あ り の ま ま 1
あなたはいったい誰なの?
きっぱりと尋ねるまで、かなりの時間を要した。でも今なら問える。あなたは誰?
「誰って……フィアンセだよ」
誰かが答えた。ついに答えた。
「私は婚約してないもの。一人だよ、嘘言わないで!」
夢の中なのに、なかなか自分の思い通りにならない。
それで目が覚めた。
土曜日に勇んでジョギングに出たものの、その後の「社交」ですっかり精気を抜かれた私は、日曜日は「寝てるだけ」で一歩も外に出ずに過ごしてしまった。全然健康的じゃない。
そして今日は会社だ。たるい。
自分の机にたどり着くと、咲子がまずは愚痴を始めた。
「あのプロジェクト、いったい誰が邪魔してると思う?」
「はー?どのプロジェクト?」
この会社は姥捨て山のように、しりすぼみになった様々なプロジェクトが始まっては消えるのが常だ。
「プロジェクト・ダイヤモンドよ!翻訳業務簡略化のプロジェクト」
ああ……あれね。
海外で驚いたのは、プロジェクト自体に名前があるという事。プロジェクトを始めるにあたり、リーダーはまず名前を公募する。あほらしいに尽きるけど、それが外国では当たり前らしい(多分英語圏だけだろうけど)。
ちなみにニールのプロジェクトは、プロジェクト・レインボーだ。実は私が名付け親である。
「ダイヤモンド、まだやってたのね……」
とっくに消えたかと思ったのに。
「これからでしょうが。何で我々が一本一本メールを翻訳しなくちゃいけないの、時間の無駄!」
「ダイヤだから、消えないんだなー。世界で一番硬い物質だけあって」
私がしみじみ言うと、咲子はちょっと真顔になって、
「何か紀恵、ヘン。何かあったの?」
「ヘン?いや、何もないけど……。翻訳業務のシステム化は確かにマーケとカスタマーサービスの悲願だけど、他の部署は全く関係ないからなあ」
「そうなのよ。どうやら新社長がごねたらしいの。こんなのいらない、って」
「は?ああそうか、ダイヤは前社長の発案だもんね。という事は、お蔵入り決定。私も残業決定、と」
まだまだ忙しくなるのだなあ。
ところで新社長、なかなかやるではないか。彼は元々中東支社にいて、去年ブルテリアに赴任してきたイギリス人なのだ。
前社長は、ドイツ系ブルテリア人だったので、前社長の方が外国語関連にお金を出したと思われる。(だから、私も咲子も雇われたのではないか、と思う)
「レインボーはどうなのよ」
「うん、ニールがいい味出してるからねえ。元お役人がどうしてウチの会社に来たのか不思議だけど、三か月は無理にしても、六か月あれば何か出せるペース」
そうなんだ……。かなり有能だったんだ、あの人たち。私、王族とか、貴族とか聞くと、逆差別してしまってるのかも知れない、と感じた。イングリッド嬢も、ルイーズさんも、真剣だったではないか。
でも。
やっぱり、必要以上に近づかないようにしなければ。あまり生活レベルを上げると、下げにくい。自分とは違う世界の人なんだと、きちんとわからなければ。
あのデザート、美味しかったな。でも、それで終わり。
ぱっと、頭の中で、花束を抱えたカップルが見えた。バレンタインの花だ。
ブルテリアでは、男性が女性に、大きな花束を贈る。しかも、職場に。これがステイタスなのだ。プライドの高い女性は、自分で自分に匿名で花を職場に送るとか。その気持ちは分かる。見栄と言うわけではないけど、何ももらえない二月十四日はあまりにみじめで、悲惨なのだ。私はブルテリアに来てから、バレンタインがすっかり恐怖になった。
そして、日本人男性がいかに勇敢かも知った。何ももらえないあの寂寥感を、物心ついてからずっと耐えてきているなんて!
耐えられない……。痛い……痛い!
思わず叫びそうになる心の痛みが続くかと思われたのに、なぜか突然消え、またふわりと温かな気配に包まれた。
……助かった……。咲子が、
「プロジェクトの進行で怒ってるの?残業辛いもんね」
と言った声で我に返った。何を考えてる、私?
