目 覚 め 3
フィニッシング・スクール、通称マナースクールはセミ・プライベートが二週間、あとの三週間はプライベート・レッスンで申し込まれていた。
最初は、テーブルでの座り方とテーブルマナー、そして立居振舞の基本マナーで、実技が中心。セミ・プライベートでは、私を含め三人が生徒で、全員外国人。あとの二人は会社からの派遣だという。立場上社交マナーを身に着けなければいけなかったとのことだった。
私は高校でテーブルマナーを学ぶ機会もあったし、立居振舞の勉強は日本の秘書講習でやっているので、一日目は無難にこなせた。しかし、ロイヤルファミリーへのマナーや、宝石、香水、ワインの選び方などや、勲章、社交界その物の知識は全くないので、プライベートでしっかり教えてもらうことにした。まあ何とかなるだろう。
きちんとスポンサー(ジョージ)に携帯メールで報告し、差し回しの車でまず王宮に向かった。もう夜十一時近い。正直疲れたが、親が来ているのにスルーはまずいだろう。
ジョージの住居に移動した二人に会うと、結局はジョージの言う通り、交際宣言は認めるとのこと。何とか一歩を踏み出せたことにほっとした。話がほぼ終わるころ、ジョージが部屋に入って来た。
「お疲れ、紀恵さん。ご両親はここで一泊後、お昼前に専用機で日本へお送りするよ。お忙しいらしい」
紀恵…さん?なるほど。
「明日の朝帰るって?そうなの?もう少しゆっくりしていけばいいのに」
そうは言っても、急に呼び立てたのだから、父も母も用事があるだろうことは想像がつく。
「まあまた来るわよ、紀恵。お父さんも忙しいし、またね。お前も明日会社でしょう?もう帰りなさい」
母が私を促すように言った。はいはい分かりました。邪魔者は消えます。
「車まで送るよ、紀恵さん」
ジョージが言って、二人で廊下に出た。
「すっかり懐柔したわね。どうしたの?」
「俺の誠実さを分かってくれただけさ」
「あ、そう。ま、一安心だわ、親が分かってくれたのは有難い」
「それはどうかなー。婚約はまた改めて、って事だから、まだ信じてないんじゃないかな、俺たちの事」
俺は、紀恵以外と結婚する気はないけど。
また心が温かくなる。私の気持ちはゆったりと落ち着いていく。
「私も……ジョージがずっといてくれたら、って思ってる」
ゆっくりと抱きしめられた。
「このままでずっといたいよ。本当に長い……。でも明日は交際宣言の記者会見だから、やっと進めるよ。明日の朝、父上と母上はご両親と一緒に朝食を取るから」
「私もいなくていい?」
「俺も呼ばれてない……。親だけの話し合いだ。上手くいくよう祈ろう。行かなくたって関係ないが、親同士俺たちを心配してくれてるんだ」
だから大丈夫さ。任しておけって。
ああ、どんどんあなたが好きになるよ……。
しかし夢と現実は違う、とはよく言ったもので、現実の私の生活には甘い時期なんかこれっぽっちも許されなかった。記者会見の後は、とにかく勉強ばかり。ほとんどわざとだったろうが、勉強に忙しすぎて、仕事の時間以外は何をすることも出来なかった。ジムだけは朝の出勤前に行くことにしたが、全体的な時間は減ったので、ダイエットもままならない。
そしてプロジェクト。
私は今、地道にお客一人一人に電話をかけ、アンケートを取っている。
これがまたかなり地味な作業だ。外国人に掛ける場合はまだいいが、日本人はまず外線を取らない。取るまでかけ続けろ、という話もあったが切りがないので、四回掛けてみることに。
しかし続けて四回掛けるわけにもいかない。日や時間をずらす。となると、自己管理が求められ、かなり神経を使った。
そしてこのお客……。
開口一番「何故なんですか?」とヒステリー声。
私「ですので、わが社のサービス向上のため、お客様のご意見を頂戴したいと思いまして……」
客「何でこの番号なんですか?なんで今掛けてくるんですか?」
私「電話番号はわが社にご登録いただいたものです。ご都合が悪いようでしたら、また後日ご連絡差し上げます」
客「登録したって、電話しなくてもいいでしょうに!今忙しいんです」
私「かしこまりました。ご希望のお日にちなどございますか?」
客「ずっと忙しいのよ。あなたねえ、失礼なのよ、いきなり」
私「はい。それは申し訳ございません」
客「もうあんたと話したくないから」
ガチャン、と切られた。
ま、よくあるパターンだ。何事か、と思い知らない番号の電話を取ると、何の事はない、昔の注文についてのアンケート。思い出せないし、思い出す手間も惜しい。
なのにまた連絡するって、迷惑なんだよ、そんなの。
