罠 1
とは言え、マンチェクさんは車で来た。
いや、正確にはお断りしたのに、私のアパート前で、待っていてくれたのだ。しかも、自分が運転しているとのことで、バンパーに旗はついていない。パッと見には、普通の自家用車に見える。
違うのは、車のナンバーで、『H.R.H.』とある。これを見れば、王族が載っている車だとすぐ分かる。すぐ、分かるのだから……
「紀恵、乗ってよ!」
と声を掛けられたとき、正直めまいがした。
しかし、持ちうる限りの忍耐力を駆使して、何とかOLスマイルを作り、
「有難うございます。私なんかが乗っていいのでしょうか」
「そのために待ってたんだよ。あ、俺ドア開けるから」
運転席からささっと降り、自然に助手席のドアを開けるさまは、本物の王子様である。
後部座席には、護衛の人が乗っていて、軽く会釈をされた。
私も会釈を返す。
なんかいやーな始まりだ。
「昨日は眠れた?」
屈託ない彼の笑顔。明るい声。
正直、ほっとする。
「いいえ、あんまり。どんな格好すればいいのか分からなかったし……。これでいいのでしょうか」
「大丈夫だよ、だって走るだけじゃないか。あとは任せてくれれば、上手くお膳立てするよ」
本気で合コンか?私の年齢だともう合コン参加は不自然だと思うんだけど。
「有難うございます」
「あのさ、紀恵。今は職場じゃないから、もっと普通に接してくれないかな」
まあ難しいとは思うんだけど、あの、駅で出会った時みたいに。
ちょっとすねたような、この時は過去に戻った気がした。
「えー、普通にしているかと思いますが。これからは気を付けますよ」
「うん、有難う」
ふわっとした雰囲気が広がる。マンチェクさんの運転は、安全運転そのものだった。若いのに、すごいなあと素直に思う。
「仕事はどうですか?慣れました?」
二人とも同じ職場なんだから、この話題が無難だろう。
「そうだね、でも今の会社、なかなかプロジェクトの進行が上手くいかなくてちょっといらつくな」
「それはまあ……。だから、お二人を呼んだんじゃないでしょうかね」
「無関心な人が多すぎる気がするよ。会社の将来なんて、気にしてないっていうか。いや別に、下の者がそうなのは分かる気するけど、上層部までそうだ、っていうのは、組織として問題だよね」
それは私も、常々感じていることではあった。
あ、そう言えば…
「眼鏡はしてないんですか?」
そう尋ねると、マンチェクさんは二、三度瞬きをして、
「実はコンタクト入れてるんだ。会社では童顔だから、わざと伊達メガネ」
「まあ。私もそうですよ、コンタクトだけど、PC用の眼鏡かけてるんです」
「そうだよね、ブルテリア人は、眼鏡を掛けた方が、ホワイトカラーに見えるしな」
そう。日本は見かけを気にして、コンタクトを入れる場合が多いが、ここブルテリアでは、眼鏡はインテリの証でもある。
大卒以上は、眼鏡を掛けるのが普通。
しかし、眼鏡は正直うっとうしい。そこで、コンタクトを入れ、職場にいるときだけ眼鏡を掛けるというのが、一般の正しいサラリーマンなのだ。
「今日はマンチェクさんも走るんですよね?」
これこそ、今日の目的にピッタリ合う質問であろう。
「ああ。いつも一人で走ってるから、今日は楽しみだな」
「私、ジムでよく走ってますから、まあ大丈夫だと思いますよ」
それは楽しみだ、と彼は繰り返した。信じてないな、とちょっとカチンとくる私。
まあそれはいい。王子で、貴族で、年下であれば、そりゃあ体力に自信もあるだろう。それはそのままでいい。
問題は……出会い、あるんでしょうね?
