2.バスにて2
びくっと、身体をすくめるあたし。
急な出来事に、身動きもできず、ただ目を大きく見開くあたし。
とたんに、目の前で、急にせんぱいが、ふっと笑ったかと思うと、瞳の奥にいたずらっぽい光が浮かんだ。
掴まれる、と思ったのに、腕はさらに伸びて、ううん、方向を変えて。
そして、あたしの顔を見たまま、前の座席の補助席を、
ガタン!
と、倒した。
「くっ……ははっ」
何が起こったのかよくわからなくて、目が点になってるあたしから、顔を反らして。
せんぱいは、立ったまま、堪え切れない、と言ったように勢いよく笑い出した。
ええっと、えええええっと?
「ちょっとー、1年からかうのやめなさいよー」
左隣から真弓先輩の眠そうな声がして、あたしは振り向いた。
あたしは、せんぱいが、近付いてきたのにびっくりし過ぎて、のけ反ってたらしくて。
「急に、ドンってぶつかってきたから、目が覚めちゃったー」
「真弓先輩、すみません。なんか、なんか、すすすみません」
しどろもどろなあたしの口から、そんな言葉が出た。
「やだあ、こいつが悪いのよー」
真弓先輩は、『こいつ』を強調して、今笑っている人をあごでしゃくって言った。
「お前ねえ、しょーもないことすんなよ」
弦巻先輩も、苦笑してる。
「ごめん、ごめん」
立ったまま、右前の座席の背もたれの上部に、肘をついて笑っていたせんぱいが、やっと笑いをおさめた。
いつの間にか、なんだなんだ、という感じで、前の方の1年や、2年生の先輩達も振り向いていた。
「ほらー、かわいそうにー。
はい、はい、おしまい、おしまーい」
真弓先輩は座ったまま、虫を追い払うみたいに、手をしっしっとやった。
弦巻先輩も、立ち上がって、手をパンパンと軽く叩き、
「酔うから前向け、前」
と言った。
みんなはまだ何があったの?という表情をしながらも、副将が前を向けと言うので、顔を引っ込める。
「朝早かったんだから、寝かせなさいよー」
真弓先輩は、だるそうに言って、また上着を被って寝る態勢に戻った。
そして、立ったままだったせんぱいは、もう一度あたしを見た。まだ必死に笑いをかみころしている。
「からかわないで、ください」
あたしは、恥ずかしさでいっぱいになって、憤然と言った。なんか、なんか、超唐突過ぎて、意味分かんなかったんですけどっ。めちゃめちゃ恥ずかしい反応しちゃったんですけどっ。
「おまえ、1年からかうの、まじ好きなー」
弦巻先輩は、やれやれって感じだ。
せんぱいは、時々こうやって、あたし達後輩をからかう。特に3年生が引退してからは、前より遠慮がなくなった気がする。
あたしは、本当にこういう所に困ってる!っていうか、からかわれるの、やだ!悔しすぎ!
なに考えてんの。なにが楽しいの、もおっ。
せんぱいは、座席の背に掛けてあったコバルトブルーのウィンドブレーカーを持って、元の通り、あたしの隣に座った。
そしてウィンドブレーカーを腿の上に置いて、シューズのまま、両足を、今倒した補助席に放り投げた。
「真ん中でも、これで快適だろ」
弦巻先輩達の方を見て、軽い調子で、そう言ってから。
「ね?」
今度はあたしの方を見て、いつもの笑みを浮かべる。間近で見る笑顔の目元が、不覚にも、(全く不覚にも!)キラキラしていて、ずきゅんとやられてしまった。
「靴脱げよな」
弦巻先輩のあきれた声が上がる。
あたしは、バスに乗ってから2回も、あのいじわるな目に、引っ掛かってしまった。なんでこんなに簡単にいつも策略に引っかかちゃうんだろう。
せんぱいと、隣同志になったらなったで戸惑い、離れるかもと思ったら、寂しいと感じる。心って、なんてこうも変わるものなんだろう。わたし、なんて勝手なの。
せんぱいの、浮かべる笑みは、今もきらきらと爽やか。
本当にいつも。
超ヨユーで。
振り回されてばっかの、あたし。
しかも、みんながいる前で。
今度という今度は、許さない!そうだ、そうしよう、許さないもん。
そう決意してるあたしの隣で、せんぱいは、ウィンドブレーカーをひらっと広げて、ていねいに自分の足にかけた。
あたしにも、ちょっとだけかかったなと思ったら。
!!!
ウィンドブレーカーの、下で。
何気なく置いてあった、あたしの右手の上に、せんぱいの温かい左手がそっと動いて重なった。
みんなからは、見えないように。
密やかに。
あたしの手は、大きなせんぱいの手に、やさしく、包まれた……。
この、狭いバス。
みんなの、中で……。
それから、あたしの指一本一本に、あたたかい指が静かにやさしく絡んできた。
手から伝わるやさしい温もりは、あたしの心から、いとおしさをとろけ出させていく。
さっきの悔しさも、決意も、一瞬で消え去りそうになって。
隣のひとは、あたしの動揺なんてお構いなしに、あいかわらず涼しい顔で、前を見てる。
あたしの中では甘さが勝っていって……。
油断大敵。
全く、このひとときたら。
……右に。
ちょっぴり、重心が傾いてしまうあたし。