……と正直に話してくれれば、私も咲子も何とか上にあげて、アンケート内容の修正や、電話連絡方法の変更をするのだが、そう主張するお客は全くと言っていいほど皆無。
その代り、逆切れである。日本人の会話能力は、年々落ちているのだと確信せざるを得ない。年齢関係なく、四十代五十代でも平気でキレる。電話相手に、外国からの連絡だから、余計態度が横柄になる。
本当に日本人の悪いところだ。外国商品の契約をしたのだから、日本の商品といろいろ違う点はあるだろう。しかし納得して購入したのではなかったか。
そして日本人が応対した途端、「日本人なんだから、こっちの要求が理解って当たり前。そしてその通りやるのが当然」という押し付けは止めてもらいたい。全海外邦人の共通の願いだ。
だから日本人市場は面倒だ、ということになり、ますます日本人は『お客』として見られなくなる。市場は企業の独占となり、値段も種類も限られた選択のままだ。こんな簡単な数式に、何故多くの日本人が理解できないのかが、理解できない。
ビビアンが私を見て言う。
「王子殿下の婚約者に対して逆切れなんて、身の程知らずだね、って怒ってやりたいわ!」
「まあまあ。仕事では身分は関係ないよ。でも有難う。たまにいるよね、空気読めない客。仕方ない」
勿論、お客様も空気を読めないが、社内も空気を読めない人間でいっぱいだ。
電話の記録を何気に斜めに見ていたが、ある社員は必ず日時を変えずに、一人のお客に電話していた。四回電話しているが、一回目は十五時二十分、お客は出なかった。そこで、二回目は十五時三十五分。三回目は十五時五十分、そして四回目は十六時。
ニールにメール。
「この電話記録を見てください。この社員は、すべての連絡を二時間以内に終えていて、全ての件が『該当回答なし』としています」
本当にあきれる。記録を残すのだから、あとで誰かがチェックすると思わなかったのだろうか。
この社員は、少なくとも百件は手掛けていたが、一つも成功例がなかった。
空気読めてない。
そして、この会社がそういった行動を許しているというのも問題なのだ。
しかし、現地採用の身、仕事を失うわけにはいかない。市民権がない以上、国籍がない以上、ビザがないとブルテリアに滞在できない。雇用ビザには、スポンサーと言って、保証人が必要で、今の会社が私の保証人となって、現地採用の雇用ビザを申請している。
転職したら、その新しい会社が保証人とならなければ、ビザは申請できない。
申請したとしても、批准してもらう保証もない。だから、大抵の会社は、市民権のある日本人を雇うのだ。ビザ却下のリスクを抑えるためだ。
だから、たとえ会社に不満があっても、大っぴらに批判するのは憚られる。
と、内線が鳴った。ニールからだ。
「はい、紀恵です」
「ちょっと会議室で話せませんか?」
「かしこまりました」
私は先に入って、ニールを待った。ニールの方が職位は上なのだから、当たり前だ。
「紀恵、御免、あれからケビンに呼ばれて…。待ちましたか?」
「いえ。ニールさん、何でしょうか」
私はノートを広げている。ペンを軽く持って、ニールの言葉を待った。
「いえいえ。まずはご婚約おめでとうございます。まだ個人的に申し上げてなかった……未来の妃殿下に」
「そ、それは気が早すぎると思います、ニールさん。まだ交際宣言ですので」
「あれ、ジョージを信じてないんですか?いや実は、この頃奴はだいぶ煩いんですよ。紀恵が冷たいって」
「はあ?ちゃんとお昼一緒に食べて、外出は国用車なのに?」
「男心が分かってないよなあ、紀恵も。婚約発表が何時かも気にしてないとのことですが?」
「そ、それは……」
そう、交際宣言の後、次は婚約発表、それは分かっている。
でも、ジョージは結婚の申込をしてこないし、ウチの両親も何も言ってこない。私から何か言うのも変だ。
「僕は分かってますが……。紀恵は慎重すぎる、たまには羽目を外さないと、続かないんですよ」
「どういう意味でしょうか」
「紀恵はきちんと役割を果たすし、結果も出しています。寿退社なんて勿体ないですね」
ずき、っときた。そう、結婚の為に仕事を辞めなければいけないのだ。
「あと、ジョージは話しましたか?国籍の話です。あなたは、日本国籍を捨て、ブルテリア国籍を取得しなければならないのです」
「……分かってます」
王族になる以上、他国籍を所持することは絶対に許されない。
「分かってるんですか?」
ニールは畳みかけてきた。どう意味なんだろう。
「どう意味でしょうか」
「ジョージだって迷ってるんですよ、いや、申し訳ないと思ってるのでしょう。だから、婚約発表じゃなくて、交際宣言だったんですよ」
「そんな……!」
迷っている……。何に?
