触らぬ悪魔に呪いなし
* * *
「遅い!」
グレーテルの部屋の中央で仁王立ちし、ヴィルフリートは苛立たしげに叫んだ。
宴の準備は抜かりない。いつグレーテルが帰ってきてもよかった。魔術でふくらませた色とりどりの風船やリボン、家から摘んできたバラで部屋を飾りつけた。家中から引っ張り出してきたカトラリーを使って料理もきちんと並べた。あとは二人で席について魔術で料理を温めるだけだ。
祝いの場にふさわしいような、愉快な音楽を流す魔道具もある。グレーテルが帰ってきた直後にばらまく予定の花弁と紙吹雪もばっちりだった。彼女の驚く顔が見たかったので、小さな空砲に色々詰め込んでみたのだ。ケーキに立てるロウソクだって忘れていない。さすがは大天才、我ながらすべてが完璧だ。
――――それなのに、グレーテルが帰ってこない。
グレーテルがいなければ、何一つ始まらないのに。いつもの帰宅時間はとっくに過ぎていた。普段なら部屋にいていい時間だ。
「まったく、亀にも劣る歩みだな。この俺を待たせているというのに、一体どこで拾い食いをしているのだ……」
精神的にも肉体的にもグレーテルは強い。なにせ自分が手塩にかけて育てた一番弟子なのだから。ゆえに彼女のことは何も心配していない。心配などしていないが……いい加減、ここで待ち続けるのも飽きてきた。
いっそ、直接迎えに行ってやろう。ヴィルフリートも知らない場所にいられれば即座にグレーテルのもとに現れることもできないが、黒茨の杖は彼女の手元にあるはずだ。そうであるなら、顕現に支障はない。しびれを切らしたヴィルフリートは仏頂面で姿を消した。
* * *
「この俺をここまで待たせるとは、ずいぶんいい度胸をしているな!」
「ッ!?」
突然、何もないところから人が現れた。響くのは男の怒声だ。グレーテルは驚いてとびのくが、闖入者の正体がヴィルフリートだと気づいてほっと胸を撫でおろした。
「ん? なんだ、その服は。今宵の宴に備えてめかしこんでいたのか? それはいい心がけだが、遅くなるならせめて一言言ってからにしろ」
ヴィルフリートは怪訝そうな顔をした。今のグレーテルは学園の制服ではなく、白くゆったりとしたドレスを着せられている。神殿の神官達から渡されたものだ。
一目見ただけで高価なものとわかる衣装を、まさか自分が身にまとう日が来るとは。いつ汚してしまうかと気が気ではなかった。
「違うわよ。好きで帰ってないわけでもないわ。……というかヴィル、あなた本当に名ばかりね。ここ、神殿の中なのよ? 嘘でも悪魔を名乗るなら、もうちょっと自重したら?」
「減らず口を叩きおって。神殿だと? 何のために来たのだ? お前に祈る神がいたとは驚いたぞ」
「あたしだって神様にぐらい祈るわよ。確かにそこまで熱心な信徒じゃないけど」
ヴィルフリートと話していると、なんとなくいつもの感覚が戻ってきたような気がする。わけもわからず連れてこられて、飾り立てられて、一人で小さな部屋に押し込められて。その緊張と恐怖がほぐれていった。
「寮に帰ろうとしたら、突然呼び出されたの。もしかしたら、あなたのことが気づかれたのかも……」
「優れた魔術師は、往々にして雑魚の恨みを買いやすいぞ。奴らは鳥頭ゆえ、物事を正確に覚えられなくてな。どいつもこいつも、ないことないことでっち上げて騒ぎ立てる。昔は俺もよく異端の烙印を押されたものだ。お前もそれではないか?」
この青年がいる風景はもはや日常になっていたし、何より彼が悪魔だというのはただの自称だ。グレーテルにとっては魔術の師ということもあってすっかり忘れていたが、世間一般で言うところの“悪魔”とかかわりを持つことは禁忌中の禁忌だった。
これから自分は、悪魔の業を受け継いだ悪しき魔女として裁かれてしまうのかもしれない。彼のことは誰にも秘密にしているが、何もないところを見つめながら一人で喋っている姿は目撃されている。「ちょっとヘンな子」という評価が、巡り巡って「悪魔憑き」に仕立て上げられてしまう可能性はなくもなかった。仕立て上げられると言っても、半分本当のようなものだが。
「まあ、何かあっても軒並み蹴散らせばいいだろう。お前にはそれができるだけの力がある。神の威を借りる子豚どもなど敵ではない。無論俺も、手を貸すのはやぶさかではないが」
