つ づ き 1
じわーっ、と、視界がにじむ。
な、何?私泣きたいの?
ジョージが私の顔を覗き込む。
「いいよ、紀恵。よく頑張ってるよ、俺には分かる」
うっ…うっ…
一つ涙がこぼれると、止まらなくなってしまった。どうしよう、誰かが見てるのに。
ジョージはただじっと、見守ってくれた。
暫く泣くとようやく涙が落ち着いてきた。
そして、ウェイターがそっとカップを置く。彼のカプチーノと、私のラテ。
カップは可愛らしいチューリップ型、白いカップに青いソーサーが彼、淡いピンクのソーサーが私。カップだけだけど、ペアルックだ。ちょっと恥ずかしい……、いやこんなことを考える私の頭も目出度い。
でも、ジョージは何も言わずに、私をずっと待っていた。私は、まず一口カフェインを身体にいれた。そして、
「有難う」
すると、ジョージがとても優しい眼をして、じっと私の顔を見つめた。
「何?何かついてる?」
「いや」
それ以上何も言わない。待っててくれる。それがとても心地よかった。こんな時間が私の人生にあるなんて、ほんと、思ってなかった。
「あのね……私、はたと気づいたの、結婚したら、仕事辞めなきゃいけないんだって」
こわごわジョージの顔を見たけど、彼はそのままやさしい眼をしている。私は安心した。こんな安心も、初めてだった。
「仕事を一生やろうと思って、でも日本じゃ多分難しいと思ったから、海外に来たのに……。寿退社なんて、日本にいても同じだったなあ、って思ったら、何だか気が抜けちゃって」
もう一口、飲む。
「国籍は別に気にしないと思ってたんだけど、いざ、自分が日本人じゃないんです、ってなると、私っていったい誰だろう、って考えちゃって……」
ふわふわと、もう一度彼の手が私の頭をなぜる。
「特権階級なんて大嫌いで、君主制も受け入れられないと思ってたのに、自分がそうなっちゃうなんて、皮肉だなあ、って思い始めたら、何か、自分自身の裏切りみたいな気持ちになった」
別にレディになんてなりたくなかったし、必要ないと思ってたんだ。
「俺が無理強いしちゃったかな?」
「ううん、やっぱり、きっかけって必要だったろうし、ジョージはちゃんと真剣に私の将来を考えてくれてるんでしょ?だから、本当はこんな気持ちになっちゃいけないんだけど」
「そんな事はない……。俺、かなり必死だから、紀恵を囲い込むのに。もしかして紀恵には王宮暮らしは向かないかもしれない。それは承知の上だ」
「そんな……」
「はっきり言えなかった俺も悪いよな。紀恵、俺は本気で紀恵と一生一緒にいたいんだ。駅で知らない人間に理由も聞かず、言われるまま切符をくれて、おまけにお小遣いまですんなり渡してしまう。親切というか、擦れてないというか、そういう純粋な人間と、俺は一生を過ごしたい」
それは私が子供っぽいって事?世間知らずだって?
「単に……お返しだもの。いつもブルテリアの人には助けてもらったから、自分もなるだけお返しするようにって」
「そういう気持ちが、俺には心地いい。本音を言えば、他には何もいらないんだ。変に王族に夢を持っても困るし、権力志向はお断り。ブルテリア国民に対して、責任ある態度で、世話を買ってでも出来る人間が、俺にとっても、国にとっても必要なんだよ、紀恵」
じん、と身体の奥が疼く。全身全霊、求められているみたい。引き寄せられてしまう。逆らえずからめとられてしまう。あまりの渇望感に。
「私でも、役に立てるのかしら?ブルテリアの為に……。ううん、本当は、日本も、そして世界中の国の為に」
「インターネットの普及で、国境なんか意味をなくしてしまった。新しい王族観を築かないと、ブルテリア王国は崩壊してしまうだろう。それには新しい血が必要で、ある程度政略的な意味が入っているのは認める。けど俺は、限られた選択肢の中でなら、紀恵が一番だと思ったんだ。それでも俺を受け入れてくれないんだろうか」
思わず笑ってしまった。政略結婚。確かに、外国人と結婚することで、ブルテリア王国はまた新しい一ページを刻むだろう。
「有難う、本音言ってくれて。ジョージは新しい歴史を作りたいのね。それは私も賛成できるわ。王国は変わらなければ」
そう言いつつも、何だかな。やっぱりジョージは私を一番に愛してくれてないんだろうか。限られた選択肢の中での、最良ってだけなんだろうか。いや、私がまぜっかえしているだけなんだろうか。しかし、そのままジョージは言う。
「でも最低限の事は身に付けておいた方がいい、絶対に。今までの伝統を踏襲できないとなると、外野がうるさい。だから、急かしてしまった。早く紀恵に受け入れてもらいたかったから……」
ふっ、とジョージが私を見つめる。頬が赤い。え?照れてくれてるの?
