つ づ き 3
婚約発表後、改めて私は咲子とランチをしているのだが、段々咲子は涙ぐんできている。
「私の旦那は日本人だけど、彼は北海道出身だから習慣の違いも大きくて、ブルテリアに転勤になった時も、本当についていくか悩んで悩んで……」
「そうだね、北海道って、独特の文化があるよね。アイヌ語もたくさん残ってるし、地方からの開拓者が集まって出来た言葉もあるっていうし」
「あと私ね、結婚してからもずっと前の仕事をやる気でいたの。付き合ってた時も、旦那は絶対に転勤はない、って言うから安心して、式の段取りも全部前の会社で手配して、このままずっとこの会社にいます、ってアピールしてたわけ」
驚いた。咲子の旦那、商社なのに、転勤がないって言ってたって?
「でも商社だから、ある程度覚悟しないと……」
「いや、旦那はね、独身の時中東に駐在してるの、二年間。私はその時に友達の紹介で知り合ったんだけど、その時は日本に戻ってくるから、付き合ってください、って言ってたわけ。それがまあ、結婚してから三か月もたたないうちに、海外へ転勤って……。離婚しようかと思ったわ」
「えええ?たったの三か月で?」
「実は、私の前の会社から近いところのマンションを借りる手はずになってたわけ。家電もそろえて、運び込むだけだったの。新しいマンションに入る前は、私と旦那は旦那のアパートにいたけど、式が終わってから新しいマンションに少しずつ移動することになってて、改装が終わってさあ引っ越し、となったら、転勤ですって。馬鹿にするんじゃないってねえ」
「えー。じゃあ荷物どうしたの?買っちゃったんでしょ?」
「そうよー。大きな冷蔵庫とか、あげられるものはあげた。改装費用は無駄になったし、大家さんにも一日も入居せずにキャンセルだから、保証金も敷金も戻って来ないって言われたし、仕方ない」
「そんなの……酷いじゃない、旦那さんも。いくら仕事だからって」
はあ、と咲子はため息をつく。
「本気で離婚考えたし、旦那は先にこっちに来て、一人で暮らし始めたわけ。私も週末はホーンへ来て、少しずつ考え始めたんだけど、やっぱり仕事はしたいなあって」
「前の会社好きだったんだね。すごいな、そんな思い入れないけど、私」
「惚れ込んで入った会社だったからねえ。だから、就活をホーンでしてみて、駄目だったら離婚、って言ったの」
「すごいね、仕事命」
「紀恵んとこは、専業主婦でしょ、お母さん。でもウチは商家だから、女性も働いて当たり前なの。実家だって離婚大歓迎よ。仕事辞めるくらいなら、家に戻ってこいって。ま、実家の商店を手伝え、っていう意味もあるんだろうけどね」
「妹も結局仕事辞めたし……。まあウチの考え方は古いんだろうけど、仕事は辞めても家庭を大事に、って感じかな」
「でもブルテリアはさ、ある意味日本より恵まれてるでしょ?メイドやベビーシッターサービスを利用して、女性も働けるから。だから、決めた。中東だったら、女性の外出も難しいから、離婚してたかも」
「そ、そんなあ」
私が思わず声を出すと、咲子はきっぱりと言い切った。
「いい、紀恵?結婚は現実よ、長い人生なの。だから、ちゃんと話し合って、本音でぶつかり合って、傷ついて傷つけても、絶対二人で解決できるって信頼することが、大切なのよ。ウチだって、お盆の時期がお互い違ったし、お彼岸には北海道はお赤飯炊いて、しかもそれが甘納豆入り。驚くというより、気味悪かったわ」
甘いお赤飯……?そ、それは確かに想像の域を超える。お赤飯って、ごま塩かけて食べるくらい、しょっぱいものでは?
