。では、失礼いたします」
中央神殿に連れてこられてから、初めて与えられた休日だ。さすがに毎日毎日舞の稽古をしていると疲れてくる。王都観光としゃれこむ気力もない。
中央神殿内の案内は初日の時点でされていた。グレーテルが行っていい場所もある程度は把握している。ちらりと見かけた大きな図書室には貴重な文献がありそうだったので、のんびり読書でもして過ごしたいところだ。それから、両親に手紙を書こう。近頃慌ただしかったせいで、誕生日に届いたメッセージカードの礼もできなかった。
たっぷり寝て、好きなことをしていれば、多少は英気も養える。ふわ、とあくびが漏れた口元を手で覆い、グレーテルはふらふらとベッドに倒れ込んだ。