蒔いた種ならいずれは生える
* * *
「あぶない、クリステル!」
どどどどど、という勢いにある音に混ざってハインツの悲鳴じみた声が響いた。
幼馴染の少年はいつだって穏やかで、めったなことで取り乱したりはしない。それでも今日は、その瞬間は、何故だか非常に慌てているようだった。
「え、」
振り返ったクリステルの目に映ったのは、こちらに向かって一心不乱に飛び込んでくる暴れ馬と、真っ青な顔の幼馴染で。
とっさに避けようとしたものの完全にかわしきることはできず、小さな少女は軽々と吹き飛ばされて意識を失った。
幸いにも、直撃はまぬがれたうえに弾き飛ばされた先に干し草の山があったため、頭は打ったものの負った怪我自体はかすり傷で済んだ。
しかしクリステルは一晩目を覚まさず――――そして目が覚めたとき、腹の底から絶叫した。
「お……思い出したぁぁぁぁぁぁ!?」
「ク、クリステルっ!?」
傍にいた看護師やハインツが目を白黒させるのも構わず、クリステルは頭を抱える。
(ここ……うそ、でも……こんなことってある!? まさかここが、ゲームの世界だなんて……!)
頭を打った衝撃で、クリステルはあることを知ってしまった。いや、思い出してしまった。自分の前世についてのことを。
クリステルはあくまでも六歳の小さな女の子に過ぎないのに、昨日まで知識としては持っていなかったはずのことや……この世界の常識とはかけ離れた考えすらも、今では心の片隅を占拠している。
前世といっても、当時の名前や暮らしぶりはよく覚えていない。ただ、今とは違う生活をする、まったくの別人だったときの記憶がおぼろげにあるだけだ。それ以上前世の自分について思い出そうとしても、雲を掴むような感覚があるだけで何もわからなかった。前世の自分を思い描こうとすると、そこだけもやがかかってしまうのだ。“前世の自我”はもうクリステルの中にはほぼ残っていないが、“前世の知識”は継承したということだろう。
その中でも、特に鮮明に覚えているのが『偽りの咲く花園で~贄の乙女と悲哀の剣~』、通称『いさおと』という乙女ゲームだった。“Carte d'invitation”という同人サークルが製作した、フリーの同人ゲームだ。対象年齢が十五歳以上ということもあり、肌色のスチルが多かったが……画面が真っ赤になるスチルもそれに負けず劣らず多かった。
前世の自分が、どういう経緯でそれをプレイするに至ったかははっきりとしない。それでもかつて自分はそのゲームをプレイした。最推しルートの名シーンをいくつも一言一句違えずそらで言えるまでやり込んだ。そして――――にわかには信じられないが、ここはそのゲームの世界だった。
黒茨の塔に眠る魔王のおとぎ話とか、世界を統べる二柱の神にまつわる神話とか。聞き飽きた物語の類ですらも、『いさおと』の世界を彩るフレーバーテキストの一つだ。そして“クリステル”こそ、『いさおと』のヒロインのデフォルトネームで、“ハインツ”はヒロインの幼馴染として登場する攻略対象の名前だった。
(待って。ここが本当に『いさおと』なら、ライ様もいるんじゃない? “クリステル”と“ハインツ”は、立ち絵より見た目がかなり子供だけど、ハインツルートの過去回想で見たスチルとほぼ同じだし……うまくすればショタライ様も見られるかも)
いざここが『いさおと』の世界だとわかると、情熱が力強く燃え上がる。
『いさおと』は、決して万人受けする名作でもなければ誰もが知っているメジャー作品でもない。知っている人だけ知っている、コアでマニアックなゲームだ。製作側の“Carte d'invitation”ですら、実体のわからない弱小サークルだった。
シナリオも、乙女ゲーというには邪道寄りのものだ。やり込みを想定されているのかセーブ関連やスキップ機能は充実していたが、それはつまりルート分岐と攻略のためのフラグ管理が面倒くさいということでもある。だが、それでもその濃密なストーリーと全体的に漂うダークさ、そして美麗なイラストからごく一部のマニアなゲーマーからカルト的な人気を誇っていた。
前世の自分も、熱狂的に『いさおと』にはまっていたくちだ。ごく少数の有志が起ち上げた攻略サイトを巡回し、時には自分でそこに情報を提供し、時間を忘れて何周もプレイした。
そこまで打ち込んだ理由はただ一つ――――攻略対象の一人にして最推し、勇者ラインハルトの生存ルートを探すためだ。
『いさおと』のサブタイトルである“贄の乙女”は“クリステル(名前変更可)”を、そして“悲哀の剣”は“ラインハルト”を指している。公式サイトのトップに掲載されているイラストでもラインハルトが結構な大きさを占めているし、キャラ紹介でもヒロインに次いで二番目に名前が挙がっているので、制作側も彼をゲームの顔であるヒーローだと想定しているのだろう。
しかしそれだけの扱いを受けていながら、ラインハルトのルートは不幸の一言に尽きた。あるいはその悲恋こそ、『いさおと』の世界観を表しているのかもしれないが。
