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ずっと、後悔していることがある。
彼女の声に、耳を傾けなかったこと。彼女の涙を、ただ見つめていたこと。
彼女の叫びを、重んじて受け止めてあげなかったこと。
―――後悔先に立たずとはよく言ったものだ。大切なものは、失ったときその価値の大きさに気付かされる。
よく聞くようなお涙頂戴の話だろうけれど、僕の懺悔をどうか、聞いてほしい。
彼女――こと井上真理奈と出会ったのは、高校に入学した日のことだった。出会ったというよりは、同じクラスになったと言った方がしっくりくる。
僕は自他共に認める冴えない学生で、休み時間は友達と戯れることなく一人読書に没頭する人間だった。まあ、友達なんていなかったし作る気もなかったというのも補足しておこう。一人というのはかなり気楽なものなのだ。
彼女も僕のように友達がおらず、窓際の自分の席から空を見上げてぼうっとする姿ばかり見られた。僕の席は後ろの方で、一人でいるにしては綺麗に伸びている彼女の背筋が毎日見えて、どうしてだか気になった。孤独を恐れず堂々としている姿と、それにしては空を見上げ、時として頬杖つきながら思考に没頭している様子がなんだかちぐはぐしているように思えてきて、数日経ったとある日に、なけなしの勇気をかき集めて話しかけてみた。その日は薄黒い雲が空一面に広がっていて、お世辞にも天気がいいとは言えなかったこと、けれどそんなことに構うことなくずっと空を見つめている彼女の姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。ついでに言うと、彼女は珍しいことにその日は長い髪を下ろさず二つに結っていた。
「いつも空見てるけど、なんかあるの?」
唐突すぎただろう僕の言葉に驚くこともせず、こちらを一瞥するとすぐに彼女はこう返答した。
「別に、何も」
嘘だと、思った。根拠なんてものは一つもない、俗に言う直感。
すぐに首を動かし視線を空へと戻した彼女は、再び自分の世界へ閉じこもろうとしていて、慌てて言葉を続けた。
「何もないなら、僕と少し話してくれないかな」
「どうして?」
「井上さんのこと、入学してからずっと気になってたから」
訝しむような眼差しを向けられ、焦った僕はしかし表情筋を働かせることなく手を振る。
違うという意を伝えながら数回振った右手は、情けないことに少し震えていて。それに彼女が気付いていたのかどうかは、今となっては確かめようもない。
「いつも一人だから、気になったんだ」
「一人なのは佐藤君も同じじゃない」
「まあ…そうなんだけど」
気まずさから頬をかくと、くすりと笑われる。大人びた雰囲気を漂わせていた彼女の、少し幼さを滲ませたその表情にどうしてだか安心する。と同時に何か重みも感じて、胸がもやっとし、それを逃がすように無意識に息を吐く。
今思えば彼女はこの頃から、抱えている重荷の気配を仄めかせていたのだ。けれど人の機微に敏い僕でさえ、彼女のそれにその時ばかりは気付かなかった。
気付けなかった。
…気付かないふりを、していたのだ。無意識に。己の面倒くさがりな部分が、悟ることを拒んでいた。
「佐藤君って、毎日本読んでいるよね。面白い?」
何の脈略もなくそう尋ねてきた彼女の瞳には純粋な興味心で満ちているように思えて、僕は微笑みすら浮かべて魅力を語るため口を開いた。
「面白いよ。読書ってためになるし、楽しいし、」
「人と関わらずに済む口実にもなるよね」
だから―――彼女のその言葉には、声音の冷たさには、ひやりとさせられたのだ。無表情で見上げてくるけれど、その対称に彼女の眼差しはその意を雄弁に物語っていて。的を得ていた彼女の言葉は、見事に図星だった。戦慄した僕は、驚愕できっと目を見開いていただろう。
「私と似ているもん、佐藤君。だからわかるの」
「………」
「察してくれるよね。私も一人がいいの。だからもう、話しかけてこないで」
つっけんどんに言い放つのでも、嫌味ったらしく不敵な笑みを浮かべるでもなく彼女はそう淡々と告げ、戸惑う僕を無視して今度こそ視線を逸らした。