「残業代しっかりもらうから、大丈夫よ。日本と違って、こういうところはきちんとしてるんだもの。活用しなきゃ」
そうねえ、と咲子も同意。自分がバレンタインの痛みに金縛りにあってたことは、気づかれずに済んだらしい。
呪縛……痛み……。
心の中って、ほんと、複雑に出来てる。
そこで内線が鳴る。マンチェクさんからだ。
ごめん、あとで、と咲子に言い、咲子が離れたのを待って、受話器を取った。
「紀恵です」
「おはよう。ニョッキーニ持ってきたよ、今日一緒に食べようよ」
「き、今日ですか。いいですけど、パントリーだとかなり目立ちますよ」
「大丈夫だって、それとも外がいい?」
「いえ、社内で結構です」
護衛がうじゃうじゃ湧いて出てきても、楽しくない。ここ(社内)なら、限られている。
「じゃ、ランチタイムに。パントリーに入ってて。俺はこれから会議あるんで、机離れるけど、メールは見るから」
ちなみにここでのメールとは、勿論会社のメールです。
「分かりました。ではまた」
そう、ヘンなのは、このせいかもしれない。
初めて体験することばかりだった。そして、「出会い」……。
別れ際、マンチェクさんは心外だとばかりに言ったのだ。
「俺は合コンだなんて一言も言ってない。今日は新しい人たちに出会えただろ?出会いはあったじゃないか。何か文句でも?」
……ございません。
それにまあ、勉強になったことはなった。それは感謝している。
まあ彼なりに、あの時のお礼をしようとしてくれたんだろう。しかし、私が絶対君主主義反対派だと知っているんだろうか。いくらなんでも、いきなり喧嘩を吹っ掛けたりはしないけど、でも、社会体制の話なら、いくらでも出来るんだが。
私は貴族のお知り合いもいない(いなかった)ので、生活や考え方などは想像するしかないんだけど、やっぱり封建社会って間違っていると……。
そこで、マンチェクさんの言葉を思い出した。プロジェクトの話での。
「……王族と同じだな……。他人事だと思っている……。」
もしかして、マンチェクさんも、社会体制について考えていることがあるんだろうか?いやそれは……
それは、彼の身分上、危ない思想だ。
パントリーに。
ランチタイムまで、何も集中できなかった。しっかりしろ、自分。
パントリーでは、いくつかテーブルが並べられ、電子レンジも二台備え付け、自販機や冷蔵庫もあるので、ランチタイムはにぎわう。
ただ今日は人がいなかった。
いや、正確にいうと、私とマンチェクさんだけ。これは誰かが何かをしたのでは、はっきり言わせてもらうなら、社員全員にパントリー使用不可をこっそり出したのではないでしょうかね、殿下!という私の殺気をマンチェクさんは完全スルーして、お弁当箱を広げる。
「ささ、見て。これが母上自慢の手料理なんだ。俺が学生の頃は、よく弁当作ってくれたから、慣れてるよ」
「お弁当だったんですか?」
これは珍しい。ブルテリアでは、学校はほとんど給食方式だ。しかし日本のような配膳ではなく、アレルギー体質の学生もいるため、カフェテリア方式を取っている。
「気が向いた時だけね。半分くらいは学食にいたよ、俺も。ただあんまり外食とかはした事がないのは事実。友人たちと食べ歩きとかもしたけど、俺出不精でさ、あんまり詳しくないんだ」
「でもデートとかはするんでしょ?」
何気にこれも好奇心だが(しかも週刊誌レベル)、マンチェクさんは吹き出した。
「それ、聞く?……俺の元カノってさ、公爵家だからさ、お互いの領地に行ったりするだけでかなりこなせたよ」
小さめのお弁当箱が二つ、大きいのが一つ。
大きいのを開けると、サラダ。
小さめのやつは、
「ニョッキーニだな。少し温めるよ」
「私がやりますよ!」
「いいよ、俺だってレンジくらいは使える。紀恵は座ってて」
実際はかなり手馴れているようだ。パントリーのレンジなんて、使うことあったんだろうか。
「あの……、週末はどうだった?感想を聞きたいなと思って」
一般市民から見た王族方へのご感想、ですかね。
「楽しかったですよ、勿論。何だか恐縮ですよ、私の為にわざわざ陛下や妃殿下までご臨席されて。お忙しいのでしょうに」
「嫌だったのか?」
「いや、そういうわけではなく……」
突っ込み激しいな、マンチェクさん。私も折角言葉を選んでいるのに。
「正直言うと、びっくりしたし、気疲れしました。自分って、ああいう場面には向いてないですね」