「だから……紀恵、きちんと話し合って、幸せになってね。相手が王族だろうが何人だろうが、同じことだと思うの。黙っていると、マンチェクさんだって不安になると思うよ」
「何で不安なの?期待に添うように、一所懸命やってるつもりなのに」
「それがねー。紀恵、愛されてるのよ、自覚ないだろうけど。マンチェクさんの視線て、それはそれは優しいもの。そういった控えめなところや、一所懸命なところが、マンチェクさん気に入ったんだと思うけど、たくさん我慢してるんじゃないかって、私から見ても思うもの」
きらり、と咲子の目が潤む。けどそれは思ってもみない言葉だった。
週末は、勉強の復習に追われていたが、ジョージの離れに移ってから、なるべく彼や家族(という事は、王族)と過ごすことが増えた。これは皆さんなりの配慮で、王宮内部を見学させてもらったり、別宅を訪れたりして、何とか私に早く環境に慣れてもらおうという目的らしかった。
「ルイーズさん、あの鳥かわいい」
私たちは、とうとうバードウォッチングのため、保護区である湿原地そばの別邸に来ている。
ジョージは代表を務めている団体の表彰式があるとかで、一日ふさがっていた。
「あら、ゆっくり歩きだしているわ。こちらに来ないかしら」
私たちは観察小屋の中にいる。この小屋は、周囲の景色に溶け込んだデザインで、パッと見には建物だと気づかない。従って、鳥たちもすぐ近くまで来てくれるのだ。
頭に黄色い王冠のようなものをつけ、スズメより一回りほど大きい青い鳥が、ゆっくりとこちらに歩いてくるのが見える。
真っ白いトキのような鳥は、カップルで湿地帯の泥をつっついている。食事中なのか。
そして見渡す限りの青い空と緑の森。
ホーンの中にあって、まるで都会の喧騒を置き忘れたような景色。
今ここにいるのも現実、そして毎日都会で暮らしているのも現実で。
ふと、思い出した。私は最近まで、あの中に存在していたんだ。
「仕事、決まったんですか?」
私はルイーズさんに聞いた。彼女は就活中だったのだ。
「一つ、やっと最終面接まで行ったの。決まったら、ここを出て宿舎で暮らさなきゃならないけど」
「どこに行くんですか?」
「多分、北区。最北端かな。決まったらだけどね」
「でも王族が……最北端に住んでいいんですか?」
ふふん、とルイーズさんは鼻歌で、
「仕事だから仕方ないですもの。護衛の方には迷惑かけちゃうけど、仕方ないわ」
そして、私の顔を見て、
「紀恵も、遠慮することないのよ。本当に会社に行きたければ、続ければいいの。公務を減らして、自分の仕事をすればいいのよ。そうでないと続かないわ」
「え……?」
「日本人は真面目ね、そして周囲との調和を図ろうとする。これは立派よ。でもね、自分を上手に主張する、という事は、王族にとって必要なスキルなのよ」
国民はね、とても私たちに期待しているの。だけど、人がやれる事には限りがあるのよ。期待に添いつつ、しかも自分の思い通りにする。例えば、ジョージ兄のこの結婚がそう。
「国民は、第二王子の結婚に対して、童話のような物語を期待していたのよ。だから、紀恵との出会いを上手くドラマチックに演出したでしょ?」
そう、先の婚約発表で私の名前を公表した時、ジョージはこう説明した。
「私と彼女とは、十年前に偶然出会っています。そしてまた、仕事を通じて彼女を見かけたとき、運命を感じたのです」
仕事をつづけたければ、独立した女性を演じ、キャリアで王子を支えるというイメージを作ればいいし、王宮に入るのであれば、ブルテリアの伝統や歴史に興味があるという学者肌のイメージを作ればいい。マーケティング戦略と同じ、と。
ルイーズさんの話はある意味衝撃だった。マーケ戦略の一つとして、今の状況を考えろ、という事なのだ。私は商社のマーケでかなりの経験がある。これを使え、という事なのだ。
「なるほど……。自分がなるべく合わせようと思っていました。これは、続かないんですね」
「ジョージ兄も、国王陛下も、王妃殿下も、そんなのは望んでないわ。お願い、紀恵、どうか幸せになって」
幸せ……
ええ、幸せになりたい。でも、私……不幸に見えるのかなあ。それもまた、自分で認めたくないというか、うーん。まだ私、混乱しているのか。
「いきなり何で、ルイーズさん?私、幸せですよ。皆さん優しいし、ジョージも色々手配してくれて、私が安心して暮らせるように、気を配ってくれてますし」
「ジョージ兄はねえ、かなり強引だから……。それに紀恵の事本当に心配してるの。王宮暮らしが嫌で逃げ出さないか、って。いわば、自由に飛べる鳥を、動物園みたいに檻に入れてしまえるのか、って」
「動物園……はは」
まあ、外に出られない代わりに、三食昼寝付(実際は忙しいが)なら、動物園か。たくさんの観客もいるし。
それにしても。
「私、何かまずいこと言いましたか?それとも失敗しました?」
「やあね、紀恵。そんな事じゃないのよ。あのね、私たち王族はみんなそういう時期があるの。だから、それをシェアしたいだけよ、前向きに。だから紀恵、何がしたいのか、言ってみて」
何がしたい……私は、何がしたい?