『いさおと』は、ごく普通に孤児院で暮らしていたヒロインが神託によって“花冠の乙女”というものに任命されたことから物語が始まる。
“花冠の乙女”とは、簡単に言ってしまえばラスボスであるドラゴンに捧げられる生贄だ。そんな真実を知らないヒロインは攻略対象達と仲を深め、そして迎えてしまった生贄の儀式の日に殺されそうになる、というのがおおまかな筋書きだった。
もちろんヒロインはルートに入った攻略対象とともに死に抗おうとするのだが――――ヒロインを殺す役を担う者こそ、勇者ラインハルトだった。
ラインハルトのルートにおけるメインのバッドエンドを迎えた場合、ラインハルトはヒロインを手にかけた後に病み、ヒロインを妹同然に可愛がっていたハインツに復讐として殺される。一方でハッピーエンドでは、ヒロインの身代わりとなって自分が贄として自殺する。
つまりヒロインと恋に落ちたなら、どうあがいてもラインハルトは死んでしまうのだ。
救いようの欠片もないそのエンドはどちらも鬱くしいスチルも相まって「ツンデレが最期に見せた最大のデレ」とファンに呼ばれるほどの名シーン……なのだが、前世の自分にはそれがどうしても受け入れられなかった。
確かに死ネタは嫌いではないし、ラインハルトの死にざまはどちらも鬱くしすぎてそこがいい――――だからこそ、彼と生きて結ばれる未来がほしい。希望のある、幸せな結末がほしいのだ。
(そうだ……もしこれがゲームの通りなら、このままだとライ様が死んじゃう! それだけは絶対に阻止しないと!)
ラインハルトに生きていてもらうには、他の攻略対象とエンドを迎えるしかない。しかし一部の攻略対象のルートではラインハルトが敵として立ちふさがり、結局彼を殺す羽目になる。
そもそも前世の自分は、ラインハルトとの恋愛を生きて成就させたかったのだ。他の男でカップリングを成立させていても意味がない。
(しかも死ネタ多めだから、メインのバッドエンド以外にも死亡フラグが転がってるんだよね。特にグレーテルには気をつけないと)
『いさおと』にはラスボスのドラゴン以外にも数多くの悪役が登場する。そんな彼らの中でもひときわ存在感を放っていたのが、真紅の薔薇を飾ったつばの広い黒の三角帽がトレードマークの魔女グレーテルとそのしもべの悪魔ヴィルフリートだ。
グレーテルと言えば、かの有名な童話のお菓子の家に住む魔女に囚われた兄妹がまっさきに思い浮かぶ。けれど『いさおと』のグレーテルに兄はおらず、おまけに彼女自身が悪い魔女だった。
ラスボスであるドラゴンが花冠の乙女に待つ悲劇のための舞台装置なら、序盤から登場して場をひっかきまわすグレーテルは実質的な障害といったところだろう。レギュラーキャラクターの若く美しい女性でありながら、友情エンドあるいは百合エンドも存在しない悪役が登場すること自体が、『いさおと』が異質な乙女ゲームであることを示していた。
力を求めて闇に堕ち、そしてすべてを失った悪役。それが魔女グレーテルだ。ルートやイベントによっては悪魔ヴィルフリートと共にコミックリリーフとしてプレイヤーの笑いを誘うこともあったが、その根底にあるのは美しくも冷酷な悪女というキャラクター性だった。その道化の仮面は、相手の油断を誘うための演技なのだ。
ヴィルフリートというのがこれまた中々のイケメンで、実のところ彼は隠し攻略対象だった。特定の条件を満たしたヒロインが魔女を殺すことで、ヴィルフリートのルートが解放されるのだ。
ヴィルフリートルート自体の出来は決して悪くない。暗くて耽美な、禁じられた悲しい恋だ。ほろ苦くて視界が滲む鬱くしさという点ではラインハルトルートと一位、二位を競うだろう。しかし彼のルートではことあるごとにグレーテルの影がちらつくので、全体的な評価は低かった。
乙女ゲームにおいて、攻略対象の過去の女は往々にしてプレイヤーに嫌われるものだ。グレーテルもその例に漏れない。彼女を攻略するルートは存在しなかったし、あったらあったで荒れたかもしれない。
前世の自分も、グレーテルのことは嫌いだった。理由は簡単だ。バッドエンドの一つにグレーテルによって攻略対象あるいはヒロインが殺されてしまう、通称グレーテルエンドというものがある。ラインハルトルートでも、そのグレーテルエンドに至る分岐がいくつも用意されているからだ。
(魔女を返り討ち。悪い魔女にはお似合いの末路だけど、ヒロインのしたこともなかなか不穏だよね。それこそ『いさおと』だって言えばそれまでだけど。まあそんなことより、どうやってライ様の死亡フラグを回避するか考えないと)
必死で頭を巡らせる。しかしどれだけ記憶をひっくり返しても、ラインハルトルートにおいては平穏なエンディングは存在しなかった。
全体のストーリー、各キャラのルートの内容。それをなぞりつつ、あることに気づいてしまったクリステルはさぁっと顔を青ざめさせる。
(まずい……! ライ様だけじゃなくて、花冠の乙女も一歩間違えれば死んじゃうんだよね!? できればそんなリスクはなくしたいんだけど!!)