ヴィルフリートはのんきにそうそそのかしてくる。神殿に反旗を翻すなど背徳もいいところだ。とはいえ、“悪魔”らしいと言えばらしい。
「自称悪魔のくせに、本当の悪魔みたいなこと言うじゃない」
いい意味で調子が狂わされる。大丈夫、やはり彼は何も変わっていない。たとえこれから先に何が待ち受けていても、ヴィルフリートはこれまでと同じように笑みを浮かべているのだろう。
「確かに俺は本物の悪魔ではないが、人は本当に俺をそう呼んでいたのだぞ? 玉座の影にひそむ悪魔、とな。今となっては魔王という名のほうが有名になったが。やれやれ、元は賢者だ魔術王だと崇められていたというのに、それすら忘れられてしまった」
「魔王ですって? やだ、まさか黒茨の魔王だなんて言わ――」
冗談めかした言葉は不意に途切れた。視線の先にあるのは死守した杖だ。他の荷物は使用人達に取られたが、この杖だけは決して誰にも渡さなかった。
結局買った時のまま大きさに手を加えていなかった杖。グレーテルがこれを持って立っていると、ちょうど頭の真横に紅い石が並ぶ。けれどヴィルフリートほどの身長ならちょうどいいだろう。
黒いその杖の全体には茨が巻きついているような装飾が施されていた。茨の色もまた黒だ。
今は亡き隣国、フロリアス王国にまつわるおとぎ話がある。賢い王様と勇敢な騎士達が、悪い魔王を倒す物語だ。
魔王の名は黒茨の魔王。それ以外の名は伝わっておらず、また語られることもない。悪逆の限りを尽くしていた不死の魔王は、やがて国そのものを手中に収めることを望んだ。しかしその野望は賢王によって阻まれ、逆に斃された。
力を失った魔王は、茨で閉ざされた塔の中に封印されているという。その塔を覆うのは、この杖と同じく黒い茨だ。
黒き茨の塔は確かに隣国だった地にあって、今ではそこはこのルーグランツ王国の領地になっていた。魔王のおとぎ話のせいで、その周辺は人も寄り付かない寂しい土地になっているそうだが。
「黒茨の、魔王?」
「……今の世に伝わる話の大半は、路傍の石ころどもが負け惜しみで作り上げた創作だがな。そのころの俺は、普通にフロリアスの王に仕えて、普通に魔術の研究をして、普通に魔術の道を極めていただけだ。それ以前に打ち立てたものも含めて、俺の功績はすべて盗人どもに奪われるか時の流れに消え去るかしてしまったが」
ヴィルフリートはそっぽを向いた。もうほとんど答えのようなものだ。
「じゃあ、あなたが透けてるのは塔に本体が封印されてるから?」
「奴らに封印されたわけではない。傷が癒えて呪いが解ける日まで、眠ることを甘んじて受け入れただけだ。そこを違えるなよ。俺の身体は永い眠りについているが、かつて俺が愛用していた杖を触媒にすることで魂だけ現実に顕現させているのだ」
そういえば三年前、武器屋の店主は言っていた。「この杖はフロリアス王国の宮廷魔術師が使っていたものだ」と。「俺の杖」と、ヴィルフリートだってこの杖のことを呼んでいたじゃないか。
「俺を召喚できる杖」、「俺が宿っている杖」……ずっと、そういった意味での言葉だと思っていた。けれど、「俺が持っていた杖」というのが正しかったなら。杖のあるじになったはずのグレーテルが、杖に宿る悪魔のように振る舞う彼のあるじではないという言葉の意味も腑に落ちる。
「か……返したほうがいいのかしら?」
グレーテルが何に視線を送っているのか、ヴィルフリートも気づいたのだろう。ヴィルフリートはやれやれと肩をすくめた。
「いらん。黒茨の杖はすでにお前のものだ。今の俺はもう、俺自身が魔術触媒のようなものだしな。今さら杖など使わない。目覚めればまた杖が必要になるだろうが……そのときは、新調するだけだ。それともなんだ? 娘、お前はこの俺の杖がいらないとでも言うつもりか?」
「いいえ! そんなこと、あるわけないじゃない!」
元の所有者もこう言っていることだし、これからもありがたく使わせていただこう。……まさか、たった銅貨十枚で魔王の杖を手に入れてしまっていたとは。
「とにかく、俺は『魔王』の名は好かん。そう呼ばれるようになった経緯はほぼ冤罪だからな。それならまだ、その通り名がつく自覚があった『悪魔』という名のほうがいい」
「そっちの名前は認めるのね……」