「でも、いつもいい子でいなくていいってば、紀恵。俺結構適当だから、そんなに気にしなくていいよ。あのさ、何度も言うけど、国家の事考えてなくたって、俺は知らない子に親切に出来る紀恵に恋をしたと思う。だから、全部さらけ出してほしい。難しいと思ったら、少し時間を掛ければいいし、無理なら、他の手を考えるんだから。俺に任してくれよ、少しは」
俺を頼ってくれよ。十歳下の少年が拗ねているのが見えた。
「う、うん。フィニッシング・スクールはやっぱり、夜中までだから疲れちゃって……。プロジェクトも、ストレス溜まるし……」
「うん、そうか。今は、プライベートレッスンだっけか?」
「うん。移動は車回してもらってるから、助かってるけど。何だか疲れちゃった」
「そうだよなー。ブルテリア語だけじゃなくて、マナーのレッスンも王宮でやるか、どうせプライベートなら、教官に来てもらえばいいんだ」
「え、それは……」
「俺の離れへ、引っ越ししてくれれば一番いいな。紀恵は部屋の事や家事とか何もやる必要ないし。勿論、時間ある時は自分でやってもいいけど、今は勉強に集中した方がいい」
「で、でも、一緒には住めないでしょう」
「今の状態では無理だけど……、でも、紀恵、一緒に住んでほしい……」
それがプロポーズだと、分かるまで二秒掛かった。
「あ……」
「これから一緒に、指輪を選びたいんだ。早く飲み干してここを出よう!」
これ、見つかったら給料カットじゃない?サボりの範囲超えてない?
「考えるなってば」
「だって……」
「いいんだよ、たまには息抜きも」
にーっ、といたずらっ子のような顔をジョージはする。その時、彼が一瞬あの時の駅で出会った「彼」に見えた。
不思議だ。私の周りの人間は、みんな去って行ったのに。
ホーンで出会った人たちも、海外へ次々と旅立っていったのに。
彼は……
私の、彼氏は……
カップの残りを二人で一気に飲み干して、お会計を済まして(ジョージの奢り)、二人で手をつないで外に出た。
タクシー乗り場の横に、すーっと国用車が止まる。偶然過ぎるよなあ、と流石にジョージも苦笑したが、ドアを開けてまず私を中にいれ、そして自分が乗った。
「緊張するなあ、逃げないでくれよ、紀恵」
「う、うん。何かワクワクしてきた」
何か楽しい。こんな真昼間に、平日に、男性と一緒に車に乗ってる。
しかも……
「どんなデザインがいいか、色々考えてたんだ。店のディスプレイ見るのが楽しみだなー」
などとぶつぶつつぶやいているのが聞こえるのも、素敵。
きっとこれから、どんどん素敵なことが起こるんだよね、ジョージ。
私の……王子様。と、その時は何とか立ち直ったものの。
……本格的に相手の事をもっと知らなければ。そうでなければ、受け入れる事も出来ない。拒否していると思われる。(そして、結構それは当たり。)
婚約発表を間近に控え、とうとう首輪を、いえ、もとい、指輪をはめられてしまった。嬉しい事は嬉しい、三十越してとっくに諦めていた結婚だ。しかも相手は、私に運命を感じてくれて、一所懸命気遣ってくれる……。
私の何が駄目なのか。
こんな素敵な王子様に求められて。