マンチェクさんは満足げにうなづく。
「そうこなくっちゃ、紀恵。でも俺の見たところ、紀恵は向いてるよ」
「はあ、ジョギングに?そう言えば金木犀を見たのは感激でしたね。アンソニーさんやルイーズさんにもお礼を申し上げます」
チン。
ちょうどあったまったようだ。
あちち、と言いながらマンチェクさんはお弁当箱を私の前に置いた。もう一つは自分に。
スプーン、フォークとお箸。面白い取り合わせだけど、でも、便利。
いただきます、と言って口に運ぶ。
「見た目小さなマカロニなんですけど、このもっちもち感。美味しいです」
「ニョッキーニは多分、イタリアから来たんだ。でもトマトがヨーロッパに伝わる前に、ウチに来たんだろうって。だからトマトソースを使わないわけ」
まんま炒めるか、普通のスープに放り込む。
「これ多分、ラーメンの汁に入れても美味しい気がします」
「ラーメンかー。あれも美味いよなあ。この前日本に行ったとき、三店制覇したからなー」
ブルテリア人は日本のラーメンが大好きなのだ。何故なのかはわからないのだけど。
「紀恵ってさ、どうしてブルテリアに来たの?」
これで百万二十回目くらい同じ質問をされてる、と混ぜ返そうとしたが、何だか彼は真剣だった。
ドキン、ドキン……
心臓の音が跳ねる。な、なんなのこれ?
「いや、特に理由はないんですけど……。日本で会社がつぶれて、再就職って結構大変なんですよ。条件がなかなか折り合わなかったので、海外転職も考えてたんです」
そうなのよね。特に大した理由があって、海外生活を始めたわけではなかった。
「ブルテリア、特にホーンは、日本企業も進出していて日本人の求人も他の外国と比べて多かったんです。あと、私自身何度もホーンに旅行してて、親近感もありましたね。ただ……」
「ただ?」
「ブルテリア語が難しいのが予想外ですね。ちっともうまくなりません」
そうなのだ、これがネックだった。
タイ語やロシア語のような、独特の文字体系を持つブルテリア語。活用の多いラテン系と似た構造を持つ言語で、日本人でも中々話せる人はいない。
話せたら、確実にキャリアアップになるのかも。
少し考えよう。
「英語で普段は足りるんだろうけど……、全然話せないのか」
ため息混じりに答えるしかなかった。
「読み書きは何とか。でも、話すのは全くです」
はあ。
こんなはずじゃなかったよな。
「冷めないうちに食べなきゃ、紀恵。ま、いいじゃないか、英語がそれだけ出来れば。サラダも食べようよ、あの時のシザーズサラダだからさ、シェフに言って作ってもらったんだ」
はい。
「俺もさー、日本語もう少し上手くなればなあと思ってるけど、語学って難しいよな。好きなだけじゃ進まないし、嫌いだとお話にならないし」
「そうですね。本当は、自分を甘やかしているだけなのかも知れないです。今気づきました……」
そう。もう少し、この国と真正面から取り組まないと。何せ、この国で暮らしているのだから。
「あとはフランス語か、嫌い?」
「語学の勉強は概ね好きですよ。フランス語出来たら格好いいなあと思ってます」
「俺出来るよ!格好いい?」
「あ、まあ……」
「何だよ、やっぱニールがいいのか。ほんと王族って、旨味ないんだよなあ。貴族たちからは祭り上げられるけど、その他はさっぱりだ」
「モテたいんですか?十分モテると思いますが」
自分の声はかなり冷たくなったと思うが、致し方ない。二十五歳の飛び級しているプリンス。何がモテないものか。
「貴族からは追っかけまわされてるが、そんなのモテてる訳じゃない。それは分かってくれるだろう、紀恵」
急にむくれだすマンチェクさん。意味が分からないでもないが、それを世間ではモテるというのではないかな。
しばらく二人で無言でランチを食べる。あの新鮮野菜はみずみずしさを失わず、そのままお弁当箱に収まっている。素晴らしい、どうやったら長持ちさせられるんだろう。普通しなってしまうのに。
わかったよ、と一人小さくマンチェクさんは呟く。
何が?と思い、私は視線をお弁当箱から彼に移した。
「紀恵、これからジョージと呼んでくれないか」
「は?」
「ジョージ。忘れてるかもしれないが、俺のファーストネームだ」
「はあ?」
私は今、お弁当のサラダをどうやったらお昼時間までみずみずしく保てるかという事を考えていたのですが、それがジョージ?
