3.せんぱい6
玄関を降りてきたせんぱいは、自動販売機の白い光に照らし出されて、その表情は、無機質で妖しい感じがした。
闇の中にこのまま溶けてしまいそうな、不確かな儚さがあった。
「何買うの?」
その声は、とてもやさしく降りて来たので、ほっとした。ああ、いつものせんぱいだ。知らない顔を見てしまった気がするけれど。
「虫がいるからやっぱりやめようかと思ってたの」
「……あ」
お財布を取り出そうとしていたせんぱいが、玄関の方に振り返った。
「誰か、階段を降りて来た」
「え! 」
あたしは、声を上げようとしたけれど。
「し」
せんぱいは、さっと動いて、右手の人差指を立て、あたしの唇に当てた。
どき!
鼓動はどんどん早くなる。どくっと熱い血が巡る。
せんぱいは、玄関の方の様子に耳を澄ませていた。
「ぁの」
「しずかに」
声をあげそうになったあたしの唇に、立てた指をさらに押し付け、あたしを見た。
至近距離で、滾る炎のような眼差しが揺れ、見つめている。濡れた前髪も艶っぽくて。
あたしは動けなくなってしまった。
動けないのは、せんぱいの瞳から目を反らせないからなのか、誰かが来たからなのか、……分からない。
絶対に、気付かないで! 静かな緊張の中で、耳をすます。……はずだっったのに、せんぱいの指が唇から離れたと思ったら、そっと動いて。
次には、すっぽりと抱きしめられていた。
あまりに一瞬の出来事だった。
「大丈夫だよ」
耳元で囁かれて、熱い息がかかり、あたしは、さらに全然大丈夫じゃなくなって、ぞくぞくした。
なんで、こういう状況になっ、た?
あたしは、熱にうかされたような、ふわふわした気分だった。
刺激が、強すぎて……。
せんぱいが、体をおこした。
探るように、せんぱいが見ている。あたしは、やはり動けなかった。動ける訳がなかった。
せんぱいは、右手であたしのあごに触れ、気持ち顔を上向かせた。
「へえ。
湯上がりでのぼせちゃった?
……ほっぺが、あかい」
それは、せんぱいの、せい。
それ以上、挑発、しないで。
それから手をすべらせて、右の頬をやさしく包んだ。
せんぱいの手の平、なんてあったかいんだろう……。
気持ちいい……。
あたしは目を閉じた。
せんぱいの親指が、頬をやさしく撫で続け、何にも増して心地いい。少しの間、そうしてせんぱいを感じていた。
それから静かに目を開けて、せんぱいを、見ると。
せんぱいも目線を、あたしに向けた。身の内に熱情を秘めた目で、愛しそうに、まっすぐ見つめかえしている。
「せんぱ、い」
お互いの視線が、絡み合った。
それは、短い時間だったけど、すごく長かったようにも感じられた。あたしはとても満たされた気分になった。
せんぱいが、もう一度あたしをそっと抱きしめた。
「大丈夫っていうのは、息を止めなくても、大丈夫ってことも含まれてるから」
せんぱいは、あたしを抱きしめたまま、旅館の中の階段を通りかかった人に聞こえないよう、小声でくすくすと笑った。
道理で。
くく、苦しいと思ったら。
いろいろと、びっくりし過ぎたのと。せんぱいの雰囲気が、ちょっと怖かったりもしたから。あたしはこちこちになっていたみたい。