正攻法では、“花冠の乙女”と“勇者”の恋にハッピーエンドは訪れない。クリステルとラインハルトが生きて幸せになれる未来はない。けれど、そうだ――――それなら、自分達が“花冠の乙女”と“勇者”にならなければいい。何故ならここは現実だ。ゲームにはできなかった選択ができる。
(わたし達以外の誰かに死んでもらう。殺せない相手を殺す。何度も邪魔してくる悪役を、邪魔させてこないようにする。それがいっぺんにできる方法があるじゃん……!)
ラインハルトがどこに住んでいて、どこに行けば会えるのかは知っている。好きなもの、理解されたいこと、寄り添ってほしい心の傷、望まれる選択肢、必要な行動。すべて頭に入っていた――――恋仲になるのはたやすいだろう。
プロローグでヒロインが“花冠の乙女”になるというだけで、フラグイベントも、手に入るアイテムも、別に“花冠の乙女”でなければ回収できないというわけではない。多少難易度は上がってしまうだろうが、クリステルが“花冠の乙女”でなくても恋愛はできるのだ。
クリステル自身に不思議な力は備わっていない。クリステルが“花冠の乙女”になるのは、“クリステル”が“『いさおと』のヒロイン”だからだ。それ以上の理由などない。なら、別の誰かを新しいヒロインに仕立て上げることだってできるはずだろう。
神託が下されるのは、今から十年後だ。そのころにはハインツはもうとっくに神官になっている。ハインツに頼んで神託を改ざんしてしまえば、クリステルではない誰かが“花冠の乙女”になれる。どこかの誰かが“花冠の乙女”になって、ラインハルトに殺されれば。どこかの誰かが“勇者”になって、クリステルではない“花冠の乙女”を殺してくれれば。そうすれば、クリステルとラインハルトが死ぬ必要はなくなる。
ヒロインがグレーテルを殺すのに使ったのは、別の攻略対象のルートをクリアすることで手に入るアイテムだった。
前の周回でそれを手に入れたからこそ、魔女を返り討ちにするという隠しイベントが起きたのだろう。しかし、今すぐにそれを手に入れることはできない。かといって特別な武器なしであの恐ろしい魔女に挑むのは無謀だ。
“花冠の乙女”はあくまでもただの贄。自身も強いうえに更にそれより強い悪魔を従える魔女グレーテルに立ち向かえる力なんてなかった。
だが、いくら脅威を排除するためとはいえ、何もクリステル自身が手を下す必要などはない。
“勇者”ならきっと魔女を殺せる。おいしいところだけもらってしまおう。どうせ相手は嫌いな悪役だ。そもそももとはNPCなのだから、心はちっとも痛まない。
クリステルはにまりと笑った――――グレーテルに、全部押しつけちゃおう。
グレーテルが“花冠の乙女”になるまで決して接触してはいけない。彼女の周囲をこそこそとかぎ回るような真似をしていたら、どんな危害を加えられるかわかったものではなかった。そもそも、ゲーム開始以前の彼女がどこで何をしているかなどまったく知らないが。
「ハインツお兄ちゃんは、神官になるのが夢なんだよね? わたし、応援してるから。ハインツお兄ちゃんならぜったいなれるよ!」
「えっ? あ、ありがとう。僕、がんばるよ」
はにかむハインツを横目に、クリステルは笑みを深める。その小さな胸に灯るのは野望の光だ。
(主役の座はあげる。わたしは絶対端役になって、愛する彼と幸せになってみせるんだ!)
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