「分からないか?」
……個人的には、分かりたくありません、が回答だ。しかし何やら威圧感を感じる。急に、体温が上昇して、熱がこもってくるのがわかる。こ、これは……、いや、しっかりしろ、紀恵。よ、よし、まだ大丈夫。まだ、大丈夫……だ……。
「分かりますよ、ジョージってのは、マンチェクさんのファーストネームですよね、分かります。しかし何故私がマンチェクさんをそう呼ばなければいけないのかが分かりません」
一挙に言い終わると、流石に喉が渇いた。目の前のお湯を飲む。よくやった、紀恵!しかし、そこもマンチェクさんは動じなかった。想定内だったらしい。
「なぜ呼ばなければいけないか?それは俺が紀恵に呼んでほしいからさ」
なんてつまらないことを聞くんだ、とばかりにマンチェクさんは言う。
「呼ばれたらどんなに嬉しいだろう、と再会した時から思ってた。なぜ紀恵を覚えていたかも話したし、謝った。家に招待して親にもあった。で?」
「は?」
「俺たちは、友達だと思うんだけど」
おトモダチ……おお、そういう事か、そういう事ね。ええ、それなら分かりますよ、貴いご身分の方が、こんな外国から来ている下層階級のお端女(とほぼ同クラス)と、草の根国際交流されたいんですね。
「と、友達……結構です。はあ」
「じゃあ、ジョージって呼んで。今、呼んで」
「ジ……ジョージ……さん」
「さんはいらないよ!もう一度!」
「ジョー……ジ」
かなりの心理的抵抗を乗り越え、何とか名前を言い終わる。
「そう、紀恵。今週末もウチへ来るよな!」
……は?
ドク、ドク、ドク……
心臓の音が大きくなっている。心拍数も上がっているらしい。これって……
ウレシイ
心の中の声が言う。ウレシイ。
気を扱う人間がいるのか?ニールさん?それともジョージ?(本人の要望で以後こう呼ばせていただきます)
ジョージの目がまたきらりと光る。今度ははっきりわかる。
「あの、ジョージ?」
「何?」
「目光りました。本当ですか?」
ジョージはそう?、と言った。
自覚していないのか、わざとやってるのか。
それだけでも知りたい。知りたかったのに。
「また同じ時間でいい?今度はお茶にするから、兄貴と妹は多分いると思うけど、親はいないから、あまり気疲れしないと思うんだ」
「有難う……でも私なんかおばさんがお邪魔していいんですか?リサーチとかやりたいなら、わざわざ王宮じゃなくても、会社でも私協力しますよ」
今度は、ジョージが怪訝そうな顔を一瞬したのだが、
「いや、走るならあっちの方が良くないか?会社だとちょっと……やりづらいな」
まあいいや、あまり考えないでおこう。ほんの少し相手をしていれば、すぐ気が変わるだろう。十歳年上のおばさんに、何か他に意味がある訳もない。
「分かりました」