「それが一番難しいんです、ルイーズさん。私、別に何もないんです。海外に住むのが夢だったので、もう夢はかなってるんです」
「仕事は?」
「別にずっと続けたいわけでもないんです。ビザの為には働かなくてはいけなかっただけで」
「ずっと宮廷内にいる?」
「それも想像できません、正直。でも、自分に何が出来るか考えると、ジョージを支えることなのかな、と思って」
「日本人女性は、結婚後は専業主婦だもんね。参ったわー」
その情報は少し時代遅れではあるが、妹の事を考えると、主婦にならざるを得ない人もいるので、それは黙っていることにした。
「小さいころの夢はないの?」
あ、それは……。
それは、ジョージにも前に聞かれた。何になりたかったかって。
「わ、私、物書きになりたかったんです。ずっと前から、作家になりたかったんです」
そう言うと、ルイーズさんは軽く吹き出した。
「それは素敵。私たち、プライバシー保護で大変なのに、紀恵は逆に発信したいのね。いい考えだわ」
それから数日後、私とジョージのブルテリア語レッスンが終了した後、アンソニーさんが部屋に入って来た。
言ってみれば応接室のような場所でレッスンを受けているので、アンソニーさんが来てもおかしくはないのだが……
「田中様、ご無沙汰しております」
「アンソニーさん、そんなにかしこまらなくても。どうか名前で呼んでください」
すると、アンソニーさんはジョージを見、彼がうなずいたのを待って、言い直した。
「分かりました、紀恵様。実は蔵人所からご提案がありまして」
「はい」
「広報を手伝っていただきたいのです。外部広報と、王宮と宮廷の宮内広報があるのですが、紀恵様には宮内の広報全般に関わっていただきたいのです」
「え?広報ですか?何をすればいいのでしょうか?」
「宮内だよりの作成を手伝っていただけないでしょうか。編集したり、記者としてインタビューしたり、取材して記事を書いていただきたいのです。勿論お忙しい時は他の者がカバーします」
「記者になるんですか?本当に??」
いいのかしら?とジョージを見ると彼も驚いた顔をしている。
「へえ、紀恵が記者に?それはいいなあ、紀恵、物を書きたいって言ってたじゃないか」
「いいの?本当に?」
ジョージは何を聞いてるんだ、と言った顔で、
「紀恵がいいならいいさ」
アンソニーさんもにっこりして、
「以前申し上げましたが、王宮や宮廷には職員は二千人ほど、それに宮廷警察や近衛師団も合わせると、三千人近くになります。彼らやその関係者が読者になりますから、外部広告もつきますし、ちょっとしたミニコミ誌なんですよ」
「それはやりたいです!」
ブルテリア語を使う機会も増えるだろう。願ったり叶ったり。
「それでは、ご結婚後に改めまして、お願いに伺います。お話を受けていただくのを、心よりお待ち申し上げております」
私も待ち遠しい!
記事が書けるんだ、広報が出来るんだ。そう思うと嬉しかったし、とても楽しみだった。
アンソニーさんが退席した後、ジョージはそっとわたしを抱きしめた。
「よかったな……。紀恵の嬉しい顔を見るのが、一番嬉しい」
「うん、だって夢だったんだもの。マーケにいても、中々広報誌に噛むチャンスなかったし。外国に来てからは、ますます言葉の壁もあって、業界に入れなかった。何か夢みたい。有難う、ジョージ」
「俺は何もしてないよ。アンソニーとかが気をまわしたんだろうけど」
「ううん、あのね、ジョージと出会ってから、私、嬉しい事ばかり続いてるの。運命なんだなあ、ってつくづく思ってる」
「それは、紀恵が俺に相応しいから。分かった?」
髪をやさしくなでられる。ああ、私ってずっと……こうやって支えてくれる人が欲しかった。安心して、先に行けるように、ずっと見守ってくれる人。
これが幸せって、ことなんだ。
特に何も大げさなものじゃない。
側にいてあげて、側にいてくれる。そういう人がいるっていうのが、本当の幸せ。
また一つ、あなたを好きになった理由が増えた……嬉しい。