私が?彼が?
「大丈夫ですか、紀恵?」
一瞬呆けていたらしい。ニールの声がいきなり脳内に響く。
「あ、だ、大丈夫です。あのう、ニールさんは子爵ですよね?」
そう言えばと思い、初めて本人に確認するなあ、と改めて思う。
「ええ」
「何で仕事してるんですか?ご実家は代々武官だと聞きました」
「そうですよ、その内軍隊に戻らなければいけません、それが自分の役目ですからね、生まれた時からの」
「だったらどうして?」
「どうして普通の会社にいるかって?勿論そちらの方が好きだからです、肌にも合うと思ってますよ。でも……、貴族階級というのは実際は不便な身分です。個人の資質より、家柄の背景が優先で……まあ最も、先祖代々資質が受け継がれてきているからこそ、我々貴族の存在意味がありますが、とにかく、僕個人の好みなどどうでもいいわけです」
「何だか……益々特権階級に対して、不公平だと感じます。私、あんまり身分制度とかに賛成じゃないんです」
「それで……いいんですよ、紀恵。だからジョージはあなたを選んだんだと思います。王族に対する絶対服従とか、貴族に対する憧れなどあったら、どんどんジョージが国民と離れていってしまいます」
彼の気持ちは知っているでしょう?王族としての特権を振りかざすような人に見えますか?
「いえ……。むしろ、私たちに馴染もうとして、実際よくやっていると思います」
私の足のふみどころもないウサギ小屋に来ても、スペースはあると言ってくれた。
あれはきっと、彼なりの優しさ……。
「だから、紀恵も早く、彼を信じてあげてください」
何だか改めて気分が重くなったような気がして、会議室の外へ出ると、ジョージがいた。
「……何で?」
「俺がいたらまずいのかよ。本当は中に入りたかったのに、我慢したんだ」
うん、でも今は話したくない。
そう思うと、チラリとジョージは私の顔を見た。
「俺、強引過ぎた?」
……
「急ぎ過ぎた?」
……
「どうしたら迷わずに俺を選んでくれる?俺の事やっぱり嫌い?駄目なのか?」
「もう、違うって。ただ……」
口をつぐんでしまう私を見て、ジョージは下唇を噛んだ。
「よし!ちょっと話そう」
ぐいっ、と私の手を引っ張る。
「え?今仕事中……」
「サボろ!お茶に行こう!」
そのままずるずると引っ張られ、ちょうど来たエレベーターに押し込まれ、同じビルの中の喫茶店に連れ込まれた。
「何飲む?食べてもいいよ、俺のおごり。俺は……、カプチーノ」
ウェイターが私の方を見る。
「私は……、ラテ、ダブルで」
カフェインが必要だと思った。
私たちが座っているテーブルは、入口から少し離れてはいるが、全方向オープンスペースのため、周囲から丸見えである。つまり、サボりが見え見えだ。
「紀恵ってさ、サボった事ないのかよ、学校とか、会社とか」
「そんなのないわよ……」
「そこがいいとこだけどさ、フィニッシング・スクールも真面目に通ってるし、フランス語は基礎がもう終わるって?あとはブルテリア語だなあ」
「そっちだって、片言なら言えるもん」
「すごいよなあ、紀恵は。頑張り屋さんだ」
ふわっと、彼の右手が私の頭をなでた。と、じわっ、と私の眼がにじみ始めた。
え……、な、何で?