ため息をつく。ちょうどそのとき、部屋のドアがノックされた。慌てて返事をする。やってきたのは一人の美しい青年神官だ。ヴィルフリートの姿は視えないはずだが、無性に緊張した。
「こちらからお呼び立てしたのに、お待たせして申し訳ありません。少し準備に手間取ってしまって。……ああ、ご挨拶もまだでしたね。初めまして、グレーテルさん。中央神殿が一等神官、ハインツです。どうかよろしくお願いいたします」
「……初めまして。ところで、ご用件はなんでしょう?」
ハインツと名乗ったその神官は丁寧に一礼する。中央神殿は王都にある大きな神殿だ。おまけに一等神官ということは、かなり高位の聖職者だろう。だが、高い身分も丁寧な物腰も、気を許す理由にはならない。グレーテルとの間にある心の壁に気づいたのか、ハインツは苦笑を浮かべた。
「実は一か月前、神託が下されたのです。グレーテルさん、貴方は“花冠の乙女”に選ばれました。儀式の日までは神殿で過ごしていただきます」
「花冠の乙女? なんだそれは」
ヴィルフリートは独り言のように呟いた。しかしさすがに神官の目の前で虚空と喋り出すわけにもいかない。しばらく彼の相手はしないほうがいいだろう。ヴィルフリートもそれを察したのか、「終わったら喚べよ」とだけ言い残して消えていった。
「あたしが? 何かの間違いではなく?」
「信じられないのも無理はありません。ですが、託宣書はこちらにあります。どうぞご確認を」
ハインツが羊皮紙を差し出した。それを受け取ってしげしげと眺める。確かに、『花冠の乙女となる者の名はグレーテルである』と記されていた。
託宣書は、神の声を聴く神子が神降ろしの儀式により綴るものだ。触ることができるのはごく一部の限られた聖職者だけで、偽装はありえない。
(それにしても、ずいぶんと下手な字ね。ところどころスペルを間違えたみたいに潰されてるし、バランスも悪いわ)
儀式中は神子の意識はほぼないというから、そんなものなのかもしれない。グレーテルはそのまま羊皮紙をハインツに返した。
「確かにそう書いてありますけど、この“グレーテル”があたしのことだっていう確証はないんじゃないですか?」
「いえ、花冠の乙女に選ばれたのは確かに貴方です。巫女姫がそう断言しました。この“グレーテル”というのは、魔術師“グレーテル・ローゼンガルト”のことであると。我々は巫女姫の言葉を頼りに貴方を探し出し、ようやく貴方を見つけ出したのです」
「巫女姫……?」
聞いたこともない名前だった。信仰の象徴にして聖職者の頂点、神子とは違うのだろうか。
「クリステル様……神子様の側仕えの少女のことです。当代の神子様はご高齢ですから、彼女が次代の神子様と目されています」
「そうでしたか。……わかりました。謹んでお受けいたします」
断る、という選択肢はなかった。神の、神子の言葉は絶対だ。
グレーテルは周囲に流された程度の信仰心しか持たない田舎者だが、神殿に逆らっていいことはないというのはよくわかっている。もしもそんなことをしたら、その時こそ本当に異端者として弾圧されるだろう。
「ありがとうございます。これで世界の平和は保たれるでしょう。ではさっそく、グレーテルさんには中央神殿にお越しいただきたきたく存じます。外に馬車を待たせてありますので、」
「ちょっと待ってください。まさか、今すぐですか? 荷造りぐらいはさせてほしいので、一日でもいいから猶予をいただきたいんですけど……」
慌てて言い募る。おとなしく従うことには従うが、これぐらいの譲歩は認めてもらいたい。ハインツはわずかに考え込むそぶりを見せたが、ややあって頷いた。
「かしこまりました。では明日、お住まいの場所までお迎えに上がります。今日はひとまず、そちらまでお送りいたしましょう」
ハインツに連れられて馬車に向かう。まだドレスは着たままだったが、制服を含めた手荷物は返してもらった。このドレスは多分、高位神官であるハインツに会うためのものだったのだろう。そんなに偉いはずの彼は、わざわざグレーテルを送るために一緒に馬車に乗り込んできた。これでは悪魔を喚び出せない。
杖をぎゅっと抱きしめて、窓から流れる外の景色を眺める。ハインツが振ってくる雑談も、生返事しか返せなかった。