少し黙った私に、何を思ったか、マンチェクさんは言う。
「あの会社、王族と似てるなー」
「へ?」
あまりの話の持って生き方に、ほとんど素で答えてしまった。
「今起こっている事柄に、全く無関心なところが」
「はあ」
何と言って答えたらいいかわからない。
「プロジェクトさ、ある意味、会社の存在意義を問うものなんだ。正直、本社を他の国に移してもいいと思ってる」
「はあ?ウチ潰れるんですか?」
「いや、まあ……。今の状況だと、あまりに手続きが複雑すぎて、マーケひとつとっても、まともなものが出来ないよ」
……私はそのマーケの所属でありますよ、第二王子殿下。
「ケビンは……何と言ってるんです?」
我々の上司で、経営陣の一人でもある。
「ケビンはなー、あの人優しいよね」
「はあ」
「あんまり変えたくないんだろうな、色々。それがちょっとウザいかな」
ケビンはただの話好き、と思っていたので、マンチェクさんの話は新鮮だ。
「それって、プロジェクトに反対なんですか」
「いや、反対というより、プロジェクト自体をあんまりわかってないよな。俺が思うに、今回ニールが雇われたのも、大きな決断をする為なんだ。という事は、会社はとっくに方針を決めてるのさ」
「そんな……。ホーンのオフィスを閉めるなんて……」
まだ居住権も得てない、ただの雇用ビザしか持っていない自分は、いったいどうすればいいのだろう。
「潰すというよりは、経営方針の転換だね。折角国際的な人材が集まるのだから、もっと会社を国際的にしたいってこと。例えば……」
マンチェクさんは、青信号を待つ間、少し私の方へ顔を向ける。
「例えば、日本に支社を出すとしたら、紀恵は日本へ帰る?」
詰まった。
日本に帰るという選択肢は今のところない。しかし、今の会社を辞めるという選択肢もない。
「場合によりますよ。サラリーマンは社命に従います。仕方のないことでしょう。しかし、自分が今異動願を出すか、というのはまた違う話です」
「帰らないのか、日本に?」
少し嬉しそうな声に聞こえるのは気のせい?
「まあ今のところはないでしょうね。ロンドンだったら考えますが」
「イギリスならいいんだ」
「いや、特定の国というわけでは。ただ一般に、イギリスで雇用ビザを取るのは大変ですよ。それが、会社の都合で異動なら、簡単にビザ取れるじゃないですか」
ビザ。
これは、海外に住む外国人にとって、死活問題だ。
どんな国に行っても、入国には観光ビザが、勉強には学生ビザが、働くには雇用ビザが。
そして、ずっと住むには、永久居住権が。
それぞれ必要になる。
ビザは単にパスポートに記載された文字でしかない。
ところが、それをうっかり違えると、大変なことになる。不法滞在者となるのだ。
一旦不法滞在になったら、もうその国に再入国するのは不可能に近い。
だから、一旦不法滞在になったら、そのまま居続けるしかない。
移民局に見つかったら、強制退去。それまでは、滞在し続けるのみである。
「ビザの問題だけ?」
「そうですよ。もし今の会社つぶれたら、私の雇用ビザは無効になります。なので、もし職が無くなる予定でしたら、早めに言ってもらえれば助かります」
「……分かったよ。ちゃんと教えるから。咲子は大丈夫なのか?」
「咲子は元々旦那の家族ビザです。だから、旦那が無職にならない限り大丈夫なんです」
ああ、独り身ってほんと、寂しいだけではなくか弱い。経済的にも、社会的にもだ。
「あ、着いた。中に入るから、そのままでいいよ」
検問があるのかと思ったが、流石王子、顔パスだ。まあ、車のナンバーのせいもあるだろうけど。
五分ほど王宮内を車で行き、駐車場まで来て、ようやく止まった。
「着いたよ!ドア開けるから待って」
またさっと自分が先に降りて、助手席のドアを開けてくれる。自動ドアにしてくれた方が、よほど気が楽だ。ともあれ、車から降りた。
「まず宿舎に行って、荷物を置こう。それから、走ろうよ」
「はーい」
都心とは思えないほどの緑。新鮮な空気。これが、王宮なんだ。世間と少しずれてる。これが、特別階級の生活場所。
私たち(と護衛官)は、すぐそばにある建物に入り、マンチェクさんの示してくれた一室に、私は荷物を置いた。